悪意と逆接の現代思想――栗原康・白石嘉治招聘トークイベントの反省会、あるいは次回のレジュメ

 10月27日、檜田相一と私=東北大学〈焼き畑〉コース・コース長を中心に画策し、学祭に栗原康氏・白石嘉治氏をお招きして、現代思想研究会名義で「学生に賃金を」をテーマにトークイベントを開催した。

 会場にはそれなりに多くの人が訪れ、参加者からの発言・質問も予想より多く、イベントは盛り上がったと言っていいだろう。学祭運営事務局でもイベントの存在は話題になっていたらしい。直前のビラ撒きなどを怠ったこともあり、実際はもう少し多くの人を集められたのではないかとは思うが、イベントはとりあえず成功であったように思われる。しかし、私としてはやや不満の残るところがある。両氏の名誉のために最初に断っておくが、これは栗原・白石両氏に責任のある問題ではない。

 この点について、当日会場を訪れていた横浜国立大学都市社会××学科(略称:都社破)・学科長と議論を交わした。都社破・学科長はあたかも登壇者であるかのごとく語りまくっていたが、あくまで積極的な参加者であったにすぎない。ところで、栗原・白石両氏の参加は事前に申請し事務局に認められたものだが、原則的には東北大学祭の規約は学外者が運営側として企画に参加することを禁止している。

 下の2つの添付ファイルはいずれもこの文章をpdfにしたものであり、内容は同じである。「印刷用」とあるほうは、そのまま「両面印刷・短辺綴じ」で印刷すると冊子になる。

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学祭を超えられず、「学祭イデオロギー」に回収された「学生に賃金を」

焼き畑 いま書いたように、今回のイベントは私にとってやや不満の残るものだった。というのは、イベントの中で語りたかったことが数多くあったはずなのに語ることができなかったということだ。語る時間がなかったわけではないし、「できなかった」というよりは、「しなかった」といったほうが反省として適切かもしれない。しかも、イベント直後に交流会があったわけだが、そのとき私はなんだかすごく疲れていて、信じがたいことに眠ってしまった。目を覚ますと栗原・白石両氏はもうお帰りになるところだった。イベントで十分に議論できなかったことを議論する機会があったにもかかわらずそれさえ反故にしてしまったわけだ。
 そこら辺は私が勝手に「反省」すればいいのであって、ここにわざわざ書くことではない気がするが、この文章がここに存在していることの理由を説明するにあたって、もうひとつ反省を語っておくと、「資料の作り方が悪かったこと」と「その資料に忠実にしゃべってしまったこと」が問題だったと思う。
 ちなみに、その当日配布した資料のうち、「アナキズム、脱構成、ユートピア」「学生に賃金を」原子力体制」の三つはすべて私が作成した。都社破には事前に見せてコメントもしてもらっている。
 資料はnoteで公開しているからぜひ読んでほしいが、とにかく私が作った資料の問題点は、栗原・白石両氏の著作で言われていることの私なりの「解説」に留まっていることにある。そして、イベント当日、やたらそれに忠実にしゃべってしまった。私はアカデミズムからドロップアウトしているようなものだし、アカデミズムの外の読書会にも特に参加していないから忘れていたが(そんなのは理由にならないのだが)、「レジュメ」というのは普通「疑問点」とかを書いておくものなわけだ。

都社破 だから俺はレジュメ作りの段階で、もっとプロレスを仕掛けていくようなレジュメにしたほうがいいって言ってたのよ。

焼き畑 文章に規定されて議論の幅が狭まってしまったことの反省として、逆に議論したかったことをここにまとめておくことにしよう。あわよくばこれが「次回のレジュメ」となるわけだね。

都社破 「次回のレジュメ」的な内容の議論に入っていく前に、もう少し、イベント自体に関する「反省」を続けていきたい。「反省」の要点は、学祭という制度に過不足なくちょうど収まってしまったところにあると思う。学祭という制度は、学生同士の自由な発想や創造性や努力を「学生文化」として並列的に提示し相互承認し合う空間として設定されている。そのような意味で、「現代思想を研究している社会的関心を持つ学生の自由な発想や創造性や努力」を、何となくみんなにフワッと承認させるようなものにしかなれず、学祭という欺瞞的で微温的な空間にすっぽりとハマってしまった。
 俺と焼き畑、そして栗原氏、白石氏も共通して掲げるテーゼとして、「学生に賃金を」というものがある。主張の詳細はレジュメに譲るとして、ともかく、学生は学費を支払う消費者ではなく、賃金を支払われるべき労働者だと主張することに主眼が置かれている。この「学生に賃金を」というテーゼを考えた時に、学祭というものは、学生に学費を支払わせる装置として機能しているという見方はできないだろうか。俺は人生で初めて大学の学祭という空間に足を踏み入れたわけだが、高校の頃の文化祭と、何も変わるところはないよね。学生同士が個性を自由に持ち寄って、なんとなくフワッとわいわい騒ぐことで、大学へのナショナリズム/帰属意識を強めていく。卒業した後も、なんとなくフワッと学祭とかで相互に個性を承認し合ったことを思い出して、賃金をもらうべきところであろうことか学費を支払い、場合によっては奨学金やらなんやらという致命的な負債を背負わされたという屈辱さえもなかったことになってしまうんだ。これが、体制を温存させていくイデオロギー=虚偽意識ではなくて何なのだろうか。
 ここで、体制に守られた学園祭ではなく、自主的な祭を下から開催するべきだという発想になるかもしれないが、そんなことをしても、新しい文化とクソみたいな帰属意識がまた構築されていくだけ。それが上から下からだろうが、自由な発想や創造性や努力を並列的に提示し合ってフワッとした相互承認をしていくことで、社会の絆の中に主体を縛り付けるシステムがあるんだ。そこに亀裂をもたらさなければならないはずだった。俺は、今ほど思想的・論理的に深く考えていなかった一年半くらい前、「反たこ焼き主義」というのを冗談で掲げていたんだ。しかし、学祭でニコニコ相互承認しあいながらたこ焼きを頬張っている連中を見て、「反たこ焼き主義」の政治哲学的正統性を再確認したよ。

焼き畑 学祭企画の抽選に落ちたら、時期をずらして教室を借りるとか、場所をキャンパスの芝生にするとかして、学祭の枠組みの外で栗原・白石両氏を呼んでトークイベントを開催しようと思っていたんだが、一度抽選に落ちた後繰り上げで参加できることになった。この時点で、学祭でやるかその枠組みの外でやるかを自由に選べたわけだが、学祭という空間に亀裂をもたらすために学祭の中ですることにした。つまり、「学生の個性が発揮されていて、わいわい盛り上がっていていいね!」的な空間にのこのこやってきた学生どもをビビらせるために。しかし、実際には、いま都社破が言ったみたいに、なんかふわっと学生文化みたいなものに回収されて(させて)しまったよね。
 会場の教室の前を通り過ぎる人々は、ほぼ例外なく会場の前に貼ったビラの前で足を止めていたし、「思想が強い」「論破しにいこうぜwww」「思想が強い」「あっ、現代思想研究会」「思想が強い」などという声も聞こえてきて、とにかく反応せずにはおれないようだった。そういう反応を引き起こしたことは部分的には成功と呼んでいいかもしれないが、まあフツーに考えて「学祭になんか変な奴がいる笑」くらいに「消費」されただけだよね。把握している限りで5回、通行人から「思想が強い」と言い捨てられ、「思想弱者男性」というあまりに邪悪な言葉が頭に浮かんでしまった。

都社破 そうそう。わざわざ学祭の中で反学祭的に振る舞うことで、学祭を骨抜きにしていくことがしたかったわけじゃん。「現代思想研究会」っぽく言えば、脱構築ね脱構築。だけど、完全に学祭という建物の中にスルッと入って、そのパーツになっちゃったね。飲食店がたこ焼きを提供したり、お笑い研究会が笑いを提供したりするのと並列的に、俺たちはクソみたいな「教養」を学祭に提供してしまったってことだ。
 非常に官僚的なことに、今回のイベントではアンケート用紙を配布してイベントの感想を集めていた。檜田曰く、イベントの感想の多くは、「ためになった」というものだったらしい。しかし、「ためになった」ってなんだよって話でさ。何の〝ため〟になったんだ。「ためになった」って、何らかの目的があって、それを達成するのにちょうどいい何かを手に入れられたってことでしょ。今回のイベントにおける〝目的〟は、社会を良くするとか楽しく生きるとか学祭を楽しむとか、大体そんな感じで設定されているだろう。そして、その目的に役立つであろう「教養」みたいな下らないものを獲得できた気になって、「ためになる」とか思ってんだろ。クソくらえだぜ。そもそも総じて、「ためになる」ような〝コンテンツ〟は総じてクソくらえだよね。「ためになるもの」を吸収したり経験したりするという過程それ自体もクソだし、その過程をふまなければ到達できないような目的ってヤツもゴミクズなはずなんだ。栗原氏の「よりよくなれはくそくらえ」に倣って、「ためになるはくそくらえ」だ。
 目的に達するための過程という発想それ自体が、支配と服従と動員を迫るものだと言える。栗原氏・白石氏も途中で、鎌倉仏教の話をしていたが、その時にしていたのもそういう話だよね。努力して労働して研鑽していくという過程と、それをしなければ達成できないことになっている目的それらを認めてしまった瞬間に、過程の実行と目的の達成を助けると僭称する教会権力的なものが生まれる。過程と目的のハウツーを独占して行くことで、自身の権力拡大にとって都合のいい労働を救済志望者に強制し、諸々を収奪して行く。そういう腐敗した支配権力としての当時の寺の制度を転覆して行ったのが、寺が公認した救済の制度と努力を全否定し、一切の努力なしでの救済を訴えた鎌倉仏教のはずなんだ。寺という中間団体がなくても、「南無阿弥陀仏」とさえ唱えれば、阿弥陀との直接的な契約関係を結べる。「南無阿弥陀仏」と一言唱えてしまえば、腐敗した支配権力の管理と収奪をスキップできて、支配を転覆できる。それってめっちゃアツいじゃん。
 だけど、そういう、「ためになったはくそくらえ」って話を、まさに「ためになった」として消化されているんだ。これこそが、学祭/学生文化イデオロギーの中心なのであって、我々の話が、クソみたいな「教養」として、ゴミみたいな学祭イデオロギーの肥やしになったってことだ。
 当日のイベントでは、焼き畑はレジュメの朗読と解説に疲れ果てていた感があったのに対して、俺は暇で躍動する生を持て余していた。だから、会場に火を点けられればなと思って、栗原氏・白石氏、あるいは会場の人々に対して、〝プロレス〟を何度か仕掛けようとしていた。結果としては一つたりとも全く盛り上がらなかったわけだが、そんなプロレスの内の一つに、「大学って楽しいのか」問題がある。この辺が、「学祭にすっぽりハマってしまった問題」と繋がってくると思う。大体、こんな感じのやり取りがあった。

栗原 ……僕が入学する前の年に学際の主催団体――革マルっていうセクトなんですけど――が資金横領をしていたらしくて、それがバレて、僕のいた4年間は学祭が取り潰しになっちゃったんですね。だから、学祭というものには憧れがあって、今回は呼んでもらえて嬉しいです。楽しくおしゃべりできたらいいなと思います。よろしくお願いします。

都社破 ……僕は、別に入学してから学祭というものはあったのですが、ひねくれ者で、学生がニコニコしあっているとムカつくので、学祭というものにはいったことがありません。今初めて大学の学園祭という空間に身を置いていて、ちょっと気が立っているかもしれませんが、その点はご容赦頂けると幸いです。……

……

白石 ……で、問題は、なぜか知らないけど、われわれは大学に魅せられているということです。昔は100人に1人くらいしか大学に行かなかった。いまは半分行っている。

都社破 ……大学の楽しさを肯定する言説と〈学生に賃金を〉を重ね合わせ過ぎると問題があると思います。〈学生に賃金を〉は、今の大学生活のどうでも良さとつまらなさを暴く、スキャンダルと悪意に満ちたスローガンであるはずです。しかし、そのスキャンダルと悪意が、大学の肯定性を強調しすぎると、抹消されるのではないでしょうか。
 先ほど栗原さんに「否定から始まったのか肯定から始まったのか」と質問していた方がいらっしゃったと思いますが、「悪意」みたいなものから大学における苦役を主張するならば、これは大学への否定から始まっているということになるでしょうし、「大学にいまは二人に一人くらい行っている」ということをあえて言うのであれば、これは大学への肯定からということになる。
 僕なんかは何にも楽しくなくて全てがムカつく人間なので、大学が楽しいからではなくつまらないから賃金を貰いたいなぁと思うわけですが、よりそもそもな議論をすれば、そんなことはどっちでもいいとも言えます。肯定的だろうが否定的だろうが、どっちでも良いし、そこは問う必要は無いっちゃあないわけです。大学の隠された肯定性だろうが、顕わになっている否定性だろうが、どっちによる動機かはどうでもよくて、どちらにしろ賃金よこせと言ってしまえることが大事なのではないかなぁと私は思います。

都社破 イベント当日は全然火がつかずに俺の心の中で燻っていたこの辺の議論に、今日はちゃんと火をつけて行きたいと思います。イライラしすぎてこれまでテキトーなことしか今まで喋ってないが、これからはちゃんとします。

焼き畑 そうだね。そろそろ内容レベルの議論に移ろう。


「会議」と「会話」の循環を超えて、南無阿弥陀仏

焼き畑 栗原氏はアナキズム研究者ないしアナキストとして知られているが、アナキズムと言っても実際にはいろいろある。「アナキスト」という言葉は、「○○の理論を奉じる人々」のようには(さえ)定義できないところがある。例えば「マルクス主義者」ほど〝客観的に〟は定義されない。というより、「アナキズム」が持つ意味はほぼ無限と言っていい。その無限性を逆手にとったのが、従来アナキズムとは呼ばれていなかったものも次々に「○○はアナキズム」と名指していく栗原氏のスキャンダラスな物言いなのではないか……というのは若干テキトー言いすぎかもしれないが……。
 とにかくアナキズムが無限に広い意味を獲得してしまっている以上、「栗原先生はアナキストです」と言っても、「自由が好きで、反体制なんだろうな」くらいのことしかわからない。私は栗原氏のいう意味での「アナキズム」が重要だと思っているが、「栗原先生のアナキズムって良いこと言ってるんですよ!」と言ってみても、「自由に生きたいんだろうな」くらいのことしかわからない。「アナキズム」という言葉をそのまま反復してみても、私が栗原氏の主張のどのような部分が重要だと思っているかが伝わらないわけだ。
 そこで、今回のトークイベントでは栗原氏の「アナキズム」をあえて別様に名指そうとした。実際に資料本文でそれが実現されたかと言われると、栗原氏の表現に頼って逃げた印象はあるが、とにかく「無根拠である」ということに注目したいというのは、資料にもしつこく書いたし、伝わるのではないか。

都社破 「無根拠さ」に注目したいと言っても、それだけだとその注目が余りにも「無根拠」すぎてピンと来ないんじゃない??

焼き畑 そうかもしれない。「無根拠である」ことにこだわっているのは、疎外論的な発想に対する反感からだが、そのように言うときの前提として、これを読んでいるみなさんに向けて、私がかつて書いた「〝共生としてのアナキズム〟批判」という文章について簡単に説明しておこう。
 私はこの文章で、近年の「人類学アナキズム」の「疎外論的な発想」を批判した。ここでいう「疎外論的な発想」とは、人々が知らない人間の「本質」を超越的に断定して、つまり人々が知らないが知るべきであり、人々が知らないが自身に宿っているような「本質」が存在すると宣告し、その「回復」へと向かう=向かわせるものである。これは人間の「本質」に従うよう人々を抑圧する権力に、あるいは人間の「本質」を裏切るモノ(人でなし)を排除する権力に転化しうると同時に、「あなたは知らないがあなたに宿っている」人間の「本質」を宣告する点ですでに、すべての〝疎外された〟「あなた」に対する知的な優位を確保(し、それによって抑圧と排除を正当化)する権力である。そして、近年の「アナキズム」の名で流布している思想は、この疎外論的発想に基づく権力を、人類学に依拠することで〝科学的に〟正当化・補強してしまっているのではないか。

都社破 例えば人類同士で助け合う気持ちだったり愛し合う気持ちだったりが、我々人類の内側に、あらゆるものに先行して存在している。その後に、ある時からよそよそしい制度が疎外されて誕生してしまって、先行して存在している我々人類の本質を抑圧している。だけど、ホントはその制度だって、われわれの内側にあるものが対象化されただけなんだから、制度がなくても、助け合う気持ちでやっていけるんだ……。これがここで言われている「疎外論」だよね。
 そういった「疎外論」に依拠せずに、アナーキーなものを志向する。そのためには、資料にも書いてある、アナーキーのアン・アルケー性、無根拠性を徹底して押し進めていくという方向が取れないか、ということだよね。その無根拠性を突き詰めていけば、目の前の体制の自明性に依拠するわけにもいかないし、体制によって抑圧されている我々人類の本質みたいなものにだって依拠できなくなっていって、何の代替や根拠もない、アナーキーになっていくんじゃないか……。
 そういう風に考えた時に、白石氏の議論に腑に落ちないところがある。白石氏の議論だと、「文明」や「会議」という〝体制的な根拠(アルケー)〟に対して、自然や会話という〝反体制的な根拠(アルケー)〟が措定されてしまっているんじゃないか、と思うんだよね。白石氏は『文明の恐怖に直面したときに読む本』(以下、『文明恐怖本』)で、〈民衆=ピープルはたしかに存在するが、その民衆=ピープルに「民意」は存在しない。その「民意」をあたかも存在するかのように見せかけ、その「民意」を管理し統制していくことが国家の「表象」であり、リベラルもまたこの民意の表象化という機制に根差している〉ということを指摘している(『文明恐怖本』p. 28)。これに対して、俺の思ったことを箇条書きで書き連ねたのが以下。

(※そこまで詳細に読まなくても以下の議論にはついていけるので、テキトーに読み飛ばしてよい。――都社破注)

【都社破によるメモ】
ー民意がどうでもいいものであって、それに執着するリベラルが下らない(「お前らは民意じゃない!! これが、民意だ!!」みたいなこと)のはパーフェクトにそう思う。民意がどうとか、知ったこっちゃない。
しかし、その「民意」の下らなさは、「民衆」の多様性や実在性と比較することによって明らかになることなのだろうか。
ーこういう方向性の議論にはどうしても違和感を抱く。
ー表象されたものを批判して、マルチチュードの多様性=混乱性を称揚することで、権力や管理、階層を破壊することは出来ないのではないか。
ー現代の反体制的言説状況においては、表象以前の無限の多様性=混乱性を満ちた状態を肯定するアナキズム派と、受け入れない非アナキズム派という話になっている。しかし、無限の多様性=混乱性を肯定しなくても秩序を全否定する蜂起を考えたり実行したりすることは出来るはずであって、そここそが大事な気もする。
[…]

都社破 「民意」とか「民衆」とか言ってると、なんだか抽象的で堅苦しいが、もっと分かりやすい話として、「会議」と「会話」の話を白石氏と栗原氏がしているところがある。「民意」が「会議」に対応して、「民衆」が「会話」に対応すると思ってもらって良いと思う。その部分の引用とそこへの俺のレビューを箇条書きで連ねたのが以下。

(※そこまで詳細に読まなくても以下の議論にはついていけるので、テキトーに読み飛ばしてよい。――都社破注)

【引用】
白石 「相互扶助」っていっちゃうとなんだか堅苦しい感じがするし、「相互に扶助する」という意味では、「御恩と奉公」だって相互扶助になっちゃう。でも、その相互扶助のイメージとして基本にすべきなのは、その村の人たちが話し合って解決したように、やっぱり会話なのだろうと思うね。議論じゃなくて、会話。
栗原 会議とかでもなく。
白石 そう。議論でも会議でもなく、会話ベースというのでしょうか。相互扶助で大事なのは、そういう会話性だと思う。やっぱり、会話が成り立つ関係というのがあって、その関係を軸に生きるということが重要なんだと思う。
 それで思い出したんだけど、エリック・アザンっていう、パリでラ・ファブリックという現代思想系の出版社をやっているひとがいて、彼はたいていのことはカフェで話し合えば解決すると言っています。[…]
 まあようは、会話の「相互性」にもとづいて「扶助」がある。「会話しているだけじゃ人間は生きていけない」みたいに批判する人もいるかもしれないけど、でも、偉い人たちだってそうやって物事を決めているはずです。安倍政権だってそうでしょう。偉いひと同士で酒飲んで、くっちゃべって。会話しかしていない。そういう会話を権威づけるものとして、代議制だとか、そういう様々な制度がある。
栗原 かれらは会話を会議にもっていっているんでしょうね。でもほんとは会議の前に会話がある。
白石 […]つまり、会話しているというそのこと自体は違わないのに、あることがらをある身分の人たちが話し合うと、それが大きな力を持つけれど、そうじゃない人たちが話し合っても、大して力を持たない。その構造そのものが文明のからくりだと思う。

(『文明恐怖本』pp. 50-52)

【都社破によるメモ】
ーフラットで見分けがたいはずのものを仕切り区別し階層付けする制度として、諸々の装置が存在する。それはそうだと思う。
ーイメージとしては、「会議」=「国会」で、「会話」=「飲み会」で良いと思う。会議=国会の方がフォーマルで儀式ばっていて、会話=飲み会の方がアナーキーでユルい。
ー国会の議論の中で世界を実現したりヘゲモニー争いしたりする秩序=表象派と、飲み会のアナーキーこそが解放そのものであるとするアナキズム派という様な雑な分類が想定できる。
ー個人的には、全然秩序派じゃないが、会話を称揚されても困るところがある。あんまり「会話」=「飲み会」が好きじゃないから。
ーそういう感想を超えてマジメに考えれば、ここで白石氏栗原氏は、「文明としての会議」と「自然としての会話」を対置しているようにも見えるところに、思想的な問題があると思う。会議と会話を仕切るものが文明であるとしても、会議それ自体として文明であるわけではなく、会話それ自体が自然であるわけではない。
ー栗原氏が「会議よりも先に会話が」というが、この「先に」という表現は、疎外論になってしまう(会話があったのに、よそよそしい会議が出現して、その会議が会話を抑圧している……)。最早言葉狩りのレベルだが(疎外論警察)、ここには厳密にこだわりたい。
ー「先に」何が存在するのかは語りえない。あるいは、なんやかんやで語りえたとしても、今の状況には関係ない。先立つか後立つかは、この私の無根拠な価値判断にとって一切関係がないからだ。
ー大事なのは、会議と会話のどちらが優先されるかという審級が存在しないことであり、それにもかかわらず/それだからこそ、会議と会話というそれぞれの空間に同時に敵対し得るということ。
ー栗原氏白石氏が89頁にする親鸞の話は、個人的には、会議と会話を同時にスキップする発想の原形だと思う。その辺の側面を押し出していきたい。

焼き畑 私も最初は白石氏の議論が「本質」を措定する「疎外論的な発想」に基づいているように感じられたんだけど、そういう風に思いながら読み直してみると今度は、別に疎外論的なことは言っていないように思われてきた。
 疎外論に依拠しないアナーキー=無根拠な方向性について、私なりの言葉でまとめると、次のようになる。〈まず、叛乱・蜂起はわれひとりを根拠に可能である。それはそれとして、称揚するとしないとにかかわらず現に民衆は多様である、というか多様でありうる、というか「表象」を裏切るシーンが存在している。少なくとも私はこれを事実として受け入れられる。そして、その多様性ないし多重可能性を抑圧する論理が存在している。それは誰がどこにいて何を考えて何をして何を望んでいるかという論理である。われひとりの叛乱・蜂起を正当な叛乱・蜂起とみなさずに封殺するのはこれと同じ論理である。〉ここに白石氏の主張との摩擦は感じられない。

都社破 〈山括弧〉内はそうだとしても、俺としては、「会話」と「会議」を分けるところに文明なり権力みたいなものがあるのであって、会議それ自体として文明なわけではないでしょ、って思うんだよね。会議すべき場所・すべき人と会話すべき場所・すべき人とを規定するものが文明なのであって会議自体が文明なんじゃないでしょ。会話すべきところで会議があったり会議すべき場所で会話があったりする可能性があるということが大事っていう話だったら分かるんだけど、会話がそれ自体として自然であって文明を超えているっていう話になっちゃうと腑に落ちない。確かに、下らない出来レースを深刻ぶってやっている「会議」=「国会」はバカらしいけど、「会話」=「飲み会」もたいていバカらしいじゃん。セクハラしたりパワハラしたり、あるいはしょうもない近況報告とか人間関係の話とかでニコニコしあったりしてて、全然アツくない。

焼き畑 そういう話なのかなあ。「国会」と「飲み会」とがあるとしたら、その両方に敵対することができる/すべきである/しなければならないというのには賛同するんだけど、ここでいう「会話」というのが「飲み会」に対応していると考えていいのかというのには疑問が残る。白石氏の言っていることは疎外論的な発想ではないのではないかと思う理由はそこにあるわけだけど。
 「会話」というのはいつどこで誰によってなされていてもその働き方は一様であって、その意味で「会話」はすべて平等であり、そこに上下(があると考える根拠)はない。にもかかわらず、「文明」はそこに階層秩序を設けて特権的な「会議」を捏造する。われわれが信奉する数すくない政治哲学者のひとりであるジャック・ランシエール先生がいう「知性の平等」と同じ構造の議論だと思って読んでいた。「知性」というのはいつどこで誰によってなされていてもその働き方は一様であって、その意味で「知性」はすべて平等である、にもかかわらず、「愚鈍化する教師」はそこに階層秩序を設けて特権的な「教師の知性」を捏造する、という。

都社破 うーん。白石氏の議論って、文明としての「会議」と自然としての「会話」を対置するみたいな理屈になっているように読めるところがあると思う。法律や会議が「文明」で、会話やくっちゃべることは「自然」みたいな。レジュメでも焼き畑がまとめていたけれど、白石・栗原両氏が称揚する「脱構成」はいかなる空間の代替案も受け付けないということだった。俺も「脱構成」って素晴らしいと思うんだ。しかし、「文明」に対して「自然」を称揚しちゃうと、「文明という空間」に対して「自然という空間」が出てきちゃうんじゃないかなぁ。「会議をする空間」に対して「会話をする空間」が。そうすると、脱構成を徹底できなくなっちゃうじゃん。

焼き畑 たしかに白石氏の「自然」という表現には違和感を覚えることはあったけど、じゃあ、「自然」じゃなかったらいいってこと? 「自然」じゃなかったら、と言って私が念頭に置いているのはまたまたランシエールなんだが、彼は「知性の平等は公理である」というように言うよね。「公理」って使い慣れない言葉だが、とにかく「知性の平等」は先行する「本質」ではないということだよね。

都社破 少なくとも俺にとっては、「自然」みたいなものを措定せずに白石氏の議論を進めてくれると、めっちゃ腑に落ちてアツくなれる。もちろん、単なる言葉遣いのレベルではなく、概念的なレベルにおいて、「自然のようなもの」が問題になっているわけだけど。
 じゃあ、概念的なレベルの「自然」って何か。俺がしっくりこないのは、「会議の前に会話がある。だから会話は会議に優越していて、会議がなくても会話でやっていける」っていう議論なんだよね。先行してると語る/騙ることで、みんながなせる力能みたいなものを措定しちゃうと、色々問題が出てくるでしょ。多分その辺が、シュティルナーが問題視していた、「疎外論で神を殺しても結局循環しちゃう」みたいなことな気がするんだよなあ。

(※以前都社破で行なった研究会で主役として扱ったシュティルナーは、フォイエルバッハとの論争の中でその疎外論を次のように批判した。フォイエルバッハは、神は、元々我々人類の内側にあった愛を対象化したものに過ぎない、と主張することで、我々人類の外部である神を我々人類の内部に全て還元しようとする。しかし、その還元は不可能であり、結局のところ、「本質」がぐるぐると「循環」していくに過ぎないというのが、シュティルナーの批判だった。――都社破注)

焼き畑 「先行したものが優越する」って言ったら、真に優越すべき原始のものは何か、という形で問いが循環ないし無限に後退してしまうわけだよね。しかし、「会話」が優越するという根拠がないのと同様に、「会話」に優越するものが存在する根拠もない。「会話」と「会議」とが相反しているのではなくて、一切は「会話」であるにもかかわらず、そこに「会話」と「会議」という階層秩序を見ることと、単に一切は「会話」であると見ることとの間に対立があり、白石氏が問題にしているのもそこだと思っているのだけど。

都社破 俺も整理して話せないが、「会議」の存在が体制を作っているって言われても、あんまりピンと来ない。「会議」と「会話」はどっちもセットで体制を成していると思うんだよ。だから、どっちもムカつくって言っちゃっていいと思うんだよな。それがつまり、「会話」という「自然」を措定しないまま、「会議」を批判する、ということなわけだけど。

焼き畑 うーん。なんかあんまり「会話」の「会(って)話(す)」というニュアンスを汲まないで、単純にランシエール先生とのアナロジーで読んでしまっていたなあ。

都社破 『文明恐怖本』だと、個人的には、栗原氏が提起して白石氏も応えていた親鸞の話にマジで泣きそうなほどに感動していた。

栗原 […]ほんとうだったら修行を超がんばって、少しずつ鍛え上げていかなきゃいけないところを、「阿弥陀」っていう名前を言えばいいだけじゃん、と(笑)。「南無」というのは「帰依する」という意味だから、ただ「南無阿弥陀仏」っていっとけば救われるんだよ。
[…]
栗原 ひとりひとりに到来してくるという。組織に属して手順を踏んでいかないと到来しない如来ではなく、みんなが、誰もがそこへ到達できるという発想ですよね。親鸞はそれをひとりで、パッと掴んでしまった。
白石 文明の側からすると、ものすごく扱いにくい。アナーキーと言ってもいい。たった1人の最小回路のなかでこそ、如来が到来する。

(『文明恐怖本』p. 89)

都社破 親鸞には、会議している空間も会話している空間もないよね。それらの組み合わせとしての社会それ自体が腐敗していると確信しているわけだ。疎外論も唯物論も何もあったもんじゃない。何もかもが腐っててムカつくぜ~~みたいな感覚があって、そんな諸々の空間を全てスキップして訪れる救済のことを親鸞は考える。最近は親鸞のことしか考えられない。脱構成ってこれのことでしょ。てか、これが脱構成じゃなかったら脱構成がもうどうでもいいよ。
 栗原氏が『はたらかないでたらふく食べたい』という本を出してるよね。「会議すべき空間」で適切に会議して「会話すべき空間」で適切に会話するのが、ホワイトカラーにとっての労働なんだから、「はたらかないでたらふく食べたい」ってのは、俺にとっては、「会議も会話もしないでたらふく食べたい」という風に解釈する。だから、「会って話す」ということに重きを置かれて、「会って飲み会してたらふく食べたい」的なことを言われるとノレない所がある。「働かないでたらふく食べたい」というのは、「会って飲み会してたらふく食べたい」と「会議も会話もしないでたらふく食べたい」のどちらなのか。
 この点に関連して、栗原氏が書いてたことで良いなと思ったことがあってさ。「会って話す」っていうのって、なんか近年ブームの「人類学アナキズム」と近いものだと思うのよ。で、「人類学アナキズム」ブームの先駆けであるデヴィッド・グレーバーは「コンセンサス」の重要性と可能性を強調している。運動の現場でも、全員一致で、水平に話し合うことが大事で、そういう空間が一時的に出てくること自体が最大の革命なんだ、みたいな。
 「アナキズム・ナウ」ってテーマで特集が組まれていたときの『文學界』に、栗原氏と松村圭一郎氏と森元斎氏との鼎談の書き起こしが載っていたんだけど、そこで栗原氏は、氏自身がその目で見たグレーバー的実践を紹介して、「スゲー!!」って思ったって書いた直後に、「僕はめんどくさかったんで外でビール飲んでたんですが(笑)。ともかく……」みたいなことを書いてるんだよね。真面目な〝活動家〟的な視点から言えば、活動に真面目に参加しないこの栗原氏の態度は許せないのかもしれないが、俺は別に〝活動家〟じゃないので、真剣味とか強度とかはどうでもいい。その上で、ここまで俺たちがしてきた議論の上に話を乗っけると、「会って話す」ということへの、これくらいのテキトーな距離感が重要だと思うんだよな。

焼き畑 僕も同じところに注目していた。というか、都社破は読んでいるはずの「アナキズム、脱構成、ユートピア」に関する私の「メモ」にも書いていたし、それ以前から何度か話題に出していたと思うんだが……。

都社破 そうなんだ。

焼き畑 人の話はちゃんと聞けや。その「メモ」において私は、「〝共生としてのアナキズム〟批判」で批判した「人類学アナキズム」と栗原氏の「アナキズム」との間に切断があるのではないか、と主張してみている。さきほどまとめたように、「人類学アナキズム」は疎外論的な発想を「科学的に」補強してしまっていると私は考えている。その意味で「人類学アナキズム」は根拠をより強固に求めてしまっていると言えるのではないか。一方で、栗原氏はむしろ一切の根拠を否定している。ここに切断を見るべきではないか。「メモ」では、その切断を表しているかもしれない例として、都社破がいま言った『文學界』での鼎談を挙げた。グレーバーが語る「コンセンサス」を「人類学アナキズム」は素直に受け取りすぎている印象を受けるが、栗原氏はこの「コンセンサス」が実際には忠実に守られないところにも注目している。

都社破 目の前に広がっている所与の体制(近代資本主義、自由民主主義、議会制etc.)の自明性を疑おうとしてみる。そのときに、「人類学アナキズム」は、近代や資本主義というチャチな根拠を超えて、人類、あるいは生物それ自体という大規模な根拠を創出するんだよね。「働いてお金を蓄積して交換して行く労働者/資本家」という近代資本主義を支える根拠に対して、「困ったら助け合う」とか、そういう、人類、あるいはもっと拡大して存在それ自体としての根拠を提示する。
 一方、その逆の方向性もあって、近代や資本主義という根拠を、自分自身という根拠さえも破壊して行くことによってぶっ潰そうとする方向性もある。栗原氏のさっきの発言を超拡大解釈すれば、この後者の方向性を示していると言えないこともない。

国家なしでは生きられない。しかし、誰でもいつでもどこでも運動は可能である

焼き畑 ここまでは疎外論は許容しがたい抑圧であることを前提に、白石氏の主張が疎外論に属するかどうかを論じてきたとも言える。上の議論と大枠としては同じものを「補足」として「資料①」に添付していたわけだが、これに対して白石氏からいろいろとご意見をいただいた。後述するようにこの文章ではそのご意見を十分に生かせていないのだが、それはそれとしてここまでの議論と関連して語りたいことがあるので、もうしばらく続けさせてもらう。白石氏はトークイベントの中で「私は疎外論でいいと思うけどね」とおっしゃっていたが、私も疎外論を峻拒してきたつもりだが、最近結構揺らいでいるところではあった。
 しかし、最初に確認しておきたいのは、私が「疎外論的な発想」と呼んで批判したものは依然否定しなければならないということだ。改めて、私が何を「疎外論的な発想」と名指して批判していたかというと、それは〈人々が知らない人間の「本質」を超越的に断定して、つまり人々が知らないが知るべきであり、人々が知らないが自身に宿っているような「本質」が存在すると宣告し、その「回復」へと向かう=向かわせるもの〉である。そして、そのことの何が問題かといえば、それは〈人間の「本質」に従うよう人々を抑圧し、あるいは人間の「本質」を裏切るモノ(人でなし)を排除し、「あなたは知らないがあなたにも宿っている」人間の「本質」を宣告することによって、すべての〝疎外された〟「あなた」に対する知的な優位を確保(し、それによって抑圧と排除を正当化)する〉ことにある。
 このような意味での「疎外論的な発想」に抑圧が存在し、それを否定する理由はあってもそれを許容する理由はないということに変わりはない。しかし、わざわざ「的な発想」と控えめな表現を使っているように、そこで批判されていることは疎外論とイコールではない。というと、譲歩ないし撤退ないし言い訳をしているように思われるかもしれないが、そもそも「的な発想」という表現によって、個別のシーンで表れてくる「そういう物言い」を総称しようという意図があった。私は「政治哲学者」じゃないし、疎外論という「専門用語」ひとつ批判したって意味ないからね。
 かといって、そういうことを言うと、「〝真の〟疎外論は何か」という泥沼の議論になりかねないから、そろそろ何を論じたいか明示しておくと、われわれがこれまで疎外論であるとみなしてきた言説(もちろんすべてではないが)は果たしてわれわれの言っていることと矛盾するかということだね。疎外論であるとみなしてきた物言いとわれわれ(というか私)が言っていることとは同じでさえありうるのではないか。
 この議論を提起した私の動機とも関連して、具体的には「国家は要らない」という物言いをどう判断するか、ということについて考えたい。私が普段から言っているのは、「われわれが自らの不満にのみ立脚して運動をしていくことを否定するのは抑圧の(ための)論理のみであるという確信を持つことが必要である」という「人生論」みたいなことなんだが、この「確信」というのは、結局は「われわれは国家なしでも生きられる」ということとセットじゃないか、と。

都社破 そこは全然セットじゃなくて、そして、セットじゃないのにセットとされてしまっていることにこそ、何か大きな問題があると思うんだ。その問題については、イベント当日も、「アナキスト健康保険証」問題をめぐって長々と話したのだが、イマイチ誰もアツくなってくれず燻っていた。そこの辺りの議論を、より整理して今から言おうと思う。
 とにかく抑圧的で反動的で体制的な言説というものをざっくりまとめてしまえば、「国家(/社会/制度etc.)なしでは生きられない」という〝前提①〟が、「私たちは国家(/社会/制度etc.)に服従し、努力し、労働しなければ生きていけない」という〝帰結①〟を導くタイプの言説だと言える。ここでは「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」という論理が行使されている。この反動的な〝帰結①〟をひっくり返して、「誰でもいつでもどこでも運動(/抵抗/革命/蜂起etc.)できる」という革命的な〝帰結②〟を導くにはどうすればいいだろうか。
 考えられる方法の一つは、「国家(/社会etc.)なしでは生きられない」という〝前提①〟を覆し、「国家(/社会etc.)なしでも生きられる」という〝前提②〟を提出することだ。提出された〝前提②〟は、〝前提①〟を覆すことで、無力な国家に従い続ける必要がないことを示し、〝帰結②〟「誰でもいつでもどこでも運動(/抵抗/革命/蜂起etc.)できる」の正統性を担保するだろう。このとき、「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」という論理は、「〝前提②〟したがって〝帰結②〟」という論理によって覆された。
 だけど、〝帰結①〟を崩して〝帰結②〟に向かうために、必ずしも〝前提②〟を経由しなければいけないのだろうか。「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」となっている時、前提から帰結への移行は自明となっている。この自明性を担保している「したがって」の部分を破壊しちゃえばいいんじゃないかな。
 「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」でも「〝前提②〟したがって〝帰結②〟」のどっちでも、主体が生きていくにあたって不要なものに対しては抵抗してもいいんだという論理が共通している。国家(/社会etc.)が価値を産出していて、私たちはそれに寄生しているに過ぎない存在であるとすれば、私たちは国家に逆らってはいけない。私たちが価値を産出していて、国家は私たちに寄生し搾取しているだけの存在ならば、私たちは国家に逆らっていい、ということだ(価値の産出というと抽象的だが、持続可能性を保証できないものには逆らっていい、という話でもある(多分))。
 しかし、「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」でも「〝前提②〟したがって〝帰結②〟」でも、いずれにせよ、自らを生かしている当のものに対する反逆ということが問われていない。そこが問われていないことに、反逆になんらかの担保が求められてしまっていることの問題が潜んでいる。
 ここは非常に重要かつ甚だアツいことなので、同じことを言い換えて表現する。「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」においては、人々は反逆に足る資格を持った主体ではない(≒価値を産出していなくて、搾取もされていない)から、反逆してはならないということが言われている。「〝前提②〟したがって〝帰結②〟」においては、人々は反逆に足る資格を持つ主体である(=価値を産出していて、それを搾取されている)から、反逆して良いということが言われている。どちらの論理においても想定されていないものが、反逆に足る資格を持たない無資格な主体が起こす反逆だ。
 そこを考えるためには、「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」と「〝前提②〟したがって〝帰結②〟」の両者に共通する「したがって」を破壊して、「〝前提①〟しかし〝帰結②〟」としなければならない。〝帰結②〟「誰でもいつでもどこでも運動(/抵抗/革命/蜂起etc.)できる」は、全く無根拠に、それこそ「アナーキー」=「アン・アルケー」に導いてしまい得るものなんじゃないだろうか。その〝無根拠さ〟の倫理的善悪はさておいて。

焼き畑 なるほど。今の都社破の話を図式的に整理すると、こんな感じになるのかな。

《体制の抑圧的論理》=私たちはその資格を持たない主体だから反逆してはならない
前提① 国家なしでは生きられない
したがって
帰結① 国家に服従し、努力し、労働しなければならない

《反体制の抑圧的論理》=私たちはその資格を持った主体だから反逆して良い/すべき
前提② 国家なしでも生きられる
したがって
帰結② 誰でもいつでもどこでも運動できる

《無根拠な政治》=私たちはその資格を持たない主体だが反逆しうる
前提① 国家なしでは生きられない
しかし
帰結② 誰でもいつでもどこでも運動できる

都社破 そうだね。こうした議論を踏まえて、当日語った「健康保険証を持つアナキスト問題」を思い出してほしい。そこで俺が熱弁していたのもまさに、「〝前提①〟したがって〝帰結①〟」という《体制の抑圧的論理》はもちろん、「〝前提②〟したがって〝帰結②〟」という《反体制の抑圧的論理》さえも退けて、「〝前提①〟しかし〝帰結②〟」という《無根拠な政治》のことのつもりだったんだ。説明不足で伝わらなかったのか、伝わったうえで誰にも響いていなかったのかは謎だが……。

白石 「表象」っていうのは、簡単に言えばマイナンバーカードみたいなもんで、「紐づけられている」ことだね。……
 たしかに俺だって紐づけられてます。そういう場面はあります。それだけなんですかということです。俺だって健康保険証持ってます。恥ずかしながら。栗原さんは健康保険証持っているっけ??
栗原 持ってますね(笑)
白石 俺も持ってるけど。でも本物のアナキストは持たないよねぇ(笑) まぁだけど、そういう紐づけられるだけの存在として俺たちがあるのかっていうことだよね。
都社破 そうですね。今栗原さんが健康保険証を持っていると言うことを告白していましたが、僕的にはこれは非常に大事なところだと思っていてですね、つまり、栗原さんが健康保険証を持っている方が良いということですね。というのも、健康保険証を持っていないのが本物のアナキスト、的な発想に凝り固まりすぎると、主体になんらかの根拠を求めていく発想になると思うわけですね。健康保険証も持たず、病院もいかず、保護ももらわず、国家なき生き方を実現している主体は偉くて、これをアナキストと名指す。そういう風に発想してしまうと、アナキストは偉くて他の奴らは偉くない、みたいな倒錯になっていくわけですね。こういう倒錯は良くないのではないか。保険証を持っている奴も持っていない奴も、どっちが何をやったって良いわけですね。むしろ、Aという主体がAみたいなことをして、Bという主体がBみたいなことをするという因果律が破壊されているところに、アツいことは求めなければいけない。健康保険証を持っていない真性のアナキストという主体を探して、そこに発言権や主体性を求めてしまうと、健康保険証を持っている権力の犬には、発言権も主体性も存在しないということになる。これは良くないんじゃないか。例えば、栗原さんが健康保険証を持っていたら、アナキストみたいな主体がアナキストみたいなことを言っているだけで、主体と発話を結びつける因果律に縛られていて、かえってあんまり面白くないんじゃないか。保険証を持っている栗原さんが、持っているくせに変なことを言っている方が、よりアナーキーで良いんじゃないか、ということですね。

都社破 「〝前提①〟しかし〝帰結②〟」と発想するのは、結構良い所が多いと思うんだ。無限に語れることはあるが、極めて簡潔に語ろう。
 まず、ハウツー的(?)には、〝帰結②〟を導くために、〝前提①〟で生きている人たちに〝前提②〟を啓蒙するような過程がいらなくなるということ。啓蒙とかしてると、容易に教会権力が誕生してしまう。
 そして、思想的には、あるシステムよりも優れたシステムを代案として想定する必要がなくなって、脱構成を徹底できるということ。これは、「リアリティ」を巡る不毛な議論から脱出できるということも意味する。俺たちが議論してきた文脈に合わせると、「民意」の虚妄性に対して「民衆」の実在性を訴える必要もないし、「会議」の虚妄性に対して「会話」の実在性を訴える必要もない。「文明=会議=国会という空間」に対して「自然=会話=飲み会という空間」を称揚する必要がなくなる。「民意」も「民衆」も「会議」も「会話」も、それらすべてが虚妄であって、捏造された根拠であると言ってしまえる。
 最後に、突然実利的な話をすると、無責任にベーシックインカムを要求することができるようになるということ。アナキストが国家からの給付で生きていくことを要求するのはおかしい、というような話がよくある。この違和感は、「〝前提②〟したがって〝帰結②〟」タイプの論理を構築してしまえば、ある程度までは妥当なものだと思う。ベーシックインカムという国家からの現金給付がなければ生きていけないのか、そういうものがなくても生きていけるのか、どっちなのか。ここが曖昧になってしまう。しかし、「〝前提①〟しかし〝帰結②〟」式の発想をすれば、その問題は解決される。国家からの現金給付が欲しいんだ。なぜなら、労働市場で自らの力でサバイブしていくのは勿論無理だし、疎外されない人間関係の中で実存的にも生活的にも自分を満たしていくなんて、無理だし嫌なんだから。そして、国家は莫大な力でもって通貨発行権を持っているから、無条件の現金給付が可能なはずなんだ、多分。その莫大な力の恩恵を受けると同時に、その莫大な力による不愉快な抑圧には、逆らっていい。それを可能にするのが、「〝前提①〟しかし〝帰結②〟」的な発想なんだと思う。

焼き畑 そうだね。都社破ほどきれいに整理していなかったけど、私も「しかし」派のつもり。「運動が可能である」という確信を持つことと「国家なしでも生きられる」という確信はセットではないかと言ったときに考えていたことは、一方では、「運動が可能である」と確信するとき、すでに「国家なしでも生きられる」ということは確信されていないか、ということだったんだけれど、全然そんなことはない。「セット発言」は撤回する。最近「国家って俺を生かしてなくね?」という気持ちが強くて、ちょっとテキトー言ってしまった。このところずっと「月15万円の無条件給付をしない国家が俺を生かしているとはとても言えないんじゃないか」と思っていたが、重要なのは、仮に国家が月15万円を無条件給付するものだったとしても、それに寄生し(ていると認識し)つつ、運動は可能だということだね。それはそれとして月15万円の無条件給付をしない国家は俺にとって何だというのか……。

都社破 あぁ、ベーシックインカムが欲しい!!

焼き畑 他方で、国家なしでも生きられるのではないか、「国家なしでも生きられる」と記述して構わないのではないか、と言うときに私が考えていたことはもうひとつある。トークイベントの中で私は、『文明恐怖本』で用いられている「多様性」という言葉に対して「多重可能性」という表現をとりたい、と述べた。このわざわざ言い出した「多重可能性」というのが、結局のところ「多様性」と同じことを言ってはいないか、と。先に言っておけば、それらはやはり違うものだと、あるいは違うものになりうると思うのだが。

(※話をややこしくして申し訳ないのだが、断っておかなければならないだろうことは、『文明恐怖本』で「多様性」という言葉が肯定的に用いられている場面は一応あるにはあるのだが、特に白石氏において、「多様性」という言葉は否定的に用いられることが主だということだ。トークイベントの中でも、勤務先の大学で「多様性」を言う人々によってキャンパスでタバコが吸えなくなった、「多様性」には裏がある、というようなことを白石氏は言っていた。
 『文明恐怖本』を読み返すと、そのような「リベラルな多様性」に対して、例えば石牟礼道子の「混乱体」という言葉を紹介してるのがわかる。今回の資料ではその「混乱体」とでも呼びうるものを「多様性」と呼称してしまっている。この文章は「今回の反省会」と「次回のレジュメ」を兼ねているので、とりあえず「多様性」と表記させていただく。
 加えて、白石氏がトークイベントの中で「表象」に捉えられえないものとして「イメージ」というものを提示してくださったのだが、そのことも以下の議論では十分に反映されていない。イベントが終わってから1か月になるのに、この間何をやっていたんだという感じはするが、とにかく、以下でわれわれが批判しているような「多様性」を肯定する言説に、白石氏・栗原氏の議論を含めることができるのか、ということについては留保をつけておきたいということだ。――焼き畑注)

 断り書きが長くなったが、「多様性」に対して「多重可能性」というものを提起したいという話だった。
 「多様性」という言葉で私が想定する構図においては、「民衆は多様に生きていて、それを国家etc.が抑圧している」ということになる、つまり後から生じた抑圧に対して先行する「多様性」という「本質」を民衆に対して超越的に刻印する「疎外論的な発想」になってしまうのではないか、と私は考えた/考えているわけだ。「多様性」というものは運動etc.を民衆に「内在的」なものであり「必然的」なものであるとみなしていて、それを超越的に宣告するところに前衛主義が生き残っているのではないか。「多様性」というと超越的な宣告から免れてなんか自由な感じがするが、ランシエールは「人民かマルチチュードか?」という論考において、「多様」であることを称揚したネグリ=ハートが、それを宣告する超越性の資格によって、多様であるはずの運動を「良いマルチチュード」とそうでないものとに分類し、政治を選別している、と指摘している(『現代思想』2003年2月号)。
 そのような「多様性」に対して、私は「多重可能性」という言葉を使って、「民衆は国家に寄生して生きている。しかし、そこから逸脱していくことがある」というように記述することを提起した。ここでは逸脱はいかなる根拠も担保も持たない「偶然的」なものである。あらゆる逸脱は、それを「必然的」であると考える根拠がないという点で「偶然的」であり、それを「必然性」で囲い込むことは「必然性」によって説明されない政治を排除することにほかならない。
 しかし、「民衆は国家に寄生している」と考える根拠もまたない。実感としては「人々はつねに国家なしで生きられるというわけじゃなくて、フツーに過ごしている分には国家に寄生して生きている」と思うんだけど、「疎外論的な発想」に象徴されるような「それは政治ではない」と宣告する論理を退けるならば、あるときそれを裏切って叛乱を起こしていくことは可能だというとき、その「あるとき」は偶然的かつそこら辺に二重に存在しているということになるわけだよね。これは言いようによっては、「人はつねに国家を裏切りながら生きている」とも言えると思う。
 さっきの都社破の表現に倣って言えば、「多様性」は〝前提②〟を超越的に宣告するのに対して、「多重可能性」は〝前提①〟を超越的に宣告していないか、ということだね。トークイベントの中で白石氏は、私の提起に対して「紐づけられている状態と紐づけられていない状態のどちらが一時的であると考えるかだよね」とおっしゃった。これはつまり、「多様性」と「多重可能性」は〝前提①〟と〝前提②〟のどちらを一時的なものと捉えるかの違いでしかないかもしれないということだよね。「新しいことを言う」ことが目的じゃないから、その二つが違うかどうか自体はまあどうでもいいのだが、違わないとすれば、「多重可能性」という記述もまた存在への刻印であって拒絶するべきものなのか、それとも「多様性」という記述は拒絶しえないものなのかが問題になる。
 しかし、重要なのは「多〝重〟」であることだと思う。「民衆は国家に寄生している」と考える根拠もないということは、「民衆は国家から自由で国家なしでも生きていける」ということを直接には意味しない。民衆は国家に寄生していたりそれを裏切ったりしているわけだが、そのどちらの状態が「本質的」なものであるか(あるいはどちらが「一時的」なものであるか)を語る根拠はない。片方が「本質的」で、もう片方がそこからの〝逸脱した〟「一時的」なものであると考える根拠はない。寄生したり裏切ったりは同時に行なわれている(と記述して問題はない)し、同時に行なうことができるという指針を示すこともできる。どちらが「本質的/一時的」であると言えない以上、「多重〝可能〟性」は単に「多重性」と改めるべきなのかもしれないが。
 「私」についても同様に〝前提①〟と〝前提②〟のどちらを本質的なものとして生きているかということは論じえない。私は「国家なしでも生きていける」かもしれないし、「国家に寄生して生きている」かもしれない。しかし、そんなことは論じえないわけだ。ただ国家に対する服従と逸脱がシーンとして存在しているだけで、私という主体についての〝前提〟、あるいはそもそも「私という主体」という〝前提〟は存在しないと考えるべきではないか。

都社破 そうだね。俺も「〝前提①〟しかし〝帰結②〟」の利点を力説したが、それは、体制派にしろアナキスト派にしろ「したがって」式の論理ばかり目にするから、そこを崩したくて言っただけで、〝前提②〟に対する〝前提①〟の優位性を反動的に説明したかったわけではない。〝前提①〟だろうが〝前提②〟だろうが、そんなことはどっちでもいいんだ。無責任なことを言えば、どっちでもあるわけだしね。だから、そもそも「前提」という発想がどうでもいいってことだよね。知りえない前提が捏造されて、それが自他に課されていく時に、反動的な権威が立ち現われる。捏造された前提から〝したがって〟式に帰結を求めていく発想それ自体を断たなければいけない。

焼き畑 何かの本で数行書かれていたのを読んだ記憶があるだけだからアレなんだが、疎外論の最大の意図は、いままかり通っている支配を「疎外」と名指すところにあるんだ、という主張?説明?があるらしい。言ってみれば、疎外論は必ずしも「本質」とは何かを問題にしないんだ、ということだろう。「本質」はあくまで理念でしかないということかもしれない。疎外論において言われていることは、必ずしも「国家なしで生きられる」ということではなくて、「国家なしでは生きられないと考える根拠はない」ということなのだ、と。そこまで疎外論の定義を拡大されたとき(むしろわれわれが限定してきたというべきなのかもしれないが、それは〝真の〟疎外論をめぐる不毛な議論になるのでこれ以上言わない)、われわれはそれを否定する理由があるか、ということだね。

都社破 確かに、「国家はなくても、人類は相互扶助で生きていける」という発話だったり、さっきの俺のメモの部分で触れたフォイエルバッハの議論に重ねて「神はなくても人類は相互愛でイケる」みたいな発話だったりっていうのは、「国家(/神)がなければ生きていけない」という、人に服従を迫るような「人間本質」を相対化する効果があるらしい。その効果は、「疎外論を行使しても、また別の抑圧的な「人間の本質」が形成されるだけで無意味なんだ」と言って一概に批判できるものではないのかもしれない、ということは俺も考えていた。「国家がなくても生きていける」という発話は、捏造された前提を他人に共有させるものであると同時に、「国家が無ければ生きていけない」という専制的な表象への不法侵入により、それを相対化する機能も持つ。都合よく後者ばかりが注目されるが、前者の側面もある。ということで我々は前者の側面に着目してきたが、しかし、それでもやっぱり後者の側面は大事なのかもしれない。っていうか、表象への不法侵入は、もしかしたら他の表象を打ち立てることによってしか可能にならないのかもしれない。

焼き畑 しかし、問題は、ここで「国家なしでは生きられないと考える根拠がない」ということの〝根拠〟が求められてしまうことにあるのではないか。つまり、「国家なしでは生きられないと考える根拠はない」ということをとりあえずは言いたかった疎外論が、「根拠はない」ことの〝根拠〟を求めて例えば人類学を参照した瞬間に、容易にそれは「国家なしでも生きられる」ことの〝根拠〟に転化してしまうのではないか。「国家なしでも生きられないと考える根拠はない」という「確信」を得るために呼び出されたものは、「国家なしでも生きられる」という「事実」になってしまう。
 だから、普段私が言っている「人生論」にはこのように字句を付け加えるべきだろう。〈われわれが自らの不満にのみ立脚して運動をしていくことを否定するのは抑圧の(ための)論理のみであるという確信を〝無根拠に〟持つことが必要なのである。〉
 この章はちょっとややこしくなってしまった印象があるのだが、おそらくその理由というのは、問題提起をした私が「民衆」を主語に物を考えてこなかったし、考えたいと思ってこなかったことにあるだろうと思う。「民衆」を主語にとることは意識的に避けてすらいたのだが、トークイベントの資料やこの「反省会」では「民衆」を主語に考えを進めていた。これは単に、今後は「民衆」という言葉を使わないように気をつけるというような形で解決される問題ではなく、われわれの思考様式が直面せざるをえないものなのではないか。
 かつて都社破と書いた「学生メーデーを超えて」に対して、われわれの共通の友人の一人は「この文章は社会の成員全体がサイコパスであることを前提としていないか」というような指摘をしてくれた。これは興味深い読みだと思う。「学生メーデーを超えて」のアジテーションは「不満のある奴」――「サイコパス」という言葉がどのように用いられるべきか(あるいは用いられないべきか)は知らないが、とにかくその批判の意図を汲んでみれば、「社会に対して帰属意識を持たずむしろ敵意をさえ抱いているエゴイスト」とかになるだろうか――を前提としているが、別にそこら辺の人々が全員そうであることを前提にはしていないわけだよね。しかし、その友人は「そこら辺の人々が不満に満ちた存在であることを前提としていないか」と読んだ。これは単に誤読とは言えない、われわれの文章に内在している問題を示してもいるのではないか。
 「学生メーデーを超えて」にせよビラにせよ私の書く/書いた文章は、第一には不満の表現であるにせよ、「不満のある奴」に向けたアジテーションを企図したものでもあるつもりなんだが、その「不満のある奴」は実体的に存在するわけではない。というのは、民衆一般や労働者などの特定の主体やあなたや私に対して、潜在的なものであれ「不満がある」とか「ない」とか、「不満を表出している」とか「していない」とか宣告する資格は私には(誰にも)ないからだ。このような宣告は、何が政治的に問われる〝べき適切な〟不満であり、そのような不満に関してどのように振る舞うことが〝適切な〟表現であったり闘争であったりするかを前提としている。
 したがって、不満やその表出は存在しないと宣告することは、それは〝適切な〟不満ではない、それは〝適切な〟表現・闘争ではないと宣告することであり、〝政治〟の選別である。一方で、民衆や特定の主体やあなたや私は「不満を表出している」と宣告するならば、単なる現状肯定にしかならず、現状肯定でない形で「不満の表出」を事実として肯定するならば、そこに現状破壊的な力能を超越的に刻印することになる。その刻印によって与えられ、かつその刻印を可能にしている超越性は、不満の表出として等価であるはずのもの(政治)を、現状破壊的な力能を実現している良いものとそうでない悪いものとに選別する。
 民衆に対して「不満を表出している」とも「していない」とも刻印できず、それでもなお「民衆」について語ろうとするのであれば、「不満を持っているかもしれないし持っていないかもしれないし、それを表出しているかもしれないししていないかもしれない」と言うしかない。これは何も言っていないに等しい。私はそれでも構わないと思うのだが。しかし、これはそれで構わないと思う理由でもあるが、そもそも民衆(人間)がどのような存在であるかということは、〝私が〟不満を表出することと関係がないのではないか。私は自らの不満にのみ立脚して運動をしていくことができる。それを否定するのは抑圧の(ための)論理のみであるという確信を〝無根拠に〟持つことが必要である。

都社破 「民衆(/労働者/国民/学生/ルンペンプロレタリアート/貧民etc.)はどのようなものか」「民衆(/労働者/国民/学生/ルンペンプロレタリアート/貧民etc.)がなす政治的行為とは何か」という知的好奇心自体は、〝間違ってる〟とまでは言えないと思う。
 しかしその問いは、余りにも容易に、〝政治的〟/〝革命的〟な転倒をしていく。「どのような主体ならばそれを民衆(/労働者/国民/学生/ルンペンプロレタリアート/貧民etc.)と呼べるだろうか」「どんな政治的行為ならばそれを民衆(/労働者/国民/学生/ルンペンプロレタリアート/貧民etc.)がなす政治と呼べるだろうか」...。この転倒をしてまで革命的主体を探すんだったら、脱構成的なモチベーションをどこかの社会階層に投影せずに、主語は誰でも良い誰かのまま色々考えた方が良いんじゃねってことだよね。

焼き畑 まあ、とにかく、われわれは民衆一般・人間一般・存在一般の味方ではなく、怒れるあなたの味方です!

都社破 うおおおおお🔥🔥🔥 怒ってばかりでたらふく食べたい🔥🔥🔥

ニッポン・イデオロギーを超えて、原発廃絶

焼き畑 時間は無限ではないし十中八九イベントの中で使うことはないだろうと思いながらも、原発についても資料を作っていた。私は学費問題に並んで原発問題を個人的に重視していて、とにかくより多くの機会に乗じて、より多くの人の目につくようにしたかったからだ。しかし、書きたいことが膨らんで収拾がつかなくなっていて、「どうせ原発のことは今後もいくらでも語ることになるのだから、今回は配らなくてもいいかな」と有耶無耶にしようとしていたのだが、都社破の後押しにより当日印刷・配布することができた(現在ウェブ上に公開している資料はそれに加筆修正をくわえたもの)。案の定イベントで使うことはなかったが(なかったからこそ)、ぜひご一読いただきたい。以下は、その資料「原子力体制」の補足として載せていた議論に加筆修正を施したものである。
 資料にあるように、栗原氏は、ロベルト・ユンクが指摘する原子力体制の支配を、①負債による労務管理、②原子力生活の全面化、③対テロ戦争の日常化とまとめている。

  1. 負債による労務管理――巨大で危険なエネルギーを扱っているのだから失敗は許されない、と言われ、絶えざる自己点検にさらされる

  2. 原子力生活の全面化――原発なしでは生きられない、と言われ、原発に反対することは人々の生活を脅かす「迷惑」なこととして封殺される

  3. 対テロ戦争の日常化――巨大で危険なエネルギーをテロリストに「悪用」されないように、と言われ、監視・管理が無限に強化・正当化される

 私はこれらの支配と重なる形で「政治的係争以前の段階で人を黙らせる」構造があると考え、かつそれは今年8月の福島第一原発「処理水」海洋放出問題と大きく関わることだと確信しているので、そのことも資料に載せた(資料の「専門家権力の肥大」「〝良心的な〟顔をした統治」を参照)。
 原子力を有する体制は、原理的にあるいは必然的に、「原発を安全に管理するため」という名目で社会全体への監視・管理を正当化し、無限に強化する。しかし日本の場合、その当の原発の監視・管理に失敗しているのではないか。そのことが国民的に明らかになったのが「3・12」の福島第一原発事故であったといえるのではないか。このことは原発自体の危険性を物語ってもいるが、同時に「日本の問題」を浮き彫りにするものでもあるのではないか。
 というか、福島第一原発事故以後の反原発論においては、少なからぬ部分がそのような「日本の問題」に重きを置いているような気もするのだが、そのような議論は、原発問題を「日本の問題」に全面的に還元することにもなりうるのではないか。つまり、「日本の問題」を克服すれば原発を稼働させてもいいということになってしまっているのではないか。
 したがって、原発問題を「日本の問題」に全面的に還元してもいけないのだが、一方で、どうも原子力体制として日本は完成していないような節があり、そのことがそれとして問題を生んでいるという視点が必要なのではないか。
 思想家・笠井潔『8・15と3・11』は、福島第一原発事故の原因を「ニッポン・イデオロギー」から説明する一方で、その反原発の根拠自体は、資料で挙げたものと重なるところが大きく、「原子力体制の原理的な姿」と「日本固有のあり方」との両方を問題にしているといえる。

①たとえ安全でも、あるいは安全にしようと努力すればするほど、原発は自由を制限し剥奪する。社会に埋めこまれた下からの権力装置として無限に肥大化するから、原発には反対しなければならない。
②原発は、われわれ一般人を排除し抑圧する専門家の権力を増殖させる。専門家の意見は意見として、最終判断は当事者であるわれわれが下す自由を、諸個人の自律と自己決定をいやおうなく掘り崩してしまうのが原発という装置だ。
 パイロットも専門家だとすれば、ジェット旅客機に乗るのも専門家にわれわれの自律を預けてしまうという意味においては同じではないかという反論があるかもしれない。ただし、ジェット旅客機には乗りたくなければ乗らないという選択肢、自由な判断の余地が残されている。これにたいし原発は、まさに3・11が事実として露骨に示したように、いやおうなくだれをも巻きこんでしまう権力装置といわざるをえない。
あるいは原発は、プルトニウムに典型的な危険きわまりない放射性物質を生産する。本当は話が逆で、核兵器の材料となるプルトニウムを生産する技術が、副産物として原発テクノロジーを生んだのだが。いずれにしても原発が稼働する限りプルトニウムは生産され続け、世界内戦の時代ではそれを「テロリスト」や「ならず者国家」に奪われないようにするため、治安権力による監視の強化は必然化され、諸個人の自由は無限に制限され剥奪されていく。
④また原発は差別の構造を不可避に生みだす。稼働させ続けるには、放射能被曝の危険にさらされる現場労働者の存在が不可欠だからだ。電力会社の正社員は特権的な立場に安住し、下請けや孫請けの非正規労働者が危険な現場作業に狩りだされる。こうした差別構造を原発というシステムは不可欠の前提とし、それを無限に強化し続ける。
 事故を起こす危険があるから原発に反対するのではない。社会に埋めこまれて際限なく肥大化する権力装置だから、諸個人の自由を必然的に制限し剥奪するシステムだからこそ、原発は否定されなければならない。

(笠井潔『8・15と3・11』pp. 215-217, 番号引用者=焼き畑)

都社破 笠井潔がいう「ニッポン・イデオロギー」ってのは、「日本は近代的主体すらも未熟で、嫌なことは後回しにして、責任を無限に先延ばしにしていこうとする……」みたいな精神性のことだよね。日本は8月15日が「〝終戦〟記念日」ということになっているが〝終戦〟っていう風に表現することで、戦争があたかも自然災害のようにヒュっと始まってヒュっと終わったかのような語り口になっている。しかし実際は、日本は国家として戦争を開始して、それに敗北しているはず。自然現象のように戦争が〝終わった〟のではなく、開戦を決断した主体として、日本が戦争に〝敗けた〟はずなんだ。本土決戦に突入して〝敗け切る〟ということもなく、その辺を微温的にごまかしながらやってきた。
 『例外社会』をはじめとした著作で笠井はこのことについてしつこく語っているよね。「戦争が〝終わった〟と捉えることで、アメリカからの支配をのうのうとやり過ごしていた日本人の劣等性」というような発想が、笠井にはある。『8・15と3・11』も、たしかこの「ニッポン・イデオロギー」についての話がページの大半を占めていた記憶があるんだけど、そのことと、さっき確認した笠井の反原発の根拠って、どういう風に関連するの?

焼き畑 〝敗戦〟を引き受ける主体としての責任から逃げた「ニッポン・イデオロギー」は、「悪いことは考えないようにしよう、考えなくても何とかなるだろう」という精神性なわけだよね。福島第一原発事故は、〝終戦〟以後その精神性が総括されなかったことの必然である、と。厳密には、笠井の議論は、〝世界国家を析出する20世紀的な世界戦争に敗けた〟ということを日本人は自覚できていないというところにも、そのポイントがあるわけだけど。
 ここで「日本の問題」として原発を問おうと思ったのは、「原子力体制」の資料を作っているときに、栗原氏の著書を読んでいて覚えた違和感からだった。

とつぜん原発が爆発し、放射能にさらされてしまう。その恐怖のイメージは、作業員の事故によるものだけではない。というよりも、政府や電力会社、御用学者は、事故はありえないといっているわけだから、それ以外のなにかによるものになるだろう。テロリズムだ。どこかの国の工作員が作業員としてもぐりこんで爆破されてしまうとか、飛行機がハイジャックされて、そのまま原発につっこんでくるとか、そんなイメージが氾濫している。 国家にとってはもってこいだ。いつでもテロリズムがおこりかねない。しかも、未曽有の被害をだせるテロリズムだ。それは、いつでも非常事態にあるということであり、戦争状態にあるということである。国家は社会を防衛しなければならない。警察は、なかば軍隊のようにうごくだろう。ぎりぎり殺しはしないかもしれないが、反抗の機運をくじくような強力な兵器が開発される。そして、それが日常的に市民の反対運動をしずめるのにもちいられる。わたしたちは、潜在的にはみなテロリストであり、テロリストとしてうちのめされるのである。いたいのはいやだ。

(栗原康『現代暴力論』p. 109)

焼き畑 これは「対テロ戦争の日常化」についての栗原氏の記述なんだけど、「原発がテロの対象になるというイメージが氾濫していて、それに立脚して国家は暴力的な支配や監視・管理を強める」というようなことが書いてある。原子力体制の原理的な姿としてはそうなんだろうけど、原発がテロの対象になるというイメージが日本で果たして氾濫している/してきたかと言われると、そんなことはない気がしてしまう。まあ、実際にはどうなのか/どうだったのかということは少なくとも私にはわからないのだが、とにかく、むしろ日本にはそういう「悪いこと」に対する想像力が欠如しているということが問題になったのが福島第一原発事故だったのではないか。

都社破 「戦争に負けるかもしれない、本土決戦で首都が陥落するかもしれない、まぁきっと大丈夫だろう」みたいな感じで曖昧にごまかして戦争に突入して行ったように、「原発が爆発するかもしれない、まぁきっと大丈夫だろう」みたいな感じで曖昧にごまかしていったまま、結果として原発事故を引き起こしてしまった一面もあるんじゃないかってことだよね。それで事故を起こしているってのは、何だか日本人がマヌケ過ぎる気がするけど……。
 嘘みたいに杜撰な管理体制で事故が起きたこと自体は「ニッポン・イデオロギー」論で説明できそうだけど、笠井が原発批判の思想的根拠としてあげる専門家権力の肥大とかは、「ニッポン・イデオロギー」と関係している感じはしないよね。笠井のその辺の〝テキトーさ〟も、とにかく「ニッポン・イデオロギー」に支配されたこの社会憎しと思ってさえすれば、原発反対にあたって掲げる思想的根拠なんてテキトーで後付けで良いんだよ、みたいな、良くも悪くもの〝テキトーさ〟があるようにも思えるけれど。

焼き畑 杜撰な管理によって事故を引き起こしたのが「ニッポン・イデオロギー」であるのと同時に、事故が起こってなお原発が長期的かつ大衆的には問われてこなかったことも(福島第一原発事故直後、日本でも1万人規模のデモがしばらく持続したにしても)また「ニッポン・イデオロギー」の問題だと言えるんじゃないかな。
 人々にとっては、原発事故は〝歴史上の惨事〟でしかなく、様々な意味で〝いま〟も存在している問題とはみなされていない。このような〝問題の歴史化〟自体をも日本固有の問題とみるべきなのかはわからないが、とにかく実際には、福島第一原発事故は〝歴史〟ではなくいまなお続く問題だし(そういう意味では、資料で矢部史郎から借用した「3・12」というメモリアルな表現も退けるべきかもしれない)、今後他の原発が事故を起こすリスクがあることは変わらないわけだし、そもそも事故が起こると起こらないと関係なく原発の存在はそれ自体が問題としてつねに存在している。

都社破 笠井の書き方だと、日本人全体が、「ニッポン・イデオロギー」に汚染されていて、曖昧で惰性的で何の価値判断もない、劣った醜いものとして描かれているよね。一方、資料での書き方だと、原子力体制によって、民衆は反対したくても反対できないように抑圧されている、という事になっている感じがする。両者の議論を無理矢理対応させると、笠井の議論だと民衆と権力の相互依存によって全体として醜い社会が形成されているが、資料での議論だと、権力と民衆が対になっていて、抑圧と被抑圧がある感じで描かれているって感じかな。

焼き畑 特にそういう対応を考えながら資料を作っていたわけではないが、確かにそういう風にも見えるかも。まあ、そういう対応関係で見るなら、私は笠井のような見方をとりたい。

都社破 実際、被爆労働の押し付けなど、明らかに抑圧と被抑圧の問題としてしか語れないような部分もある。しかし、権力と民衆の共犯としてのニッポン・イデオロギーという視点がないと違和感も覚えてしまう。そう言わせるのは、俺の極度のニヒリズムかもしれないが……。

焼き畑 原子力体制の支配と日本固有の問題との関係(あるいは無関係)は、こういう風にも言えるんじゃないか。原発が設置されると、「原発を安心・安全に制御する」という目的でどんな体制でも必然的に監視・管理が進められる。フツーの国家では、近代的な責任ある主体が(政府であれ民衆であれ)原発の安全性に目を光らせているから、実際に安心・安全が追及されるが、政府も民衆も「悪いことは考えないにしよう」でやってきた日本では、原発の安全性なんかろくに考慮されないまま、するっと支配が通ってしまうのではないか。監視・管理も進むし、事故も起きる。しかし、仮に人々が原発の安全性に目を光らせていたとしても、「原発は安全です」という専門家の物言いが正しいかどうかを判断することができないことに変わりはないわけだが。

都社破 権力と民衆の共犯で醜い「ニッポン・イデオロギー」が形成されているとしても、人々は、共犯システムにおける役割を放棄して、パニックの中で蜂起をしだしたりもする。それは、笠井的に言えば、「闘う自発性」と「闘わない自発性」が、あらゆる人々に同時に刻印されているという話だろう。白石氏は著書の中で「不可視委員会」の「人民が蜂起を生み出すのではない。蜂起こそがみずからの人民を作るのだ」という文章を引用していて、これも似たような意味だと思う。だから、いずれにせよ、パニックになること自体を取り締まって冷静さを要求する権力と、そこから離脱した何者でもない群衆による切断があるっていうことなんじゃないかな。

焼き畑 そうだね。でもそうなると……

激論はまだまだ続く……

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