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村上龍の小説と、ラノベとしての時代小説 #本棚をさらし合おう

前回は、私の本棚の「左の棚」を紹介したけれど、今回は、右の棚の本を紹介していく。「#本棚をさらし合おう」企画期間は終了しているので「自主制作」として気楽にいこうとおもう。

さて、右側の棚だが、

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村上龍がたくさん、葉室はむろりんの時代小説、三島由紀夫の「金閣寺」、ヘッセの「シッダールタ」、吉田修一の「パークライフ」、サン・テグジュペリが3冊。ロバート・ハインラインの「宇宙の戦士」、あとは飛行機関連の実用書や伝記、エッセイなどが並ぶ。

飛行機の本はまた機会を見てやるとして、今回、特に紹介したいのは、昔から好きだった村上龍と、最近読み始めた葉室麟

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まずは村上龍からいってみよう。

五分後の世界 村上龍

村上龍の最高傑作といえばこれ。「限りなく透明に近いブルー」で一般に知られるようになった作家だから、「米軍基地とドラッグとセックスの作家」いや、それどころか「カンブリア宮殿」のやたらと強面なあのおじさん、というイメージが強いかもしれない。

確かに、前期の村上龍は「快楽」を主テーマにして感性だけで書いているようなところがあるけれど、「五分後」以降の中期では、その当時の時事問題に対してテーマを設定し、ものすごい量の取材と勉強の成果を掛け合わせてあるので、情報量がとてつもなく大きい。私の本棚にあるのも中期以降の作品が多い。

村上龍は、直接作品のキャラクターのセリフとして世間に対して「物申す」ような野暮な真似はしない。ひたすら描写する。特に「五分後の世界」第三章の「戦闘」は、突然始まり、突然終わるけれど、その間、何十ページにも渡って「〜が、〜した。」というシンプルな描写の積み重ねと繰り返しだけで、かつ単調さや退屈さとは無縁、という驚くべき手法で描かれている。

この「描写主義」こそ、私が村上龍を好む理由の一つで、「説明」しないのだ。「映画的」とも言えるかもしれないけれど、目の前で起こっていることをひたすら描写し、主人公を現実に直面させ続けることで、テーマ性が見えて来るという、書き手にとって最も手間と抑制が必要な手法でできている。

「五分後」はそれが最も極端に出ている作品で、故に、邪魔なものが全くない。

例えば、戦車の走るスピードを表現するのに、「戦車が猛スピードで走ってきた」と書くのと、「戦車は、想像よりずっと速かった。まるで、高速道路を走るトラックのようだった」と書くのでは、読者の頭の中に構築される情報の精度が違う。こういうのにすぐ気がつくようになってしまって「怠ける」作家の本が読めなくなってしまう。

作家が勉強や経験を積むにつれて、情報量はどんどん増えていって、「半島を出よ」は上下巻となり、北朝鮮の反乱軍が博多を占領し、臨時軍事政府による自治を始めてしまうという、決して荒唐無稽とは言えない事態を描く。


この本に至っては、最初に北朝鮮兵士の小隊が侵入してくるシーンで、兵士たちを語り手にして描く、というどうやったらそんなことが可能になのかわからない(北朝鮮の兵士に友達でもいない限り普通は無理だろう)試みをしているが、ちゃんと成功している。わけがわからない。

ただ、情報が多いということは、その分、純粋な文学としての完成度というか、テーマ性とそれを実体化するために使われている言葉の「精度」みたいなものは、当然ぼやけてしまう。不足も無駄もないという意味で「五分後の世界」が最高傑作というのもうなづける。

九試単戦と零戦みたいなものか。

オールド・テロリスト 村上龍

一時帰国したときに新刊として単行本が出てて、すぐ買って読んだ。本棚で一際目立っているのはそのため。

この作品は、後期 村上龍に当たるんだろう。

抑制の効いた描写主義、何らかの「欠落」を抱えた主要登場人物、ディティールに対する膨大な勉強量などは、今までの村上龍と同じだけど、全てが「丸まって」いる。

テロリスト、という物騒な言葉が目につくが、これがシャレにならないのは現代の現実が小説に寄ってきているからであって、物語自体は決して深刻な話ではない。私は、ギャグ小説だと思って読んでいる。「丸まっている」というのは、そういう意味だ。

また、主人公は「希望の国のエクソダス」で出てきた敏腕記者が、離婚して家族と離れて惨めな生活をしているという設定。過去の作品の登場人物を再登場させて作品をまとめようとするのは、作家あるあるだし、ファンとしても嬉しいので問題はない。

ちなみに「半島を出よ」では、イシハラという変態に教養とプライドの服を着せたような、ある常軌を逸した人物が一味を構成して、物語の進行の軸のひとつとなっているが、これも私の本棚にある過去作品「昭和歌謡対全集」に出てきた人物。こちらも、ギャグ小説と割り切って読むべし。

ちなみに、JMMなる村上龍編集長のメールマガジンに、当時、山本芳幸(@yoshilog)さんの「イスラム・コラム」が一時期連載されていた。「希望の国のエクソダス」の冒頭にパキスタンが出てくるのはそういうことだろう。

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さて、これだけ村上龍を語ったあとの葉室はむろりん。どうなることやら。

はだれ雪/散り椿/蜩ノ記 他 葉室麟シリーズ

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「蜩ノ記」は役所広司主演で、「散り椿」は岡田准一主演で映画化されているので、作品名は聞いたことがある人もいるかもしれない。



葉室はむろりんは、キャラの立て方、ストーリー進行が上手いのと、緊張感のある居合や剣術の描写、非常に視覚的な風景描写がクセになる。上記2作品は、映画版も風景描写が美しいが、原作は、自然を表現するために選ぶ日本語が秀逸で、映画を超えていると思う。私はやはり「描写」のうまい作家に惹かれるようだ。

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ところで、私は最近になるまで時代小説を読まなかった。ある意味で、忌み嫌っていたようなところもある。それは、時代小説が、村上龍が書く小説と正反対の性質を持っているからだと思う。

村上龍の小説は、読者の現実世界とリンクする。簡単言うと、読むのにエネルギーがいる。自分が現実で直面している問題や、問題意識にいちいち絡みついているから。

ところが時代小説は、自分自身の現実世界と絶対にリンクしない。頭の中に、自分の現実と完全に切り離された宇宙が出現し、そこで人々が同じように人生に迷っている次第を覗き見るのが、時代小説だ。つまり、私にとって時代小説は、趣味的だ。

たとえ、自分と同じような境遇にいる侍が出てきても、それは自分の現実とリンクしているとは言わない。

若い時は「趣味的」なものに嫌悪感を感じていた。もしかしたら、村上龍を読みすぎたのかもしれないが、まだ「何者」にもなっていないのに「趣味」なんかにエネルギーを振り向けるのは「何者」かになるのに本気ではないことの証左だと、極端に考えていた。

しかし、現在の私は、自分のキャリアの大きなマイルストーンを達成し、海外で家族を作ってそれなり安全に暮らしている。人生のフェイズが異なってきて、今度はむしろ趣味の一つも持たないと、コクピットでの間が持たない。今では、村上龍の小説を読まなくても、自分の人生で大事なことは、確固としたものが体内にあるのを感じることができる。つまり、小説に依存しなくなった。

小説に依存しない状態になると、小説を読む意味も違って来る。人生の目標や具体的なテクニック、心の持ちようみたいなものに確固たる自信が持てない若い頃は、そういうものに直接リンクした小説が必要だった。しかし、現在は、そういうものは内在化されている。つまり自分なりのやり方がわかってきたので、必要なのは自分を鼓舞するような「小説」ではなく、気分転換のための「読み物」ということになる。

つまり、私に撮って時代小説とは、現実世界での戦いに疲れて頭を休めるのにちょうどいい「ラノベ」なのだ。

しかし、時代小説だからといって何でもいいわけではない。脚本が「浪花節」になるのは仕方ないにしても、文体がざらついていると引っかかってしまって読めなくなる。そう言う意味で、葉室麟は今のところで唯一、時代小説として私の本棚のかなりの部分を占拠するという快挙を成し遂げている。

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長くなったので今回はここまで。気が向いたら次回、飛行機関連の本もやります。

10月5日 追記 つづき書きました



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