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2018年7月の記事一覧

正直ニススメ。

全力投球でやれば可能性を見つけ出せるもんだろうと思ってますし、 仕事というのはそういうもんです。 その気持ちがある時はまだ青春だと思っています。 安藤忠雄 / another sky あの時、自分の気持ちに正直に就活できたのは、安藤忠雄さんのことばがあったから。 いまでも時々、録画してある当時の another sky を観ては、元気をもらっています。 正直でい続けるために欠かせない「問い」。自分自身に何度も「これでいいのか?」を問いかけ、「これでいいのだ」と言い切れる

外の国で出会う「日本語」。

旅先で出会う、未完全な「日本語」が好きです。 メニュー、看板、お菓子のパッケージ、至るところでちょっと惜しい日本語や理解不能な日本語を見つけては収集しています。 弾丸韓国旅の夜ごはんは、ホテルの近所にあった「居酒屋」。 漢字とひらがな・カタカナのフォントが不揃いな感じもたまりません。 おそらくGoogle翻訳か何かで直訳したであろう「海物チャンポン鍋」「サザエ・野菜和えと素麺」とかも、すごくよいですよね。 関西人として「関西おでん鍋」を食べないわけにはいかず、注文。豆だ

暮らしたい場所で暮らすこと。

ひとが、ひとらしく暮らしていくための手段として「移住」があるのだと思います。 地方創生や東日本大震災をきっかけに暮らしたい「地域」を考えるひとが増え、ある種ブームのようになった「移住」。TVや新聞、雑誌など、いろんなメディアが取り上げるようになったことで、以前よりも「移住」という言葉に対してイメージが湧きやすくなったのではないでしょうか。 実現したい暮らしを求めて地域と出会い、たのしく暮らされている方がたくさんいる一方で、地域ならではの文化やコミュニケーションの仕方がある

平成最後の夏に、「はたらく」を考える。

今日はお休みだったので、「はたらく」について少し考えてみることにしました。 はたらくということは、食える分ほしい分だけ稼いだら、 あとは休もうが遊ぼうが自由に決められるはずですよね。 7月25日の「今日のダーリン」より わたしの場合は、もう少し稼げるようにならないとな・・という気持ちは確かにあるのですが、稼ぎたいだけまとめて稼いで、あとの時間はすこし長めの旅に出られるような、旅をしながらちょこっとお小遣いを稼ぐような、余白のある「はたらく」がいまのところの理想ではないかと

日頃の消費行動が、なめらかな「寄付」につながるとしたら。

あんまりじっくり考えたことがなかったけれど、「 #寄付について考える 」というハッシュタグを追っていくなかで思ったことを書いてみようと思います。 おそらく、わたしが「寄付」とはじめて出会ったのは小学校の時のユニセフ募金だと思う。自分のお年玉から少しだけ、お金を箱に入れたのを覚えていて。 そういえば、なんでユニセフ募金しなくなったんだろう。 中学校になって募金箱がなくなったから? 善意の行いが恥ずかしい年頃になったから? 自分のお小遣いは自分のために使いたいから? 本当に

3年後、どんな働き方をしているのだろう。

解をもたないままに書きはじめているのですが、本日の社内ミーティングで「自分たちの会社」のこれからについてのお話が白熱していたので、なんだかすこし考えてみたくなりました。 世間一般的な「会社」というものと、すこしだけ違う(かもしれない)ところで働かせていただいているのですが、友達が働いている会社との違いってそんなにないんじゃないかな。 定時がなくて、オフィス出勤自由。服装自由、在宅ワークOKで、複業・兼業もOK。 思いつくのはこれくらいでしょうか。 それがかっこいい

いつものおしゃべりが聴きたくて。

その場の空気感が伝わってくる文章が好きなんだと思う。 雑談は人を裸にする。 星野源 / AERA「音楽の話をしよう」書店ポップにて これまで好んで読んできた文章にはそんな共通点がある気がして。 小学校のときに読んでいたさくらももこさんのエッセイも、日々たのしみにしているほぼ日のインタビュー記事も、社会人になってから読むようになった原田マハさんの小説も。 「話し手」と「聴き手」という立ち位置にとらわれずいつものおしゃべりをしているような、暮らしや日常をそれぞれの視点

ふれる、のぞく、つまむ。

働きはじめて3年目。 いまのわたしにできることなんて、良くも悪くもせいぜいこのくらい。 いい仕事にとにかく「ふれる」。 いい仕事をされる方の手元を「のぞく」。 いろんな仕事の要素を「つまむ」。 いろんな角度から「仕事」を「観察」してみる。 そこからなにを感じ取れるか、自分のなかでこれから譲りたくないものを見つけられるか、そのためにいま身につけたいものはなにか。 20代もいよいよ折り返し地点。 いまもずっと、走り続けているとは思う。ただ、がむしゃらに腕を振るだけで

アイスランドの間欠泉で温泉たまごをつくってみたんです。

昨日、「社会科」のお話をさせていただいたのをきっかけに、理科の実験(だけ)が好きだったことも思い出しました。過去のものごとを学ぶ「社会科」とこれから起こりうることを予測する「理科」。 なんとなく直感で記してしまったので、上記が正しい分類かどうかはわかりませんが、1つの事象に対していろんな「問い」が発生し、そこに紐づいた学びが「学問」であることをあらためて感じます。そういったアプローチで勉強できたらたのしいだろうなぁ。 そうなんです。少し前にはなりますが、2016年の3月に

全体を全体のまま理解する。そして、全体を理解するための日記について。

社会をみて、どのような仕組みで動いているのか、全体的に理解できる人はほとんどいない。だから、学問は細分化する。物理学者は、数式を使って宇宙の始まりを知ろうとする。天文学者は、違うアプローチで宇宙の始まりを知ろうとをする。 社会の仕組みは魅力的でも、細分化した学問は、躍動感がなくつまらない。しかし、細分化しないと、理解できない。その道の研究者は、細分化した情報から全体を想像できている。 部分で理解しようとすると、大きな誤解を生み出してしまうこともある。IT企業のPV至上主義

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社会の全体像を捉えつづける「社会科」の延長で。

小学生の頃から、いちばん好きな教科は「社会科」。 カタカナが多い世界史は少し苦手だったけれど、日本史も現代社会も好きだった。日々、「ひと・もの・かね・情報」の行き来と共にいろんなものごとが動いていくなかで、その理由や意図を小さいながらに考えていたんだと思う。 なぜ、それは起こったのか。これからどういうことが起こりうるのか。大学を決めるときも、世界の動きを把握したくて、なにかの専門分野に特化せずに全体が学べる学部を選んで進学したんだろうな。 当時はきっとそこまで考えていな

お祭り的なもの。

大きなお祭りもいいよね。 地元ローカル文脈にいるので、すこし距離をおいていたのかもしれないけれど、大きなお祭りもいいよね。 ブワッと体温が上がるような瞬間。いろんなものの境目というものが、一瞬でなくなる。そこでは、宗教も国境も争いも関係なしに、ただただ、そこにいる人たちが同じ時間を共有している。目の前にいる人が全てで、その人の背景なんて知ったところで意味をなさない。 イギリスのチーズ転がり祭りも、スペインのトマティーナもたのしかったなあ。 あの時横にいたのは、どこのだ

みらいのわたしはどんな顔?

そうだなぁ、しわだらけになってもふけないは、ある。年齢に関係なく、老いるはいいけど、老けるはだめです。 7月13日の「今日のダーリン」 みらいのわたしは一体、どんな顔をしているのだろう。シワが増えて、なんならシミも増えていると思う。家系的には、かみのけも真っ白になっているかもしれない。 きっと、老いには勝てないけれど、いい表情をしていたいなと思います。 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: いま、自分のまわりにいる人たちはたぶ

「雑談」の下ごしらえ。

雑談の中に本質があるのだと思います。 コミュニケーションの基本。雑談。 はじめに / 星野源 音楽の話をしよう(AERA) 「いい雑談」が自然発生的に生まれるまちはきっと、いいところなんだと思う。 おそらくこれは、まちに限らずだとは思いますが、いいものは「いい雑談」から生まれているような気がします。 「こんなのあったらおもしろそう!」「今度あれやってみようと思ってて」「こんなのどうかな?」「これについてどう思う?」みたいな風に、思わずだれかに話したくなる考えと、それを「