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読んでるとむくむく「書きたく」なるエッセイってあるよね

「鉄の胡蝶は記憶は歳月は夢は彫るか」という保坂和志さんの文章を読んで、書きたくなった。言葉にしたくなった。文を連ねたくなった。

書きたいことなんてほんとうは山ほどあるし、書けることは無限にある。
ほんとうってなんだろうと思うけれど。

疫病が蔓延したとき、「本来は」「本来なら」という言葉をよく聞いた。
その本来とは何かとわたしは胸の中で毎回言った。
「予定では」とか言うならわかるけれど本来って、未来のことは本当は何も決まっていなかったのに、それがあたかも既定していたかのような、そしてその既定と実体が異なって進行して、それに当惑して、

でもきっと、本来なら、それさえなかったなら、と、言いたい気持ちがあったのだ。
予定なんて味もにおいもなさそうな言葉ではうわすべりする、
本来ならという言葉には悔やみとか不満とかが滲む、内包される、漂う気がする。

けれどわたしがこんなにも書きたいこの書きたさはわたしだけのものなんだなあ。

誰にも伝わらないんだ。

わたしの体からそとへ出ていかない。

べつに物体に宿っているわけではないから体の中に閉じこめているってわけでもないのかもしれないけれど、
いいえわたしの思考であるいじょうわたしの肉体に宿っていることになるのかしら、

そしていまのわたしの力量ではこの書きたさをことばに書きとめることもできない。ぜんぜんできない。なんてことだ。

それと、わたしの愛するキャラクターも、わたしほど愛しているひとは一人もいないんだと思うと不思議なきもち。

地球上には80億くらいのひとがいて、その全員にわたしの物語が届くなんてことは起こらないとしても、それぞれになにかを考えていて、わたしの考えている「なにか」の中には彼らキャラクターのこともあって、けれどそれは、80億ぶんの1、わたしだけなんだなあと思う。

それを、まったく同じにはならないとしても広げていくのが、結果的に小説を書く者のしごとなのかなと思ったりする。

しごととして小説を書く者になりたいな。

でもいまはそんなことよく言えるねってどなたかに言われそうなほど小説なんて書けない。いちおう書いているけれど、小説とよべるんだろうか。なんか落書きが、絵が下手すぎてもう線が引いてあることしかわからないよ、これは絵とよんでいいの? みたいな落書きみたいなものしか書けない。いまは。いまは!

それで、いまは数を書こうと思っている。

いっぱい書いて、自分なりに、書くことの、自分の道を、踏み固めて、道をつくっていこうと思っている。

書く数を決めている。

けれど守れていない。

自分で決めた締切とか、しかも誰にも公開していない、ほんとうに自分の中にだけある締切とか、守れるかたいるのかしら。
いるんだろうな。
わたしがそれを守れるならわたしはどこかがこわれてる。

インターネットがない時代なら永久にひとめにふれることはなかったろう作品が、こういう出来心のある人物のばあい、かちっと全世界に公開されたりしてしまうんだな。

ほんとに未熟で稚拙でおもしろくもなく見えるのだろうけれどわたしにとっては大切な作品で大切な一歩で、公開することは一つの区切りになったりして、だから見向きとかされなくても書いて上げて書いて上げて、書いたことや書いていることや書くことについてふらふらと話していきたいな。


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