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19. 一編の短編と秋のひんやりした空気がおいしいという話


秋は、空気がひんやりしているうえ、流れてくる香りがとてもよくて、それだけで幸せになる。

取材などにむかう途中に坂道をかけおりるとき、金木犀の、品のいい明るい香りがたちこめている。一日の運動不足を補うために家の周辺を歩いていると、萩が咲き、赤い実や緑の実やどんぐりなどが弾ける直前に発するあの香ばしく、甘酸っぱいような、実が熟して発酵されていく過程のよい匂いがたちこめ、心がしんと静かになる。秋だ、と。

夏のざわざわした陽気さは、完全に立ち去っていったことを知る。

この頃は、スタンドくらいしか灯りはつけない。
ほの碧い暗がりの中で、「秋の夜長」を楽しむようにして生活しようと試みる。

いまも、パソコンの上に小さな電球の灯りだけでキーボードを叩いていると、鈴虫や蟋蟀など秋の昆虫が一斉に鳴きはじめて、まさに鈴なりの中に、ぼーっと突っ立っているみたい(座っているけど)。


この秋の虫たち。昆虫に声帯があるわけではなく、オスが翅(はね)や脚などをこすり合わせて音を出しているという。健気だ。メスを誘いこむため、縄張り争い、恐怖や威嚇など、理由はそれぞれらしいが。中には自分の鳴き方に聞き惚れて鳴いているものも、いるのではないかしら。


ただこの頃は。秋の虫の声が聞こえないほどに、もうひとつの音が耳を占領している。「ウーーーン、ヴォーーヴォー!」と草や枝葉をなぎ倒す音、モーター音と刃物を枝や葉にあてる金属音が一日中している。

うちの集合住宅(低層のヴィラ50棟)は、5月・10月の年二回、植栽の伐採と手入れ、芝刈りを行うのが恒例行事なのだ。


これが聞こえはじめると、毎年思い出すのが、村上春樹氏の「中国行きのスロウ・ボート」の短編「午後の最後の芝生」。もう何度読み直したのか忘れてしまった。

読んだことがない人のために少しだけ、紹介する。

大学生の僕は、芝刈りのアルバイトをしている。ライトバンから電動芝刈り機と芝刈りばさみ、くまで、ごみ袋とアイスコーヒーをいれた魔法瓶を持って出掛ける。仕事場につくと、トランジスタ・ラジオを取り出して、音楽やDJをBGMにして、家々の芝を苅る。その仕事の手順が気持ちいいくらい丁寧で誠実に描かれているのだ。一仕事を終えると僕はトランジスタ・ラジオから「ママ・トールド・ミー」が流れてくるのに耳を傾け、仰向けになって寝転び、日の光を眺めたりしている。

ある日。最後の芝刈りの日がやってきた。アルバイトを辞めてしまうのだ。依頼主は、背がクスノキほどに高い、未亡人ときた。亭主とは死別したらしい。未亡人は、ウォッカトニックをのみながら、僕の仕事ぶりを淡々とみている。サンドイッチの差し入れまでしてくれる。未亡人は僕の仕事ぶりの中に、亭主をみている。

ようやく、最後の仕事を終えた。


未亡人の女は、「おつかれさん」と彼をねぎらった。そうして自分の家に招き入れ、「飲みな」と、同じウォッカトニックをごちそうし、先頭にたって部屋を案内する。そして娘の部屋のクローゼットか引き出しだったかを、「ね、開けてみて」という。僕は、娘の部屋を眺め、深く考察し、その感想を求められたりするんだけど、なぜだか、半年前の振られた彼女のことを、しっぽりと思い出してしまうのだ。

僕は本当に彼女のことが好きだったのだろうか。ぼんやりと見つめるようにして生き、彼女から言われた言葉を感傷に浸ることもなしに日常風景にオーバーラップさせ、淡々と芝刈りをしてきたのだった。というストーリー。

それらが、(村上春樹の好きな)黒人ジャズでも聴いているかのように描かれている。秋の風を追いかけるように気持ちよく読める。
わたしの想像では、未亡人は、アイルランドシンガーのメアリー・コクランのようにしゃがれた太い声をした、豊満な女性であるだろう。

まるで、オールド・アメリカの映画のシーンのよう。リチャード・ブローティガンの匂いも少しするし、………なんとなく、毎年、電動芝刈り機の音を聞くたびに、この小説を思い出すのである。

秋。高い空と澄んだ空気。苅りとられていく青々とした草の匂いが部屋までたちのぼってきて、のんびり、いい秋日和と思いながら、少しばかり急かされている原稿などを仕上げている。


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