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日本の学校教育、大丈夫?ー「教育とは何か」をもう一度考えてみる。

先日アメリカに住む次女がiMessage に、米俵の絵を送ってきて「これなんて言うの?」と聞いてきた。私は、ピンときた。「それって笠地蔵の話のことじゃない?」と聞くと図星だった。恐らく、日本人学校の補修校に通う息子の宿題か何かだろうと思った。

私の3人の娘は日本の学校教育を受けていないので、日本人なら大体の人が持っている共通の記憶や感情、体験がない。

その後も「一寸法師は、何に足りないの?」(指!)、「舌切り雀はどこを切られたの?」(これには、さすがの彼女も「舌」と分かったらしいが、息子は「お腹」と答えたらしい😰娘曰く「舌切りと言っているのにだよ」と絶望的だった)

私が驚いたのは、補修校でこのような教育をしていることにである。国語の教育と言うより、「日本人を作る」教育をしているように思えるのである。以前、日本の国語教育は、その教材を使って道徳教育をしているようだと言う本を読んだことがある。「ごんぎつね」が長年、国語の教科書に掲載され続けており、11時間もの時間が充てられ、授業は微に入り細に入って、主人公達の心情を考えさせる内容だとか(「不道徳お母さん講座」より。著者のお子さんはウンザリしていたらしい)

我が家は長いことあっちこっちの国に住み、娘達もそんないろいろな環境で教育を受け成長した。最終的にアメリカ人と結婚し、そこで就職し家庭を持った。その頃、世の中はアイデンティティーという議論がかまびすしく論じられていた。うちの娘達は日本人の両親から生まれ、日本国籍を持っている。それだけで日本人だと言っていいのだろうか。

私は、以前からこのアイデンティティーとやらにあまり関心がない。アイデンティティーを極端に強調するとトランプ元大統領が引き起こした状況(America Firstみたいな)になると最近新聞で読んだ。チャップリンがこのことについて語っている。

「私は祖国を熱狂的に愛することができない。なぜならそれは、ナチスのような国をつくることになるからだ。ナショナリズムの殉教者になるつもりはないし、大統領のため、首相のため、独裁者のために死ぬつもりもない。」

我が娘達は、ボルネオで生まれ、クアラルンプールのインターナショナルスクールに通い、東京のアメリカンスクールで高校課程を修了し、アメリカの大学・大学院を卒業した。これでも彼女達は日本人なのだろうか?日本人とは何なのか?

日本の学校教育が、なぜ熱心に日本人育成にこだわるのかが分からない。何のために?私が日本の学校教育を選ばなかったのには、この辺りにも理由がある。その国に生まれたのはたまたまの偶然なのだから、そんなことにこだわる必要はないと思うのだ。無理して日本人とやらになる必要があるのだろうか、と。うちの7人の孫達は、全員日本名で、世に言われる「ハーフ」だ。目下、日本国籍も保持している。彼らも日本人?

最近日本の教育が、他の国々の教育内容と随分違うということに気付かされた。ブレイディみかこ氏の「他者の靴を履く」によると、彼女の息子さんが通うイギリスの公立中学校の英語(日本で言う国語)の授業で、「ロミオとジュリエット」を学んでいるそうだ。その授業の課題が面白い。

それは、主人公になり切ってラブレターを書くというものなのだが、これがすごく洒落ている。女の子はロミオに、男の子はジュリエットにではなく、最初の週は全員がロミオになりライム(韻)を使ってラップ調のレターを書く。次の週は、全員がジュリエットになって、メタファー(隠喩⁈)とクリッシェ(決まり文句、常套句⁈)を使ってクラッシックなラブレターを書くというものだそうだ。

私の中学時代もこんなだったらどんなに楽しかったろう。さらにイギリスの教育は演劇に力を入れているそうだ。ロールプレイは他者を理解するのにとても役立つツールだそうだ。エンパシーの授業もあり、試験もあるそうである(この彼女の著書名は、「エンパシーとは何か」という試験問題に彼女の息子さんが「他人の靴を履いてみること」と答えたことからきていると思う⁈)エンパシーとは、他者の経験や感情を理解する能力のことだから、能力は努力すれば獲得できるし、教えることもできるということだろう。

日本では道徳が正式な教科として導入されたらしいが、学習指導要綱には「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」「家族愛、家庭生活の充実」「節度・節約」「規則の尊重」「勤労、公共の精神」など22項目があげられているそうだ。(「不道徳お母さん講座」から引用) この教育内容、彼我の違いを感じさせられる。で、この教科どうやって試験して、評価するんだろうか。正解はあるのだろうかとふっと思ってしまう。

私たちは日本の学校教育を通して、日本人なら誰でも思い起こせる体験や感情を植え付けられ、同質化され、「日本人」と言われるものにされる。同調圧力で批判する能力を削がれ(例え、その能力があったとしても同調圧力ではじかれることを恐れ)、沈黙する羊にされてしまっていないだろうか?

そう言えば娘達の中学校(もう20年も前の話だが)の社会の先生との面談で、先生が言ったことが思い出される。「僕は、授業中の自分の発言を少なくしたいと考えています。できれば生徒が70%、僕が30%ぐらいが理想です。もっと減らせればなおいい」この当時、既に生徒からの自発的な学びを啓発し、先生は舵取り役に徹しようとしていたのだろう。立花隆が、日本の教育を評して「ずらっと並べられた湯呑み茶碗にやかんでお茶を注ぐように、口を開けている学生に先生が一方的に知識を流し込んでいる(こんな内容だったと記憶している)」と言っていたこととは、正反対の授業形態である。

ヨーロッパの学校教育では政治について積極的に学ばせ、選挙時には候補者についてその思想や政策などを議論させている。数年前にアメリカから帰国した甥(当時中学生)は、日本の学校の授業では、選挙とか政治について議論をしないからつまらないと言っていた(結局彼は日本の高校を辞め、ニュージーランドの通信制高校に入った。とても楽しんで勉強している。一度外の世界を体験してしまうと、日本の教育の特異性を感じて馴染めないのだろう)

日本では政治の中立性などと言って、授業で政治を扱うことがタブー視されている。これでは政治にナイーブな国民が出来上がってしまう。政治は、我々の生活そのものなのに。

先日テレビ番組「マイケル・サンデル教授の白熱教室」で、「民主主義」について、アメリカ、中国、日本の学生による討論番組を見た。日本からは東大生、慶応大生、アメリカはハーバード大生、中国は復旦大生。私にはハーバード大生の議論の仕方が説得的でうまいと感じられたのだが他の人はどう感じたのだろうか。

中国の学生に関しては、優等生すぎて国家の影を感じてしまった。しきりに、「中国の民主主義」は欧米のそれとは違うことを強調していた。中国の政治家達がしきりに発信しているように。

日本の学生はと言えば、印象が薄かった。それは彼らだけが英語で議論しなかったからと言うことだけではなく、議論に深みがなかったと感じたからだ。質の高い議論を展開できていなかった、と思う(それはそのトピックに対する関心の薄さから来るのか、知識の浅さから来るのか、議論をして持論を説得的に主張するスキルが稚拙だったからなのか)※

※  参考までに、英国の公立中学校で学ぶブレイディさんの息子さんのスピーチの授業を紹介したい。(「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー2」より抜粋)

   それは「5S」と言うメソッドに従って書くのだそうだ。
   「Situation(聞き手が想像できるようなシーンを設定して議論を始める」
   「Strongest(演説の最も重要な主張を提示する)」
   「Story(個人の体験談を用いて自分の主張を裏付ける)」
   「Shut down(反論を封じ込める)」
   「Solution(処方箋を提案する)」

   こんな順番でスピーチの文章を書いていくのだそうだ。よその国では、
   このような公教育が中学から行われているということだ・・・。

最後に、ハーバード大の学生が「民主主義とは、表現の自由・言論の自由が存在しないところには成立しない。何故なら古代ギリシャから民主主義はそのようにして培われてきたからだ」(そんな内容だったと思う・・・)と締めくくった。ウーン、さすがうまい!(サンデル教授、これは準備していたんじゃないだろうかとうがった見方をしてしまった。本当は中国の学生に言いたかったことなんじゃないかと・・・⁈)

中学生の時、理科の先生が授業中、「ここで冗談を言う」と学習指導要綱に書いてあると言っていたが、それって冗談だったのかしら?そんな冗談みたいなことが、今でも続いているのだろうか?

追記

またまた次女から質問があった。大使館に行ったら息子の教科書をもらったそうだ。その中の音読の教材の意味が分からなかったらしい。

次女 「そこのけそこのけ」ってなに?
私  「お馬が通る」?
次女 「知ってるんだ‼️」(と驚き)「息子にどうやってこんな言葉説明したらい
    いのよ😤」と嘆いた。

我ながら、スラスラ言葉がついて出てきたことに驚いた。昔の体験が記憶に残っていたのだ。でもこれって何かの一部だ、冒頭部分が出て来なかった。そして理解した。小林一茶の俳句の一部だったー「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」

こうやって音読を通して、七五調は耳触りがいいものとして記憶されるのだろう。そして日本人は、七五調を好む国民だと言うことになるのだろう。すごい教育の成果だ!だが日本の学校教育のバックグラウンドがない次女にはお手上げのようだ。現代語にはない「そこのけ」など理解できないし、息子に至っては、違うセットの日本語があることに面食らうだろう。そう言えば「吾輩は猫である」も音読教材にあるようだ。「吾輩」を彼に教えるのも大変そう。

日本の学校教育を受けていない者が、日本人になる道のりは険しそうだ🥺🥺🥺日本の学校教育が日本人を作るのだから・・・・・。日本人を作ることにあまりにも多くの時間をかけていると世界の趨勢から取り残されそうな気がするけど。





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