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もう1人自分を飼い始めた話

犬を飼いたい。

大型犬と広い公園を散歩するのもいいし、
小型犬が家を走り回るのも見たい。
いやモフモフの猫もいいかもしれない。

小学生の頃から今まで
ずっとこんなことを考えている。

そもそも私の家族にはアレルギーがあるし
時間の余裕もないから飼うことはできない。

なにより、
「ペットは死んじゃったときが辛いからな~」
という発想がずっと脳裏にチラついてしまう。

飼う前からその先にある別れを想像してしまう。
そうして私は今日もペットを諦める。


恋人がほしい。

なんか1人だと時間を持て余すし
友達もみんな彼氏に夢中だし
私も誰か安心できる相手が欲しい。

ただ、いざ友達から恋人になりましょう、
という時、まず先に別れを想像してしまう。

もし恋人という関係に終わりが来た時、
もう一度友達に戻ることはできるのだろうか。

恋人という関係でなくなってしまっても、
私を理解してくれる相手として
信頼しつづけられるだろうか。

好きな映画の話とか、あの時の思い出話とか
別れた後も楽しくできるのだろうか。

経験上、それはあんまり簡単じゃなかった。
私が未熟すぎるからかもしれないが
恋愛でいちばん辛いのは
昨日までお互いのすべてを
さらけ出していた相手が
いきなり二度と会話できない
赤の他人になることだった。

関係を築く前に、まず別れを想像してしまう。
そうして今日も私は1人を選び続ける。


「大豆田とわ子と三人の元夫」というドラマの
第6話で、主人公の親友が急死した。
小学校からの幼馴染で、
空気のようにずっと一緒にいたのに
突然この世からいなくなった。

人って、
こんなにあっけなく別れてしまうんだと思った。

私の親友も、家族も、あの人もこの人も、
いつ突然私の前から姿を消すかわからない。
いつ、もう二度と会えなくなるかわからない。

それにふと気づかされた気がして、
夜中にベッドでオイオイ泣いた。


1人でなんでもできるような気がしてしまうけれど
生きていけるような気がしてしまうけれど
やっぱり人間はいつまでも寂しい生き物で。

誰かと出会い、支えあって
人と一緒に生きていくことで
今日をなんとか迎えることができている。

だから、人生には沢山の出会いがある。
大切にしたいと思う人も沢山できる。

けど、それに伴って別れも必ずあって。

あの日一緒に散歩した動物とも
お互いを語り合ったあの人とも
ずっと一緒にいた親友だって
いつかは別れがやってくる。

私は、よくその「別れ」を想像してしまう。
考えすぎて不安になって、
夜中にフニフニ泣き出してしまう。

ただ、泣いたところで
この現実はなにも変わらなくて。

暫く泣いて、
いつ別れがきてもいいような
今を積み重ねるしかないのだ
というシンプルな結論に至った。

今この瞬間の感情や情景を
自分のなかにストックしておければ
いつか来てしまう別れも
すこし違う感触になるかもしれない。


「花束みたいな恋をした」という映画を観た。

カップルが付き合い、別れるまでの4年間を
描いただけの、とてもシンプルなストーリー。

とっても幸せそうだし、楽しそうだけれど、
私はずっと「まあこの後別れちゃうんだよな」
という、2人の終わりを感じながら観た。

どんなに相性がよくても、仲がよくても、
「いつまでも現状維持で幸せに暮らしました!」
なんてことはとっても難しくて。
なにかしらのズレや飽きを感じるようになる。
突然の別れも来るかもしれない。

だって時間はどんどん過ぎていくし、
自分はどんどん更新されていくから。

すごく悲しいし虚しいことだ。
けれど、この映画は
あまりそれを感じさせなかった。

なぜなら、2人で過ごした4年間の「今」を
思い出としてそれぞれ
自分のなかにストックしていたから。

最終的には別れてしまうけれど、
2人はずっと思い出を胸に、生き続けていた。
新たな恋人ができても、
ファミレスでの会話や
焼きそばパンの味はキラキラ輝き続けている。

決して未練があるとかではなくて、
ただ、「今」の情景や感情を
自分のなかにそっと保管していた。

なるほど、自分のなかに「今」をストックする。

たしかに、生まれた時から死ぬまで
自分のそばにずっといられるのは
自分だけだ。

最後の最後まで、自分を大切にできるのは
自分自身だけだ。

ああなんて孤独なんだ。

そう気づいたとき、私は
自分のなかにもう1人の自分を作りたいと思った。

私のストックしてきた「今」を全て知っていて
最後の最後まで
絶対的な味方になってくれる存在。


ある本を思い出した。

ワタナベアニさんの
「ロバート・ツルッパゲとの対話」。

彼は自分とより深い対話をする別人格として
ロバートさんを召喚していた。

自分を客観視する存在を作ることで
自分の軸をきちんと持ち続ける。

なるほど、そうすれば
もう1人の自分と生きることができる。
孤独じゃなくなる。

だから、私は自分の中に
もう1人の自分を飼い始めた。

名付けて「アメリア・ドンクサイ」である。

こうすれば、私は死ぬまで1人じゃない。

アメリアは、私の今までの感情や思い出を
覚えててくれるし、
どんなときでも私の見方でいてくれるし
急にいなくなったり裏切ったりしない。


実は、先日アメリアがラジオに出演した。

正確に言うと、
「アメリア・ドンクサイ」というラジオネームで
投稿した私のお悩み相談が
J-WAVE 毎週土曜20:00~の「TOMOLAB.」
という番組で採用された。

1時間、藤原しおりさんと
ゲストのあっこゴリラさんが
アメリアの悩みに寄り添ってくれた。

結果、アメリアはコテンパンにやられた。
ぼろぼろで、わなわな震えて、
沢山のモヤモヤを抱えて帰ってきた。

アミとアメリアは一緒に、
とことんそのモヤモヤに向き合った。

自分が好きな自分ってなんだろう?とか
自分のベストなパフォーマンスってどんな?とか

最初は半泣きだったけれど、
アメリアが全てを受け入れてくれるおかげで
どうにか落ち着くことができた。


「あなたに味方はいますか?」

そう問われたことがあった。

います。と即答した。

家族、友人、先輩、後輩、バイト先の人、
マンションの管理人さん、バスの運転手さん...

私には味方がたくさんいる。
本当に恵まれた環境にいる。


また映画の話をする。
「くれなずめ」という映画を見に行った。

高校時代の6人組で結婚式の余興にでるが、
そこには当たり前のように5年前に亡くなった
吉尾(成田凌)が存在する。

ここからは私の解釈でしかないが、
ずっと見えていた彼の姿は、
吉尾の現世への未練ではなく、
彼の死を受け入れられず
いつまでも「くれなずむ」
遺された者たちの感情だったのだと思う。

めちゃくちゃ不謹慎な話だが、
私が死んだとき、いったいどれだけの人が
「くれなずむ」のだろうか。
棺桶の前で泣くのだろうか。

きっと、泣いてくれる人は
私の味方なんだと思う。

想像すれば、するほど、
死にたくねえな、ってなる。

21歳なんてまだまだ若い!幼い!
とみられることが多いけれど本当にそうで、
もっと沢山の大切な人に出会いたいし
沢山の思い出をストックしたい。

もちろん出会いがあれば
辛い別れがあるのかもしれないけれど
私にはアメリアをはじめとした
沢山の味方がいるから。きっと大丈夫だ。

”死んでても死んでなくても変わらないんだよ!”

こんなセリフが「くれなずめ」のなかにあった。

どんな別れがきても
その人と過ごした思い出は変わらず
私のなかに残りつづけるし

別れたとしても
きっとその人は変わらず
私の味方でいてくれる。

そう考えたら、あんなに不安だった
別れがそんなに怖くなくなった。

フニフニ泣かなくなった。

今日も、私のなかの
「アメリア・ドンクサイ」が
”大丈夫だよ”と
背中をさすってくれている。

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