古文漢文不要論 - 必要論への反論
古文漢文は、それ自体には意義はありませんが、
何故、いまだに、古文漢文が学校教育において延命しているのか
という問への理解は、
教育というものが人類の中心的な活動であることから、
人間社会全般を理解するためのヒントになると思います。
学習とは何か。何を学習するのが望ましいのか、という問への模索です。
私は学校教育における古文漢文の必要性に関する記事をいくつか読みました。
その中で、最もまとまりがよかったのが、なんと、Copilotによる回答でした。
Copilotとは、WindowsパソコンのMicrosoft Edge上で無料で使えるAI(Artificial Intelligence)を用いたサービスです。
人間が書いた記事には余談が多く、論理部分を読み解くことに苦労します。
それに対して、AIによる回答は簡潔であり論理部分しか存在しません(非合理の部分はありますが)。一定程度の説得力のある論理群を示してくれるのです。
1.賛否両論の紹介
私は、2024年2月7日に、このAIを使って次の質問をしました。
Copilotによる回答は次のとおりです。
次の4個のリンクはCopilotが表示したものです。
●「古文・漢文不要論争」が毎年こうも白熱する背景 東洋経済
●古典学習は本当に必要か 高校国語の再編きっかけに論争、学者や高校生が公開シンポ
●国語科における漢文教育のあり方について 文字教育としての活用 加藤美紀
●私たちに古文は本当に必要なのか、歴史を通じて本気で考えてみた|前田雅之
2.(参考)Copilotの問題点
上記のCopilotによる回答内の下方に、Copilot自身の意見が述べられていました。
私としては、Copilotの意見を求めていないにも関わらずです。
そこで、次の質問をしました。
これに対する回答は次のとおりでした。
AIであるにも関わらず「信じています。」と主張するところが、非合理的ですね。
このような論法であれば、理科の先生や社会の先生も自分が担当する教科にについて同じような主張ができますね。
なによりも、中立であることが期待されるCopilotが、国語教育学者や国語教員などの一部の立場に立って意見を述べているのが不当ですね。
3.古文漢文必要論への反論
さて、ここからが本題です。
Copilotが生成した古文漢文必要論に関する3個の論点と、それに対する私の反論は次のとおりです。
(1)「古文漢文は日本の伝統的な言語文化であり、国語の特質や日本文化と外国文化との関係に気づくことができる」への反論
人間は生きる時間が有限です。なので、短い時間で内容の濃い有益な学習をすることが必要です。
AIは生き物ではなく、永遠の機械ですので、少しでも価値があるならば「学ぶ価値がある」と無責任に主張するでしょう。
でも、人間は必ずその短い一生を終えるのです。
そして、新たに生まれた赤ちゃんは、ゼロから学び始めるのです。
なので、人間が学習すべきことは、できるだけ有意義性が高くなければなりません。特に日本の学校教育では働き方改革が叫ばれるほど、教育スケジュールが過密なので、非効率な学習は排除しなければなりません。
人類は英知を積み重ねています。この事実を無視してはいけません。古典に書かれた知識は偉大かもしれませんが、それを引き継いだ者は、新たな知見を追加し発展させます。なので、後世が書いた文献の方が有意義であるのは当たり前です。
こんな当たり前の人類の営みを無視し、敢えて、何世代も前の書物をありがたがるのは何故でしょうか?
それは、貴族崇拝です。身分社会制度の肯定です。民主主義の学びを阻止するのが狙いです。貴族には権威があります。その後光の影響で、彼らのオコトバは崇高なものに感じられるのでしょう。貴族が愛した作品を、自分も好きになることは、自尊感情を高めることになるでしょう。
教材が乏しかった江戸時代であれば、古典に学ぶしか他に方法がなかったかもしれません。しかし、現代の日本では古典よりも学習効率の高い教材が多く出回っています。現在を生きる者の著書は民主主義を前提に書かれているのですから、こちらの方が有意義であるのは明らかです。
方丈記で鴨長明が「水の流れは永遠で命ははかない」という趣旨を述べましたが、そんな文献を学習するのであれば、物理や生物を学習する方がずっと有益です。
「伝統だから」という理由で世の中では多くの行事が行われています。伝統がブランド価値を上げるように演出されています。
伝統を重視する人達をしっかり観察してみてください。彼らは過去の遺物をコピー&ペーストしているだけなのです。創造的なことは何も考えていないのです。考えているのはコピー&ペーストの方法論だけです。思考停止であることを正当化する用語が「伝統」なのです。
伝統を重んじる教育は、おそらく、日本人としての仲間意識を育てる、ということが目的なのでしょう。しかし、この場合の仲間意識は、貴族が中心になってしまいます。
教育は未来志向でなければなりません。そのためには、伝統教育ではなく、SDGsのようなものを中心にすることが望ましいと思います。
以上のことから、伝統だから学習する価値がある、という考え方は誤っています。
「国語の特質」は他の言語の学習の中で意識することもできます。英語学習の中で「国語の特質」を学んだ場合には、日本語と英語の両方の理解に役に立ちます。
また「日本文化と外国文化との関係に気づくこと」は、古文漢文ではなくてもできます。わざわざ古文漢文を通じて学ぼうとすることは学習効率が低いです。
(2)「古文漢文は現代語の基礎となる漢語や漢文訓読の文体を理解することに役立ち、文章表現の力を高めることができる」への反論
学校教育で古文漢文が無くなれば困る(学校教育における古文漢文の必要性)ということへの論拠にはなっていません。
「現代語の基礎」を理解するために古文漢文を学習することは非効率です。
「文章表現の力を高めること」には、英語表記も加えてみるとか、いろんな方向性があります。
(3)「古文漢文は日本の古典文学や思想を直接に読み取ることができる貴重な手段であり、文学的な教養や人間性を深めることができる」への反論
「教養や人間性を深める」ことは、どのような学問分野でも言えます。なので、このような主張は言っても言わなくてもどちらでも良いことです。
むしろ、「古典愛好者である我々は文学的な教養があり人間性が深いのである」と自己愛を表明した、というだけです。
古文漢文のコンテンツ(古典に記されている内容)が優れていると思う価値観があるからこそ、古文漢文の学習を推奨することになるのですが、そもそも、「古文漢文のコンテンツは優れており、学校の教科教育として実施する意義がある」ということをどうやって証明するのですか?
証明というものは第三者による評価が必要になるのですが、この評価を行っているのは国語教育学者や国語教員だけなのではないでしょうか。
民主主義社会ではなく、差別社会の中で生まれた文献(古典)から、「文学的な教養や人間性を深めることができる」とは言えません。
社会科学者や一般市民による合理的な評価も必要です。
なお、「文学的な教養」ということはありえません。文学というものは教養ではありません。何故なら、文学は主観だからです。ただし、この議論はここではやめておきます。ハナシが長くなりますし、文学や教養という言葉に対する定義が人によって異なるかもしれないためです。
(参考)
以上