原子力体制――学祭トークイベント公開資料③

 先日開催された東北大学祭の中で、「学生に賃金を」をテーマにトークイベントを行ないました。アナキズム研究者でアナキストの栗原康氏とフランス文学者の白石嘉治氏をイベントにお招きし、われわれ学生と議論を交わしていただく形でお話していただきました。
 イベントに先駆けて、「アナキズム、脱構成、ユートピア」「学生に賃金を」の二つの資料を公開していましたが、当日参加者のみなさんにお配りした資料はほかにも二つあります。その一つは主催者の一人である檜田相一が公開している「いまの大学を取り巻く問題の背景について」です。遅ればせながら、先行公開していなかったもう一つの資料である「原子力体制」をここに公開します。当日配布したものからかなり修正を加えています。

資料 原子力体制

 栗原氏は『アナキズム』『現代暴力論』などにおいて、白石氏は『青空と文学の文字のあいだで』などにおいて、原発について、というより原発に原型を持つ統治について、原発に規定された社会について論じています。

 栗原氏は『現代暴力論』において、ロベルト・ユンク『原子力帝国』を引き、原子力を有する体制の問題点を、以下の三つにまとめています。

  1. 負債による労務管理――巨大で危険なエネルギーを扱っているのだから失敗は許されない、と言われ、絶えざる自己点検にさらされる

  2. 原子力生活の全面化――原発なしでは生きられない、と言われ、原発に反対することは人々の生活を脅かす「迷惑」なこととして封殺される

  3. 対テロ戦争の日常化――巨大で危険なエネルギーをテロリストに「悪用」されないように、と言われ、監視・管理が無限に強化・正当化される

 当レジュメでは、以上の三点に加えて、それらに重なりつつ反復される「政治的係争以前において行なわれる不満の黙殺」の構造について論じたいと思います。

 以下では、3月12日に起こった人災である福島第一原発事故を、3月11日に起こった天災である東日本大震災に回収しないために、「資料②」でも引用した矢部史郎が著した『3・12の思想』に倣って、福島原発事故を「3・12」と呼ぶこととします。しかし、原発の問題は「3・12」という日に起こった〝歴史上の惨事〟と見なされるべきでない、〝いま〟存在する問題であることにも注意しなければなりません。


負債による労務管理

・負債による労務管理について栗原氏は次のようにまとめています。

 負債による労務管理とはなにかというと、原発作業員に負い目をかんじさせて、不平不満をおさえることである。とりわけ、原発はちょっとした事故がおこれば、それが即座に大惨事につながるため、ほかの職種とくらべて、はるかにおおきな負い目をかんじさせることができる。労働時間がながいとか、人手がたりなくて、あまりに過酷な作業だったとしても、サボればみんなが死にかねない、だからそれはやってはいけない、めいわくだという意識が、現場作業員のなかにすりこまれているのである。

(栗原康『現代暴力論』p. 100) 

くわえて、そこで動員されている労働力は非正規であり、ここに被曝労働の押し付けがあります。栗原氏はこの流動的な非正規労働力が負債によって管理される様は、原発に限らず見られる現代の労働の原型であることに注意を促しています。つまり、一方でそこには不安定な立場の人々に対する危険な労働の押しつけという「格差」の問題があり、他方でその不安定さや労働のあり方は現代社会に「遍在」する問題でもあるのです。

▽「食べて応援」の問題点

・今年8月の「処理水」海洋放出問題に寄せて、原発労働者のさらされている「負債による労務管理」からはずれますが、被曝労働の押し付けという点にもう少し注目してみましょう。「処理水」問題において、「食べて応援」というスローガンが回帰してきました。「3・12」直後、反原発の側から、原発事故を起こしてしまった以上「食べて償う」ことしかできないというような言説が出てきましたが、先述の矢部史郎は『3・12の思想』において、この「食べて償う」という発想は、①生産者の被曝労働を捨象している、②放射線の長期的性格を無視している(「償うべき」者が死んだ後も拡散された放射性物質は存在し続ける)、として批判しています。(矢部史郎『3・12の思想』)

・「食べて償う」と「食べて応援」は、その行為に対する価値づけが反転されているとはいえ、「食べる」ことによって問題を解決しようとする点で同様の問題を抱えています。とはいえ、その「反転」されている部分に注目することで、「食べて償う」と「食べて応援」との違い、すなわち後者に固有の問題点が明らかになるでしょう。「食べて償う」は、被曝地域(それはどこからどこまでなのでしょうか)のものは「安全ではないから」食べて「償う」ことしかできないと言ったわけですが、それに対し「食べて応援」という政府の物言いは、被曝地域のものは「安全だから」食べて「応援」する(ことでしか「問題」は解決しない)のだと主張します。「食べて応援」で前提とされていることは、〈安全であるのにそれを理解しない者がいて、そのせいで困っている者(生産者)がいる〉ということです。生産者は作ったものが売れなくて困ることがあるでしょうが、作ったものが売れないとしたら、その原因は「風評被害が広がっているから」ではなく、「原発事故が起こったから」にほかなりません。「食べて応援」という主張は、その点をすりかえることで、原発に反対する者を「馬鹿でわからずやで迷惑な連中」とし、自らを倫理的な言説として正当化しさえします。

・しかし、「食べて応援」に対するそのような批判は〈被曝地域の食べ物は安全ではない〉という前提に立ってのみ可能なものではないのでしょうか。一面ではそうかもしれませんが、問題は、処理水を放出するかどうか、原発を止めるべきかどうかという政治的に係争すべき事項が、科学的であるかどうか、理性的であるかどうか、という問題へと「還元」されているところにあります。(→資料「『パニックになるな!』〝良識的な〟顔をした統治」)

原子力生活の全面化

・原子力生活の全面化について栗原氏は次のようにまとめています。

 日本は原爆をおとされていることもあって、原発問題にたいしては反対の意見がねづよい。だったらということで、ムリやり原発をたててしまい、そのうえで市町村に巨額の特別交付金をくばったのである。震源立地地域対策交付金、いわゆる原発交付金である。二〇一一年度に経産省が資産をだしているのだが、だいたい四〇年間で、市町村にくばられる原発交付金の総額は、約一三八四億円にものぼるそうだ。それにくわえて、市町村は固定資産税をとることができる。原発交付金で、病院や学校、図書館、レジャー施設などがととのえられる。しかも、これまで過疎化になやんできたような市町村に、大量の労働者があつまり、商店街もにぎわうことになる。経済効果はてきめんだ。
 そして気づけば、そこに住んでいる人たちは、原発なしにくらすことができなくなっている。四の五のいう連中がいれば、だまらせてやらなくてはならない。おまえはおれたちの生活をこわす気か、責任がとれるのかと。おそろしいことに、そのときかれらがいっていることを正当化してくれるのが、御用学者の言説だ。ただしいかどうかなんて関係ない。おもてむき、そういえなくてはならないのである。原発が事故をおこすことなんてありえない、放射能は安全だ、それにうたがいをもつ連中は狂っているのだと。原発の近隣住民は、ある種の負い目をうえつけられる。原発があぶないとおもうのはわるいことだ、いってはいけない、いったらこの地域の生活がこわれてしまう、まわりの人たちの、みんなのめいわくになるからやめましょうと。原子力の暴力が、地域住民の生活を全面的におおっている。

(栗原康『現代暴力論』p. 108)

・原発をとにかく無理矢理立ててしまい、それなしでは生活ができないと思わせるのが、原子力生活の全面化という事態です。ここでは、「原発なしでは生活ができないから」、原発は安全だとされる、という転倒が起こっているのです。

▽専門家権力の肥大

・政府や電力会社や御用学者は、「原発は安全だ」と言います。「3・12」が起こってしまった以上、この物言いが正しくないのは、誰の目にも明らかですが、「3・12」が起こってなお政府や電力会社や御用学者は「原発は安全だ」と言い続けたわけです。ここではまず、専門家の言うことでさえ〝事実に照らして〟疑わしいことが確認できますが、しかし、問題は〝事実を捻じ曲げる悪い専門家〟がいることに留まりません。問題は、われわれはそれを〝事実〟であるかどうか判断できないまま、お上の言うことに従うことを構造的に強いられていることにあります。

・問題は、非専門家=一般人の物言いが政治以前の段階で黙殺される構造です。専門家でないわれわれは、「3・12」に関する、あるいは福島原発や日本の原発に関する御用学者の物言いが正しくないことと判断することができても、原発一般に関する専門家の物言いが正しいかどうかを判断することはできないのです。実際には安全かどうか判断できないものがわれわれの周囲にあり、それを安全に制御するためには専門家の言うことに従わなければならない。その指示が妥当なものであるかどうかすら、専門家ではないわれわれに判断することはできないが、原発なしでは生きていけないとすることにより、その指示に従わざるをえなくなる。ここに政治的係争を抹消する構造が、具体的に言えば一般人から原発問題についての発言権を剥奪する構造があります。

・一般人が原発に口出しして事故が起こったらヤバいと思うかもしれませんが、だからこそ、原発は廃絶されなければならないのです。「お前が口出ししたらヤバいから黙っていろ」という支配を許さないためには原発の存在自体を問わなければならないのです。

・原子力生活の全面化に関して、「3・12」の後に行なわれた「節電キャンペーン」は、われわれに原発が必要だと思わせるための言説だったとみることができます。ここにおいて、われわれは、政府や電力会社が言いはじめ専門家がハクをつけた言説を信じるほかなくなってしまうのです。ここでも、「原発なしでは生活ができないから」、原発は安全だとされる、という転倒が反復されています。

対テロ戦争の日常化

・政府や電力会社や御用学者は、「原発は安全だ」という。しかし、原発は、爆発すれば放射能を拡散するという意味で(というよりわざわざそのように断らなくても単に)、核兵器です。核兵器があなたや私の周りに存在しているという事態そのものがすでに勘弁してほしいものですが、その核兵器を「制御」するために監視・管理が無限に正当化される、という問題があります。

・栗原氏は対テロ戦争の全面化について次のようにまとめています。

 とつぜん原発が爆発し、放射能にさらされてしまう。その恐怖のイメージは、作業員の事故によるものだけではない。というよりも、政府や電力会社、御用学者は、事故はありえないといっているわけだから、それ以外のなにかによるものになるだろう。テロリズムだ。どこかの国の工作員が作業員としてもぐりこんで爆破されてしまうとか、飛行機がハイジャックされて、そのまま原発につっこんでくるとか、そんなイメージが氾濫している。 国家にとってはもってこいだ。いつでもテロリズムがおこりかねない。しかも、未曽有の被害をだせるテロリズムだ。それは、いつでも非常事態にあるということであり、戦争状態にあるということである。国家は社会を防衛しなければならない。警察は、なかば軍隊のようにうごくだろう。ぎりぎり殺しはしないかもしれないが、反抗の機運をくじくような強力な兵器が開発される。そして、それが日常的に市民の反対運動をしずめるのにもちいられる。わたしたちは、潜在的にはみなテロリストであり、テロリストとしてうちのめされるのである。いたいのはいやだ。
 しかし、対テロ戦争としてやられているのは、物理的な暴力ばかりではない。じっさい、ほんとうにテロリストに襲撃されたとして、そのつど鎮圧をするというのは、あまりにリスクがたかすぎる。ということで、国家がやりはじめたのが予防的統制である。監視だ。[…]
 自国民のすべてを、あやしいとおもえばいつでもとりおさえられるようにしておかなくてはならない。はじめは、原発作業員の監視からはじまった。作業員の素行や思想をしらべあげて、すこしでもあやしいうごきをしたら、こんりんざい雇わないようにする。あやしいといっても、テロリズムうんぬんではない。原発に批判的であるかどうかである。そこからさらに、監視の目は一般市民へとひろげられていく。いつだれがどこでテロリストになるかなんてわからない。だから、国家はあらゆる市民の個人情報を把握し、あやしいうごきを予防できるようにしなくてはならない。いまでいえば、電話やメールまでふくめて、いつだれがどこでなにをはなし、なにを買ったのかまで、すべてしられているということだろうか。ふつうなら、ここまでやったら、国家といえども犯罪である。盗聴なのだから。でも、原子力国家ではそれが許される。

(栗原康『現代暴力論』pp. 109-111)

▽就活体制

・白石氏は、「就活」における管理体制が、原子力から始まる管理体制に由来する同型のものであると指摘します。

 じっさい「就活」という苦役のはじまりも、核施設の労働者にたいする統治の体制に求めることができる。そもそも核分裂は完全には制御できない。だから核施設の維持のために、そうした制御の不可能性を施設の外へと無際限にくりのべていくほかない。発電所は何重にも防護された制御の不可能性を施設の外へと無際限にくりのべていくほかない。発電所は何重にも防護され、廃棄物の保管は数万年が想定される。周辺の住民には、キャンペーンが倦むことなくつづけられる。そしてこの体制のもとで、労働者へのまなざしは偏執的なものとなる。監視カメラや認証システムのいちはやい導入だけではない。採用のさいには、思想信条から生活習慣まで精査される。ボルト一本、プログラム一本の瑕疵も見逃すことはゆるされない。そして核施設とおなじコントロールの網目は、コップから水があふれでるように関連企業に広がっていく。

(白石嘉治『青空と文字の間で』p. 90)

・原発は制御しえない(制御しえないからこそ制御され続けなければならない)。その制御に失敗したときの惨事の危険性が、「就活」におけるそれの原型となる偏執的な精査を正当化する。そして、そのような強迫は原子力産業に限定されず、いまやどこでも見ることができるものになってしまっている。(同p. 91)

「パニックになるな!」〝良識的な〟顔をした統治

・「3・12」直後、各地で反原発デモが行なわれ、多くの人々が参加しました。このように不満が直接的に表出してくるシーンが出現したのは重要なことですが、そのシーンにおいて同時に不満の直接的な表出をむしろ抑圧する物言いがされてもいなかったか。栗原氏は、「3・12」直後の反原発デモに表れた「プチ政治家みたいなひと」の物言いが、「パニックを起こさないこと」を最優先に動く政府のそれと通底してしまっていることを指摘します。

 そのころ、ちょうどデモ主催者のなかにプチ政治家みたいなひとがでてきちまっていてね。原発再稼働をとめるためには政府をうごかすしかない、デモはそのための圧力なんだ、とにかくたくさんひとをあつめて、メディアにアピールしなくちゃいけない、好印象をのこさなくちゃいけない、つきましては笑顔でピースフルにつとめましょう、まちがっても声をあらげて警察とやりあって逮捕者をだすようなことはしちゃいけない、そんなことをしていたら、こいつらヒステリックなおかしい連中なんだと思われてしまう、負のレッテルをはられてしまう、だから、そういうハネあがったやつらはアブナイ、キケンだ、おいだそう、みたいなことがいわれはじめていたんだ。
 でもね、こっちからすると、さんざん放射能をまきちらされてどうしたらいいのか、なに食ったらいいのかもよくわかんなくさせられていて、そんで狼狽してギャアギャアいっていたら、それはパニックです、ヒステリーです、やめてください、冷静になりましょう、だまってふつうにはたらきましょうみたいなことをメディアだの、政府だのからいわれていてムカついていたのに、なんでデモにいってまでヒステリーをおこしちゃいけないっていわれんだよっておもうわけさ。

(栗原康『アナキズム』p. 17) 

・「ヒステリーになってはいけません。われわれは市民です」というときに、そこで行なわれていることは「ヒステリックな人々」と自らとの差別化であり、ヒステリックでないわれわれの声を聞くべきであると主張するときに、そこで行なわれているのは「ヒステリックな人々」の発言を「声」とみなさないことです。これは、政府や電力会社や御用学者が、原発反対の声全般に対して行使してきたのと同じ理屈ではないか。

・われわれは「冷静になりましょう。理性的でありましょう」という物言いが前提とする構造自体を拒否しなければいけません。「冷静であり、理性的でありさえすれば、原発に反対はしはしないはずだ」と言って政治的議論を冷静さや理性といったものに還元する物言いと、「冷静であり、理性的でありさえすれば、余計なことはせずわれわれの行動に結集すべきである」と言って「ヒステリー」を抑圧し自らへの動員を試みる物言いとに通底する構造自体を。

・ここでも、「政治的係争以前における不満の黙殺」が存在しているといえます。そもそも誰が真に冷静であり理性的であるかということは判断しえない。判断できないにもかかわらず、一方は「冷静で理性的な意見」ということになっていて、それに従うことを強いられ、あるいは従わなければ「ヒステリー」であるということにされ、発言権は剥奪される。

・政府や電力会社が依拠する専門家と別のことを言う専門家に依拠するのでは、われわれは専門家の権力の絶対性を問うことができません。もちろん、別のことを言う専門家の存在や働きは重要です。しかし、そもそもどの専門家が正しいことを言っているかをわれわれ非専門家が判断できない以上、どの専門家の言っていることを信じるかというのは単に政治的選好の反映になってしまいます。ここで、問題なのは「イデオロギー」(と俗に呼ばれているもの)によって「真実」がゆがめられてしまうということではありません。どの専門家に従うかということが違うだけで、「専門家の言っていることには従わなければならない。非専門家は口を出すべきではない」という理屈=抑圧は維持されているということが問題なのです。

・そうは言っても人々が専門家の言うことを聞かなかったらヤバイと思うかもしれません。しかし、そうであるならばこそ、原発は廃止されなければならないのです。専門家の言うことを聞かなかったら実際ヤバイかもしれないから、専門家の言うことに従うしかないということになる。支配を絶対的に正当化するそのようなメカニズムを持っているから、原発は廃止されなければならないのです。

・そうは言っても原発がなかったらヤバイと思うかもしれません。本当にそうなのでしょうか。〝仮に〟ヤバかったとして、日本全体のために例えば東北がそのための犠牲になっていいなどということがあるでしょうか? 「犠牲」という表現は原発の危険性を前提としているわけですが、「3・12」が起こった以上、その安全性は少なくとも疑われてしかるべきです。

(了)

配布資料一覧
「アナキズム・脱構成・ユートピア」
「学生に賃金を」
③「原子力体制」
「いまの大学を取り巻く問題の背景について」

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