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#18 自然な生き物でいいんじゃないか

小説の中に登場する食べ物だったり、お酒だったり
お店だったり、本だったり。
その小説に熱中していればいる程
自分も同じものを体験したくなる。

例えば数年前のことだけれど
佐藤正午さんの「鳩の撃退法(上/下)」で
主人公・津田がいつも持ち歩いているピーターパンの本。
これは実在していて
”石井桃子訳 「ピーター・パンとウエンディ」” がそれだ。
手に入れた時なんかは、
「この本をドーナツショップで読むんだ」
と、何かがグイグイ自分を動かしていた。

辻仁成さんの「オキーフの恋人 オズワルドの追憶」は
下北沢が舞台。分厚い小説の中では何度も
"BARなめくじ" で飲むピート香るブラックブッシュが登場する。
実際に銀座にあるスラッグスというBARをモデルにしていて
そこでブッシュミルズを飲んだりする、と
当時、辻さんご本人がおっしゃっていて嬉しくなった。
ジョージア・オキーフの画集を手にとったりもした。

先日、平松洋子さんの本に銀座のロックフィッシュが出てきて
言わずもがなな名店だが、やっぱり行きたくなった。
こういう気持ちを共有したくなるのは
なぜか決まって昔付き合っていた彼なのだから
時々、不思議な気持ちになる時がある。

その彼とは、衣食住の基本的な価値観が似ていたこともあり
今ではすっかり長年知ってる友達のようになってしまった。

もしもわたしの友人が別れた彼や彼女と
今はすっかり友達なんだよ、なんて言おうものなら
どこかちょっと嘘っぽく思ってしまって
意地悪な気持ちで聞いてしまいそうだが
いざ自分がそうなると案外有り得るんだな、なんて思ってしまって
自分のゲンキンさに苦笑いしてしまう。

「小説に出てきたお店で、出てきたお酒を飲みながら
その本を読み返すっていうの。やってみたいんだよね。」
その彼にそう言うと
「めっちゃいい。それしたい。」と返ってきた。
そう言うと思っていた。


恋人に全ての役割を担ってもらおうというのは
到底無理な話なのに
長年わたしは「そうあるべきだ」と思っていたところがある。
そして、恋人にとって自分もそうありたいと願っていた。
でも、今の恋人と過ごしてきた年月の中で
様々な出来事と、その都度生まれる複雑な感情を味わう中で
そもそもの「◯◯であるべき」という思考に
ずいぶんと変化がうまれた。


人はもっと自然で、いうことをきかないものなのだろう。
例えば急に雨が降ったと思えば、晴れ渡るように。
それで言うと、「◯◯であるべき」は
不自然で極めて人工的。
そこに自分もそうだし、
ましてやあかの他人を嵌め込もうだなんて
そりゃあ無理だ。
そう思うようになって、ずいぶんと肩の力が抜けた。

若い頃は自分のとびっきりのお店を勝手に指名して
なんでもそこで食べた。
でも大人になって、例えばだけど
焼き鳥ならここ、すき焼きならそこ、ハイボールならあそこ。
みたいに、得意で自慢の看板商品があるお店に
それをお目当てに通うようになった。
そこのハイボールだけをお目当てに通うことは
決して悪いことではない。
そこでしか味わえないと知っているから出来ること。

いつからか
人との関わり方も同じふうでいいのだと思うようになった。
その恋人に、その友人に全てを求めないというのは
そういうことなのだろう。
あなたの素敵なところを知っているからこそ。なのだ。
そしてわたしもまた、誰かにとってそんな存在でいられたら
きっと出会えた意味があるのだろう、と
そんなふうに思えるようになった。

ひとりで暮らしていたって、ひとりで生きているわけではない。

日々、感謝なのです。


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