【小説】傷に触れない (サラとの1か月間~6日目~)
そもそも誰かを好きになったり、愛おしく想ったりすることなんてあるのだろうか。
随分前に巷に流れていた
ーー別れた後も、あなたのことを今でも思い続けている
なんて、ラブソングもただ煩わしいだけだという印象しか持てなかったし、記憶をなくしていく恋人との葛藤を描いた映画がヒットしたのも、いまいち理解できないでいた。
「面倒くさい」と、つぶやくサラの体温をぼくは背中で感じていた。
「感動できることを、誰かに試されている気がする」
背中を合わせて過ごすには暑すぎる季節だった。
ティーシャツから滴る汗はトランクスまで濡らしていたけれど、動きたくなかった。サラもクッションに収まる猫のように、ぼくの背中に身体をあずけていた。
この体制が一番ラクだ。顔を合わせなくても、お互いの存在を感じることができる。背骨が、たまに痛むけれど。
「最近、泣いたことある?」
彼女の欠伸まじりの質問。氷がすっかり溶けた麦茶に口をつけた。
「一週間ぐらい前かな。マンガを読んで……」
意外な答えだったのだろう。「へぇ」と、声を弾ませた。
「アマチュアの人が描いた作品だと思うけど、Twitterで流れていた」
「どんなマンガなの?」
「飼っていたネコがいなくなって頭がおかしくなる、おばさんの話」
先ほどとは違って、トーンダウンした「へぇ」という返事。興味がなくなったようで、この話はこれでおしまいになった。
開けっ放しの窓から夕方6時を知らせる『家路』が流れてくる。
――響きわたる 鐘の音に 小屋に帰る 羊たち
曲に合わせて、彼女は口ずさむ。
やわらかい声。ぼくは夕焼けの草原の中、小屋へ誘導する年老いた羊飼いを思い浮かべた。
スマートフォンが鳴った。メッセージアプリを開き「主任からだよ」と舌打ちをする。
「なんて?」
「週明けまでに編集長に提案する資料を作ってこい……って」
サラは肩を揺らして「相変わらずだねぇ」と気取らない笑い声をあげた。
彼女は、もう作り笑いなんてしない。
ぼくとサラは、一か月前まで同僚だった。
都心のレストランやブランドショップ、バーとラウンジが併設された会員制のプール。成金が好みそうなデートスポットを紹介する雑誌の編集室にいた。旬の芸能人が一貫だけで数千円もする寿司を頬張る写真と共に、消費行動を促すような記事。出版不況の時代が長く続いているが、社会人の憧れを具現化したような誌面は、上昇志向の強い男女の手引書として人気があった。
意識が高いのは読者だけではない。
編集室にいるメンバーの中には取材と称して、話題の鉄板焼きの店で黒毛和牛を注文し、仕事終わりにはスポーツジムや勉強会、合コン……と絵に描いたような理想の社会人生活を送っていた。
でも、それができたのは、社長に気に入られているごく一部の人間だけ。
彼らは他の社員達に仕事を押し付けて、失敗を責め立て、手柄を自分のものにする権限があった。小さい出版社だが、不条理なことが蔓延しているのは他の会社と同じだった。
ラグジュアリーな体験を通して企画を考える人間。その下で締め切りに追われながら、記事作成や校正、印刷会社との調整で必死に汗を流す人間がいた。上下に分かれた方が効率的である……というのが、この会社の理論だった。
まぁ、古代ギリシャだって数学や美術が発達したのは、市民の生活を支える奴隷がいたからだと聞いたことがある。あながち間違いでもないのかもしれない。
スマートフォンにメッセージを送ってきた主任はアテネ市民の一人。ぼくは締め切りに追われながら終電まで働いている奴隷だった。
サラも主任のようなポジションにいた。仕事は決して早くないが、整った顔立ちと物腰の柔らかさがウケたのか、社長の外食を兼ねた会談によく同行していた。編集力よりも社交性を重視する職場だからか、彼女は入社年次が下だったが、いつの間にかぼくを追い越して出世していた。
このままいけば、もっと重要なポジションに着けるだろうし、主催イベントや取材を重ねることで、あわよくば経営者や芸能人との出会いもあったかもしれない。
でも、サラはオフィスへ来なくなった。突然に。
編集室の仕事は彼女なしでも回すことができたが、音信不通となったことに動揺する社員は多かった。たまに忙しさのあまり逃げ出す社員はいたが、彼女がそんな人間だとは思えなかったから。
そもそも上層部からの圧力で割り当てられた業務量は、ぼくの半分以下だ。
―大丈夫だろうか
―抱えきれない悩みがあったのか
―もしかしたら、何らかの事件に巻き込まれたかもしれない
心配をアピールするために大げさに涙を流す女性社員、社長に失踪した責任を追及される編集長、ケーキ片手に何度も彼女が一人暮らしをしていたアパートを訪ねる主任。
ぼくは彼らを横目に、自分に与えられた仕事を進めていた。同僚といえど、一言二言の会話しかなかった人間の心配をする余裕なんてなかった。
一部の女性社員たちで、ささやかれている噂の信ぴょう性も図れない。それ位に、ぼくは彼女のことを知らなったし、気にもしていなかった。
だから週末に銭湯の入り口で、彼女に声を掛けられたことが意外だった。
ぼくは、ポカリの入ったペットボトルを落としそうになった。
彼女は自分の名前を名のり「すっぴんだから分からないかな」と頬に手を当てて、おどけた。
「よくここに来るの?」
「ここって?」
「銭湯」と、ぼくは暖簾を指さした。
会社に来なくなった理由……だったり。訊かなければいけないことが、もっとあったはずだ。でも、機嫌良さそうな顔を見ていると、それもどうでもよくなった。
「たまにね。久々に湯船に浸かりたくなったの」
「そっか。じゃあ、また」
気まずさから逃げるように、ぼくは軽く頭を下げる。
「あっ、じゃあね」
彼女は軽く手をあげて、左右に振った。愛嬌のある仕草だった。
このことは誰にも言わないでおこう。
きっと話したら、会社に戻るように説得しなかったことを責められる。そんなことを考えながら歩いていると、自分を呼ぶ声がした。
振り向くとサラだった。走ってきたのだろう。半開きの口と上下する肩。
「ちょっと待ってて」と手で示し、息を整える。キャミソールの紐のずれをなおしながら。排気ガスに混じって、石鹸のニオイがした。
「せっかくだから、飲みにいかない?」
意外な言葉に、ぼくの顔は驚きを露わにしていたのかもしれない。
「あっ、ごめん。困るよね」とごまかすように笑いながら、目をそらした。
どうせ暇な週末だ。断る理由もなかった。
「じゃあ駅前の焼鳥屋に行く?」
ぼくがこたえると、彼女は安心したように意味を漏らした。
「ありがとう。でも、お風呂入ったばかりだから、煙はちょっと……」と手で首元を仰いだ。
「君の家で飲もうよ。実家暮らしじゃないよね? お酒代はわたしが払うから」
お願い……と彼女は合わせた手を少し下げて、上目遣いの顔を向ける。きっとこうやって、上手いこと社会人生活を乗り越えてきたのだろう。
「この辺りをウロついていると会社の誰かに合うかもしれないし、私のアパートはいつ主任が来るか分からないから」
女性を自宅に招くことへの下心がなかったわけではない。でも、社長や主任に対して「できれば、もう会いたくない」と呟く彼女への同情心の方が強かった。職場の人たちと良好な関係を保ち続けていたことに重圧を感じていたのかもしれない。
ぼくは、溶けはじめた氷山のように、表面上保ってきたサラの社交性が音を立てて崩れていく光景をイメージした。冷たい海に沈みこませた自我を再び浮上させるには、きっと時間のかかることだろう。
その日からサラは、ぼくのアパートに入り浸るようになった。
会社では辞表の入った書留が届くまで、相変わらず編集長は見込みのあるところに連絡をしていたし、主任はケーキ片手に誰もいない部屋の呼び鈴を押し続けた。もちろん、彼女と一緒に暮らしていることは誰にも言わなかった。職場内の心配する声は、やがて彼女の無責任さに腹を立てる中傷となり、それも次第になくなっていった。
ぼくは黙って与えられた仕事を進め、家に帰って彼女が作ってくれた簡単な総菜を口に入れて寝た。
「わたし、コイツ嫌いだった」
サラは、ぼくの右肩に顎を載せてスマートフォンをのぞき込んでいた。
汗に混じった甘い匂い。
「ねぇ、職場みたいに、ここも……わたしが突然いなくなっても怒らない?」
唇から漏れる温かい息が、ぼくの右耳に触れる。キスをするには遠いが、会話をするだけなら近すぎる距離。
「好きにすればいいんじゃない?」
ぼくは立ち上がり、汗で濡れたティーシャツを脱ぐ。部屋に入る黄昏の風を背中で感じた。
相手の感情を伺うような質問を投げかけてきたサラに軽く失望した。誰にも捕らわれずに自分が思うままに生きていく。ぼくは、そんな彼女に好意を持っていたから。
サラは両膝を抱えて体育座りのようなポーズをとる。笑みを漏らしたまま。
「なんか、面倒くさくなっちゃうんだよね」と、ピアニッシモに火をつけた。
「カレシとカノジョや親と子。あとは上司と部下とか。つながってなきゃいけない意味でもあるのかなぁ?」
空虚な問いが、煙と一緒に天井を漂う。
「さぁね」
人とのつながりについて、世間で言われているほど大切なことだとは思えなかった。
「恋人、友人、家族とか。既存の言葉を使って、互いを拘束することで……」
ここまで話すと、子犬が鼻を鳴らすような音が聞こえてきた。
彼女は腹をなでながら「お腹空いた」と悪びれた様子もなく、話題を変えてきた。
「昼間に質屋に行ってね。コンサル会社の人とデートしたときに貰った腕時計を売ったの。ジャガー……なんとかっていうブランドの」
ピアニッシモを灰皿にもみ消しながら、口元を緩める。
「へぇ、高く売れた?」
サラは、答える代わりに「お寿司と焼肉、どっち食べたい?」と、いたずらっぽく目を細めた。
「肉かな」と、ぼくが首をかしげると彼女はさらに口を横に広げて無邪気に笑った。
赤焼けのフィルムに映ったような儚い笑顔だった。それは非現実的で、近いうちに、ぼくの元から去る日が来ることを予感させた。職場を去ったときのように、突然。なんの未練も残さずに。
「じゃあ、駅前の焼肉屋に行こうよ。わたし、タン塩が食べたい。分厚いヤツ。あと大ジョッキ」
大金が入っているであろうショルダーバックをつかむと玄関に向かった。
「また太るよ」とスニーカーの紐を結んでいる彼女を見おろす。汗でおくれ毛が首筋にへばりついている。
「うっさいなぁ」と立ち上がり、笑いながら握りこぶしをぼくの胸に軽く突き出す。
すっかり陽の落ちた川べりでサラは「シュッ」と短い言葉を発しながら、パンチを放つ。ぼくは小さくて少し冷たい握りこぶしを掌で受け止める。焼肉屋に行く途中、しばらくボクシングのミット打ちのマネごとを続けた。
腕を組んでいるカップルが嘲笑するような好奇と怪訝の視線を向けてきた。同じくらいの年齢で、同じくらいの背丈の男女。
ぼくらは腕を組んだり、手をつないだりしない。恋人じゃないから。
ずっと一緒にいたい。
そんな大多数の人間が抱く想いを持ち合わせていなかった。とっくの昔に捨てたのか、それとも生まれた頃から持ち合わせていなかったのか。
たまたま出会い、一時的に身を寄せている。それだけが二人の共通の認識であり、共有できる価値観だった。
ボクシングステップを踏んでいる彼女の足がもつれる。ぼくは左腕を伸ばし、腰を抱える。長いまつげに囲われた瞳は街灯の光を吸い込み、深い闇を宿していた。「ごめん」と薄い唇から漏らす言葉に「らしくないな」と返す。
川から流れる風が草と水の匂いを運ぶ。夜は夏の空気が闇に沈んで、重たくなっている気がした。
サラは、ぼくの左腕から離れて再び歩きはじめる。
また、いつものように鼻歌を歌いながら。
了
リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。