見出し画像

足りなくても足りている。

ぜんかいの診察で、身の丈に合った生活や手に入らないものを諦める方法などについて話した。いつも話していることではあるが、なんども話すことで客観性を身に付ける、訓練の一種と捉えている。診察時には欠かせない、無駄のようにおもえることもあるが実際には1ミリも無駄ではない対話だ。

手のひらに乗る分量で十分なはずなのに、つい足りない気がしてあれもこれも持とうとしてしまう。じぶんには必要なかったとけじめをつけて手放す。じぶんには無理だと自覚して遠くから眺めることで満足する。この世に存在する色んなもの、それとの対峙のしかた。必要ではないのに必要だと思い込んでしまう心理や悲しみ、怒りを解きほぐし、得心していくことはわたしの人生におけるおおきなテーマのひとつである。

その際の雑談である。
「健康が気になってコーヒーに砂糖を入れなくなっておよそ2年。粉ミルクだけ入れて飲んでいたが、粉ミルクも切れたタイミングで入れなくなった。結果いま、ブラックで飲んでいる」という話をした。主治医は健康はもちろん、香りや苦みがダイレクトに楽しめていいよね、と返してくれた。しかし残念ながら、そこまでグルメな舌ではないので共感はしかねた……。ただ慣れればコーヒーをブラックで飲むこともできるのだな、というのは発見だった。
何より驚いたのは「こんなに砂糖を摂取していた!」こと。ものすごい勢いで減っていたのだといまならわかる。わたしがコーヒーに砂糖を入れなくなってから、ストックがあったというのもあるが、砂糖の買い足しはしていない。料理に使うといってもそう勢いよく減っていくものでもない。コーヒーに入れていた砂糖が必要なくなっただけでどれほどの糖質がカットできたことだろう。もちろん糖質は重要な栄養素で、摂取せずにいていいものではない。しかしコーヒーに限っていえば、砂糖はすっかりなくていいものになった。あれだけ摂取していて無くなりそうになると買い足していたものが、いまはまったく違う存在となっており、さらに驚いたのだった。

砂糖を入れないコーヒーでも何の問題もなく、何も不足していない。足さなくては気が済まなかったあの砂糖は、いまはなくていいものになった。
なくてはならないものとおもっていても、実際に手放してみるとほんとうに大したことではなかったとわかる。そういう経験は、けれどやろうとおもってできるものではない。ふっと気が向いて行ったことが、ずいぶんあとになってどういうことだったのかを教えてくれる。恐らくとり過ぎていただろう砂糖も、ないことに慣れてから「なくていい」状態になったよと教えてくれた。

なんでも捨てればいいというものでも、拒否すればいいというものでもない。整理してすっきりしたとしても、あれはじぶんにとって大切なものだったと時間差で気付くこともある。捨ててしまったことを後悔するのはとても悲しい。だから、いつもいつも、整理整頓がうまくいくわけではない。後悔はしたくないけれど、きっと開けてみたら記憶のなかは後悔ばかりだろう。
それでもいま。色んなものが足りないようにおもえても、きっと充足して満ち足りているものはたくさんあるのだ。いまは気付かなくても、のちに気付ける。気持ちでは足りなくても、人生では足りていると。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?