障害と名のつくものの困難

一昔前まで生きていくことを最優先にしなければならない時代があって、
今やっと、「毒親」「発達障害」「適応障害」「ジェンダーフリー」という問題が「出てこれた」のだと思います。

ちょっと前までは人間の生活は生きるか死ぬかだったので、
その世代に育った親が、完璧な人間じゃないのはしょうがないことですし
ちょっと他と違うな、っていうのもモミクシャにされて見落とされてきました。

そして私たちもそういう「生き方や自分はどんな人間でいたいか」ということを「選択できるようになった」のですよね

それがいいか悪いかというと

どうなのでしょうか

結局は、それがどんな名前や診断が下されようが、

「理解し合う」っていうことがベースラインに必要になります
そしてそれは
めちゃくちゃ根気のいる作業です。


子育て、結婚、親子関係もその一つですよね。


母以外はちゃんとした診断を下されたわけではないですが

母はもう10年以上も鬱やら、双極性障害やら、パーソナリティー障害やら、統合失調症やら(結局どれなんだ)で医者に通っています

父はものが捨てれないホーディング障害というやつで
歳をとってから悪化してきてもう、実家は寝泊まりできません。

二人とも戦後すぐに生まれ、結構特殊で大変な人生でした。

私の叔父や叔母にも変わった人たちがいて、
東大や医大に出て、三菱の副社長だったけど
隠し子騒動があったり
統一教会にのめり込み、周りに散々迷惑をかけ消息不明の人もいます。

そして私の夫はおそらくアスペルガーで「世間的に言えば」
とっても変わっています。言い換えると
人と違う価値観やものの見方を持っている
私は多分ACで、大人になるまではずっとうつと摂食障害があり、強い孤独感と自分が何人もいたり、自分がわからない、自分が自分じゃないようなそんな悩みに長年悩まされてきました。

うちの猫は家猫だったのに真冬の山奥の寒空の下に捨てられ、保護されたサバイバー。

メンバーみんな色々あります。

こう書くとかなり深刻な感じですけど笑


時々はぶつかったり「なんでそうなるんだ!」ってなったりもしますが

みんな仲良く平和に?普通に暮らしています。


そして

このような
いろんな「障害」だらけのお陰で、

大変だったことも沢山ありますが、

多くの体験ができ、また自分と他人への理解が
深まりました。


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ラベルをつけて頭で理解しようということより


目の前のその人をしっかり

心の目や耳で「聞く」「感じる」「見る」

をすることが一番の解決への道です


他者との関係で

何かの問題が起きるときとは、
ほとんど

それができていないとき、されていないときです。



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簡単そうで難しいことですが

つまづいたり、
ぶつかり合ったり、
もう嫌だ!と思うたびに

根気強く

心の目と耳で

「見て、感じて、聞く」

をしてみる。

<意識を本当に相手に向けてみる>


たくさんの障害や困難、あるいは病気は

きっと乗り越えてみると
「人生の意味そのものを与えてくれるもの」だと思うんです。

人生の意味って、
そもそも多くの人が求めるような「意味」ってないと思うんですね
自分でそれはどう思うかで、

人は毎日生まれ、死んでいくし、

魂がこの世界を体験していく過程で、
究極的には

全ての受難を受け入れ、そしてそれができた時、
解脱あるいは慈悲を持って観音になるのがゴールなら、

困難を自分の中で、
試行錯誤して
向き合って
乗り越えた、あるいは受け入れた時

その時自分が生きてきて苦しんだことが
自分の人生に
「意味」を作っていくのだろうと思います

そしてようやく孤独から抜け出せるのかもしれません。

理解し合うことは
相手だけじゃなく、

自分を理解していくことでもあります。



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