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古文漢文不要論

古文漢文は、民主主義という発想が生じる前の遺産です。ですから、学習しても意味はありません。

古文漢文を勉強すればそれを教訓にできる、という発想があるかもしれません。でもこの発想は、科学は進歩し時代や環境は変化する、という事実を無視しています。
紫式部むらさきしきぶ生き様いきざまが今後の日本の将来に役に立つわけがありません。



1.学習の意義

学習は、将来を見据みすえて行うべきです。
30年後には社会はどのようになっているだろうか、という発想が重要です。

歴史を学習するにしても、それは、現在や将来の社会問題を解決する素材として学習すべきです。
肝心なのは、我々が今生きており、そこにある危機(社会問題)をどのようにするのか、です。

残念なことに、何の問題意識もないまま、人文科学系の学習・研究が行われている例が多いように感じます。
人文科学のコンテンツが趣味娯楽化しています。

よく挙げられる例は、「春は揚げ物」です。
「春は揚げ物」の含蓄が理解できたとして、それに何の意味があるのでしょうか。「俺って、古文漢文の教養がある!スゴイ!」という自己愛はあると思います。

大河ドラマに出てくる古典の文言が理解できるようになるとしても、中学・高校生時代という貴重な若い時間を消耗してまで古文漢文を学習する意義はありません。ドラマというものは、しょせん、視聴者受けを狙った架空のハナシなのです。架空の世界に耽溺するよりも、「情報」やSDGsを学び、現実世界への理解を深める方が有意義です。

昭和の初期までであれば学習の素材が不足していたかもしれませんので、古文漢文を教育素材に選択せざるを得なかった時代があったのかもしれません。
しかし、現代では、教えるべきことが多すぎて、学校の教師は忙しく、「働き方改革」が叫ばれているのです。教師の数を増やすとか、教える内容を減らす必要があるのです。教育環境が時代とともに変化していることを素直に認識する必要はあります。

「役に立つ・立たない」という議論は丁寧に行う必要があります。
定型労働者の立場からすれば、古文漢文を含めて、多くの学校教育の教科教育は「役に立たない」です。
しかし、創造をする職業の立場からすると、学習した全ての事象が創造の素材になる可能性を秘めているのです。
なので、古文漢文であっても、(創造をする職業人にとって)「役に立つ」とは言えます。
しかしながら、知識というものは後世の努力によって発展していくものです。古典のコンテンツも進歩するのです。古典を、そのまんま学習する意味はないのです。

私の考えをまとめると次のとおりです。
(1)教科の優劣:最新の教材(例えば、「情報」やSDGsなど)に比べて、古文漢文は趣味娯楽であり学ぶ価値は低い。
(2)コンテンツの評価:古文漢文のコンテンツには人権や民主主義という発想がない。人文科学の学習において、人権や民主主義という発想の無いコンテンツは排除すべきである。
(3)教育環境:「働き方改革」の状況を考えると、優先度の低い教科教育を廃止しなければならない。


人文科学が抱える問題は、あの有名な京都大学にも言えます。
京都大学は入学偏差値が高いです。これを反映しているのかもしれませんが、言語能力が高く、記憶力の良い人々が多いです。でもそれだけです。何のために研究しているのか、わからない学問があります。
京都大学という権威と、豊富な知識と、流ちょうな日本語による説明によって、何らかの意義があるかのように感じますが、、、、実際には、何の意義も無いのです。
京都大学には現実の社会問題に向き合う立派な先生がいらっしゃいますが、虚構きょこう耽溺たんできしている先生もいて、教授という同列の社会的地位で処遇されています。


2.意義を見いだす人達

古文漢文の学習に意義を見い出している人達は、学校教育関係者に多いようです。

古文漢文は、学校社会の教科教育の中だけでしかで役に立ちません。
古文漢文は、古文漢文の学習のためにあるのです。自分自身が自分自身の存在のためにある、ということであって、自己が目的化しているのです。
有意義な学習には上位の目標があって、その上位にはSDGsのようなものがあるはずです。
古文漢文には、理想とする将来社会を目指す、という発想がありません。
もちろん、他の教科にも「理想社会を目指す」という発想は無いかもしれません。しかしながら、人文科学である以上は、この矜持きょうじは必須です。

古文漢文や歴史の勉強の意義を訴える人は、経済学や社会学などの社会科学系の勉強をしていないように見えます。

「学校の先生は世間のことを知らない」という批判に対して、学校の先生は何やら反論をしているようです。しかし、「古文漢文には学習する意義がある」と主張する学校関係者に対しては、やはり「学校の先生は世間のことを知らない」という感想を持ってしまいます。

問題の本質は、古文漢文関係の教師を終身雇用で雇ってしまっていて、当事者である教師には、ものの見方・考え方に関する学習能力が無い、ということではないかと推測します。
そして、周りの教師には意見を言うことに遠慮があるのではないか、と推測します。
京都大学と同じで、教師同士は互いに尊重しあうといううるわしい人間関係があるのです。

この「教師同士が互いに尊重しあう」という風土が、スクラップ&ビルドを引き起こさず、古い仕事を残したまま、新しい仕事を増やし、教師の仕事が多くなり、「働き方改革」が叫ばれることになるのだろうと思います。


3.教養は如何にあるべきか

古文漢文は教養であると考えられるかもしれませんが、私はそうではないと思います。

教養はいかにあるべきかを論じ、私なりに納得ができたのが次の記事です。


実学の対極にあるのがリベラルアーツ(教養)だ。欧州では中世以降、人が生きて成長していくために必要な知恵として学ばれてきた。自らの古い考えから解放され、様々なものの見方を取り入れるのが、リベラルアーツの目的であり、基本的な考えだ。法学や医学、数学、哲学といった専門的な学問を学ぶ前に、自然現象や社会現象などを学び、基本的なものの見方を養う。

長谷川 眞理子


"英国では戦争になれば貴族は「死ぬかもしれない現場」に送り込まれます。その際に、人間の心のありようをコントロールするために教養が必要"
"アカデミックな世界から出たことのない教員が、自らの経験に根ざしていないことを語っても説得力はない。"

冨山和彦


4.何を学習すべきか

古文漢文を学習するよりも、民主主義のあり方やSDGsを学習する方が良いに決まっています。

古文漢文が何の役にも立たず、それの学習が時間の浪費であることは、世間の多くの大人は実感していると思います。

では、何故、古文漢文の授業は延命しているのでしょうか。

古典というものには、為政者などによって権威付けがされています。
古典に親しむと、自分が貴族になった気分が味わえるかもしれません。そうすると、自尊心が高まるでしょう。貴族に対するうやまいの念が生まれるでしょう。
貴族が作った芸術を理解できる俺様おれさまって(貴族の次に)最高!ってことです。

でも、そのようなプライドの高まりは虚構きょこうなのです。

また、高齢の政治家にも原因があるのかもしれません。
高齢の政治家は、座右ざゆうめいというものをヒケらかします。この座右の銘には古典が引用されることが多いです。
昔は学習の素材は古典しかなかった時代がありました。なので、古典を引用すれば、教養がある、頭が良いと思われていたのです。

でも、現代では、古典は学習効率の低い知識に過ぎません。現代では「日本経済新聞を読んでいます」「Excelを使いこなし、データで社会情勢を分析できます」「多様な経験を積んでおり、事実に基づき合理的に考えています」と言う方が賢く見えます。

学校は地域社会と連携することが望ましいとされているようですが、地域社会とは実際には高齢者の社会です。世間一般の高齢者の価値観は、将来を担う若者向けではありません。地域社会との連携というのも、良し悪しがあります。

何かを学ぶには人生の貴重な時間を消費します。
何が最も優れた学習コンテンツであるのかは一概に言えません。それをきっぱりと言ってしまえるのは宗教です。
有意義な学習コンテンツを適切に見つけるためにも、明らかに学習効率の低いものは否定した方が良いと思います。


(参考)

以上

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