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 ほぼ毎朝早くにティッシュ配りのアルバイトがあるので、最近は早寝早起きができている。6時台に起床するとその日の充実度が違う。やはり幼少期から早い時間に起きて学校に行ったり、陸上の朝練をする週間がついているから、「これが正解だ」と体が示してくれているようだ。

 朝はしっかり起きられるものの、昼寝の時間はやはり長引いてしまうもので、夜の寝つきは若干悪くなってしまう。未だに午前中から昼にかけて睡魔が襲ってくるのに、夜はすっかり覚醒してしまっている。とにかくリラックスすることに努め、無理やり体をシャットダウンするように就寝している。体全体が眠いと感じ、布団に寝転がった瞬間、体を構成する全てが弛緩してしまうような眠りを、毎晩0時に味わってみたいものである。

 昨日は、やはり昼間にたくさん寝てしまい。夜はYouTubeで落ち着く音楽を聴きながら眠りに入るつもりであった。音楽に聴き惚れながら全身の力を抜いて鼻息を深く吸っていたら、また別の音が聞こえてきた。しかもそれはあまりに不快で、私と音楽との間に割って入ってくる。

 蚊の羽音であった。

 ぷうううん、ぷうううんとしつこく音を立てながら顔の右から左へと移動してくる。私の眠ったところを奇襲して血を吸おうっている算段か。そうはさせまいと顔の周りを手で振り払った。直後は羽音がなくなるが、また数秒もしてくれば再び右、左、右、としつこく飛び回る。それが何回も繰り返されたので苛立ち、本格的に仕留めてやろうと電気を点けた。しかし枕元を見回してもその類の飛ぶ物体は確認できない。部屋全体電気を点けてもわからない。

 別のところに行ったのかもしれないし、蚊に気を取られていては寝る時間もなくなってしまうと、電気を消して布団に潜り込んだ。止めていた音楽を再び流し、ギターの音が鼓膜を優しく撫で、いきり立った私の心も穏やかになった。
 しかし、そんな落ち着ける時間も殆どなく、再び羽音が私の耳元を襲う。

 この時、半ば虫に対して諦めの気持ちを抱いていた。そんなに刺したけりゃ刺せば良い。私は明日のアルバイトのために寝なくちゃいけないのだから、ものの体の数カ所刺すくらい、寝ている時に引っ掻いてお終いさ。とにかくその睡眠を妨げる羽音をなんとかして欲しい。
 だが、その思いも通じることなく、忌まわしき飛翔体は耳周りでぷうううん、ぷうううんと盛んに飛び回る。

 あまりのしつこさに私も対抗策を打たねばならなくなった。首から下は布団に完全に潜らせ、蚊の目標を顔だけに絞らせる。両手を少しだけ布団から出し顔に近づけておく。蚊が私の顔に止まった瞬間にスタンバイしておいた手でばちんと叩き潰す——これが私の作戦だ。

 このぶりっ子ポーズのような格好のまま眠りに就いたら滑稽な寝相になるが、結果として就寝できることになるので、それでも良かった。しかしそんなこともなく、再び羽音が私を襲う。それを振り払うことなく辛抱し、顔に蚊が止まることを待った。

 その時はすぐに来た。左耳に何か触れたものを感じ、静寂をつんざく羽音が消えた。その機会を逃さず、スタンバイしていた左手で自分の顔の左側を力強く平手打ちした。

 瞬間、真っ暗だったはずの視界が色ともつかないような色で弾ける。左耳からは甲高い音が鳴る。頭蓋骨が軋んだかのようにじんわりと左側頭部に強い痛みを覚えた。力強く自分の頭を叩き過ぎた。

 再び電気を点けて、私の左掌を確認した。そこに死骸はなく、全体がいつも通りの肌色だった。また失敗した。自分を殴った衝撃で視界が揺らいでいて、耳鳴りは甲高いものからブラウン管テレビのような砂嵐に変わった。もう何がなんだかわからなくて、蚊とこれ以上闘う気力も無くなってしまった。電気を消し、布団に入って音楽をまた聴き始めた。今度、音楽に割って入ってくるのは、砂嵐の耳鳴り。誰がこんな砂嵐でリラックスできるかと独り言ちたが、羽音に比べればだいぶマシであった。

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