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「私たちはなぜ学ぶのか?」(5)ー「当たり前のことが、当たり前でないと気付くためにも、学ばないといけない」

この言葉は、解剖学者 養老孟司氏の言葉である(2022年10月26日付 朝日新聞「私たちはなぜ学ぶのか」から)

養老氏は、人間の活動の大部分は「意識」に基づくが、この世界は「論理一辺倒」、人間の意識だけでできてはいない。全てのものごとを言葉にできるとは限らないと言っている。

そのような考え方を身につけるためには、もっと体を使って経験から学ぶことが重要である、と。例えば、ガスや電気が止まった時に火を起こせるか。トイレがない時、穴をどう掘るか。そういうこと=生きるために必要なこと、から学びは始まるのだ。

例えば、昆虫への興味が、植物や地質、自然へと関心がわき、天気、風、湿度にまで感覚が広がるように、意識化されない、ものごとを感じ取る力が身につく。

体を使って経験から学ぶ大切さについては、「今日ときめいた言葉3」の猪子寿之氏も同じことを言っている。言葉や論理だけでなく、人間は体全体で世界を認識しているということを自分たちの作品を体験することで気づかされる、と。

養老氏は、都市化が進み、経験から学ぶということが軽視されてしまっていることに危機感を抱いている。便利な時代になったが、何が必要か見えない時代でもある。ネット情報はあふれているが、共感できるものばかり見ていると頭が固くなる。つまり許容度が低くなってしまう。

社会のシステムが大きくなり、安定はしているが、自分自身のことが見えにくくなり、生きがいや素朴な感覚が失われてしまっている。また感染症や戦争など予想もしなかったことが起きるが、メディアが報じてもそれに実感が伴わないことも多い。そこを埋めていくのが、想像力である。日常生活で見過ごしている当たり前のことは、案外、複雑にできていて大切である、と。

この言葉は「今日ときめいた言葉1」の澤田瞳子氏の言葉と相通ずるものがある。(2022年9月7日付 朝日新聞「 知識とは時にそれだけで、人を傲慢にする」) 

澤田氏は我々が得ている知識について、「経験に基づかない頭でっかちの知識」と言い、「知識とは時にそれだけで、人を傲慢にする。そして考えてみれば世の中の出来事や日々目にする様々な品物の中で、一人の人間が本当の意味で『知っている事』は、どれほどあるだろう」と問いかけている。

「経験に基づかない頭でっかちの知識」、私の持っている知識は全部これだろう。最近分かったこと。スイカ🍉のこと。

夫がスイカの苗を買ってきた。スイカは大好きだから一つぐらい獲れるかなと楽しみにしていた。でも、このスイカ、ただ植えただけでは果実はならない。スイカには雄花と雌花があって(そんなことも知らなかったー本当に無知)、人の手で授粉してあげなければならないんだとか😱しかも花が咲いてすぐに元気な花粉を雌花につけないとダメらしい。結局、何度か試みたけど成功しなかったのだろう、スイカはできなかったから。

スイカを食べる時、その向こうにいる作る人をちょっとでも想像する。いや、頭をかすめるくらいかな?日常生活のすべてのことは、やはり複雑にできているのである。あなどってはいけない。

両氏とも、我々が日々の暮らしの中で、知っていると思い込んでいる自分に気づくために、経験から学ぶ大切さに言及している。また学んだ知識はただ蓄えているのではなく、応用してこそ役に立つ、と。

養老氏の大学時代の先生の言葉ー

「教養とは、人の心がわかること」

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