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この割れ切った世界の片隅で、分断についての対話をなぜ人々はしないのか、、、

weekly ochiaiの子供の教育格差についての回を拝見しました。

高校生 鈴さんの「この割れ切った世界の片隅で」を改めて読みました。

鈴さんが社会を真っ直ぐに見つめ、堂々と言葉にする姿は本当に素晴らしいと思います。
ある種、若い方だからこそできる希望的投げ掛けというのがあるように感じました。
その発言の価値や可能性を社会がしっかりと受けとめ、未来に繋げていくことができればいいのだろうと真剣に思います。
私ももっと若い方の希望に耳を傾けよう。

この鈴さんのnoteの本質は、未来のエリート層を担う東京の友達へのメッセージであるそうです。
私立小学校から一貫した優良な教育を受けてきた彼ら彼女らに気づいて欲しい現状がある。
教育の機会は東京と地方で格差がある。
教育以前に生活に困窮している人々がいる。
あなたたちの普通は社会の「あたりまえ」ではない。社会は分断されているのだと。
それを知った上で未来を担う人間になってほしいという思いがあったそうです。

高校生くらいの歳の頃は、社会の中でどんな風に人々が暮らしているのか、という構造はまだ朧げにしか見えないものかもしれません。

特に私立一貫教育に入る段階が早いほど所属集団は多様性が少なく、つまりは富裕層のみの集団の中で学ぶため、社会のなかで色々な人が様々の生活感覚をもっていることに気づきづらい。

公立学校を経験していると、その地域の子どもたちと共に学ぶ機会があり、そのなかでそれぞれ生活水準があることを知ることになる。
鈴さんのように地方で進学校に進むことをきっかけに格差気づく、そして東京の優秀な友達のように格差を知らない人たちがいることにも気づく‥。

教育機会と社会階層(親の収入、職業)、教育と社会移動に「相関がある」というのは古くから研究されているテーマです。教育社会学という分野で多くのデータが検討されています。
つまり教育の格差や階層の分断は自明のものです。

ただ、この鈴さんは「実体験」を通して、このことを「発見」したことにとても意味があるのだと思います。
多様性へのまなざし、を自分なりに獲得したということだからです。

今まだ気づいていないと思われている恵まれた高校生も、様々な人生経験を経て、いつか自分の普通が「あたりまえ」でないことに気づくと思います。(‥気づかないケースもあるかもしれませんが。)

そしてある程度年齢のいった大人であれば、それはよく理解していると思います。
ただなぜそれを語らないのか。

分断についての対話をなぜ人々はしないのか。

それは自分が経験していない相手の立場を理解していないのではないか、という遠慮。
教育や生活水準についての話題はナイーブなものです。
言葉で誤解を与えてしまうのではないか。
相手を傷つけてしまうのではないか。
自分が傷ついてしまうのではないか。
という不安があるからかもしれません。
もしかしたら、自分の周囲の「普通」以外には単に興味がないのかもしれません。
自分の「普通」が揺らがないように、ほかの「普通」を受け入れないということも無意識の反応であるのかもしれません。

でも関心をもって対話することでしか、なにも進まないのでしょうね。

私自身、いつか子どもたちに与えられる教育機会について話すことがあると思います。

鈴さんが語られるようにどんな立場の人でも望むように教育が受けられる社会を目指すこと、そのための支援のしくみをつくることは必須です。

ただ、限りある親の財力のなかで、子どもに与えられる教育費用は限度があります。
それは現実です。
でも対話するなかで、支援を受けるなど良い策が見えてくるかもしれない。その分、子ども自身が学ぶことに真剣味が増すかもしれない。
何かを諦めたのではなく、子どもが出来る限りの選択をしたと思える、そんな対話ができるようにしたいと思います。(だいぶ先だけど。)

そして、皆が望む教育を受けられるように支援する一方で、学校教育だけが人に価値を与えるのではないということが社会に根付いていればいいなと思います。※
学校だけが学びの場ではなく、学校でなくとも社会生活のなかで様々な関わりと学びがあり、多様な価値観が尊重される。
教育機会の訴えと同時にその考え方があるほうが誰もが生きやすく、互いの価値を認め合えると思います。

すごく長くなりました。

お読みいただきありがとうございました。

※ここで伝えたい内容は、ズームバックオチアイの豊かさの教育と少し繋がっていると思います。

落合さんの「豊かさ」の多様性についてのお話をまとめていますので、もし宜しければご覧ください。

お読みいただき、いつも♡をいただきありがとうございます。

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