見出し画像

日頃の消費行動が、なめらかな「寄付」につながるとしたら。


あんまりじっくり考えたことがなかったけれど、「 #寄付について考える 」というハッシュタグを追っていくなかで思ったことを書いてみようと思います。

おそらく、わたしが「寄付」とはじめて出会ったのは小学校の時のユニセフ募金だと思う。自分のお年玉から少しだけ、お金を箱に入れたのを覚えていて。


そういえば、なんでユニセフ募金しなくなったんだろう。

中学校になって募金箱がなくなったから? 善意の行いが恥ずかしい年頃になったから? 自分のお小遣いは自分のために使いたいから? 本当にそのお金が、だれかの役に立っているのかわからないから?


中学生や高校生になった自分は、おそらく、自分のお小遣いをやりくりすることでいっぱいいっぱいだったんだと思います。学校の募金箱はなくなっても、コンビニやお店のレジに募金箱はあったはずだから。


大学生になる少し前に東日本大震災が起こった時は、なにかしたいと思ってもすぐにできることが少なくて。せめて現地にお金が落ちたらと東北産のものを買ったり、自分よりも圧倒的に力があるYahoo!のクリック募金を利用したりしていた気がします。

社会人になる少し前からは、クラウドファンディングを利用するようになり、震災に関する寄付はCAMPFIREでさせていただくようになりました。

直接、家入さんを知っている訳ではないですが、日頃、彼のTwitterを拝見しているので、お金を預ける安心感があったのかもしれないなと今になって思います。

あとは、何度かCAMPFIREを利用していたので、クレジットカードで支援できるというハードルの低さもよかったのかもしれません。


「ひと・もの・かね・情報」の循環がなめらかになると、寄付ももっとハードルが下がるのかな。

もし、日頃の消費行動がなめらかな「寄付」につながるとしたら、価格だけに踊らされることなく、日頃から身近なものを手に取り、つくり手に想いを馳せる訓練がわたし達側にも必要なのかもしれません。なかなか全部は難しいですけどね。

たとえば、野菜が価格高騰したとき。嘆きたいのは消費者だけでなく、生産者も同様であるということを忘れない、みたいなことだと思うんです。



中学校のときに募金をしなくなった背景から考えると、このあたりが整えばもっと寄付しやすくなるのかな。

①気軽に寄付できる環境があること(募金箱、クレジットカード決済)
②自分が気持ちよく寄付できること(自分が快くできる範囲の行動)
③こころにだれかを想える余裕があること(多分これは、いちばん難しい)
④お金の流れを透明にすること(どんな風に活用されているのかがわかる)


きっとこんなことすら考えずに、道端で口のあいた空き缶を持っている人たちに “donation” と言いながらさらっとお金を入れていくタイ人の友人を見て、わたしもできるだけそうありたいなと思いました。

いただいたサポートは、より良い文章をかけるように有料noteや本の購入にあてさせていただきたいと思います◎