神君「白兎」の行く年

いつの間にか、2023年が終わっていた。
季節外れの「小春日和」と冬本番の寒空が交互に来るせいか今一つけじめがつかないまま、正月休みすら終わろうとしている。

そういえば、去年は年男だった。
前回がちょうどドイツにいた頃で、日本で卯年を丸々過ごすのが24年振りだったのだけれど、意識していたのは1月の前半までで、それからは日々の忙しさに駆り立てられ、気が付いたら年の瀬まで追いやられていた。
大河ドラマがなかったら、卯年であることすら忘れていたかもしれない。

去年(2023年)の大河ドラマ『どうする家康』は、なんとも不思議な作品だった。
その前年の『鎌倉殿の13人』にとにかくハマッていたので、初めの頃はそこからの落差というか、ずいぶん「チャラチャラ」したドラマに見えてしまったのだけれど、桶狭間直後に立て籠った大樹寺から、大音声で包囲軍を圧倒しながら岡崎へ帰還する元康(後の家康)を見たあたりから「なかなかいいな」と思い始め、結局毎週楽しみにして観ることになっていた。
(奇しくも本多平八郎(忠勝)や榊原小平太(康政)が主君を認めたのと同じタイミング!)

ところで記事を書くにあたって改めて調べたのだが、その大樹寺の話はどうやら第2回だったらしい。ということは僕が「チャラチャラした」印象を持ったのは、家康が今川の人質として浜松で過ごした少年、青年時代のシーンだったようだ。そもそも今までの大河ドラマ(少なくとも直近30年くらい)ではあまり取り上げられない部分で馴染みがなかったのもあるだろうが、主人公がとにかく「女々しく」て、一目惚れした瀬名と「おままごと」ばかりしていて、一応恋敵の今川氏真と対決はするけれど、結局は優しい「父」義元の保護監督の元、おままごとの延長のように夫婦生活に入るという、なんとも武士らしくない展開がなんとも「チャラい」と感じたのだろう。
もっともこの「原体験」があるからこそ、家康と瀬名の夫婦は「戦無き世」を目指すようになるのだし、この「超スイーツ」な家庭生活の描写があるからこそ、ここからの対比で以降のドラマ展開の悲劇姓がより明確に際立ってくるのだけれど…

ウサギにちなんで他に連想されるものとして、バニーガールがある。
急に話題のテイストが変わって申し訳ないのだが、2023年はコロナが第5類に以降した年でもあって(確かゴールデンウィーク前後だった)、いわゆる「夜の街」に行きやすくなった時期でもあるのだ。
(その前のコロナ中まったく飲みに行かなかったかと言われれば黙るしかないし、第5類に以降したからって「そういう」店に足繁く通えるほどの懐具合ではないけれど…)

バニーガールについてはウィキペディアの日本語版の記事に前から気になっていた記述があって、最近その「元ネタ」を取り寄せてみた。

したがってヘフナーが抱いた、都市の紳士のイメージは、まるで異なるものとならざるを得なかった。かれらは女性とうまく付き合えず、性衝動をオナニーによって処理し、観るだけのスポーツを愛し、歴史だとか自然にはそれほど関心がない。かれらのプレジールは、食欲・性欲そして自己愛が満たされることなのだ。
ヘフナーのそんなイメージは『プレイボーイ』の象徴的なマークロゴとなった「バニー」にも反映している。バニーすなわち兎とは、つねに発情しているか弱い動物のことだからだ。同時に、あの耳は、広告におけるサブリミナル効果の研究に先鞭をつけたブライアン・キイにいわせると、「男性器を切りとる鋏」を暗示している。かれらは去勢され、発情しているにもかかわらず実際の性行為が行えない人たちでもある。
荒俣宏『エロトポリス』集英社文庫1998, p65-66

これも結局ブライアン・キイなる研究者の引用なので「孫引き」にはなるのだが、なかなか挑発的な言説だ。
引用は欧米のヴィジュアル雑誌の変遷史を書いた『第一章 子どもには分からないピンナップの真実(p51-71)』から。
女性のセクシーな絵姿の載ったビジュアル雑誌(ピンナップ雑誌)が発生したのは1910年代パリ。そこではきらびやかな美女が半裸で舞い歌うレビューというショーの印刷版といった位置付けで、このショーが社交の場でもあったことから、読者層は地位も教養も金もある紳士淑女であり、雑誌は紳士の嗜み、いわば「女神のファンタジー」だった(p56-58)。しかしこの雑誌文化が1920年代にアメリカに移入され、ハリウッド映画業界との提携の中でイラストから写真へと変更し(p59-60)、1940年代になると第二次世界大戦の出征兵のより直接的な「要求」を満たすため、「娼婦の妄想」へと変質してしまう(p62-64)。それに続く1950年代、有名な『プレイボーイ』誌が創刊するが、ターゲットは故郷アメリカに帰ったGI。いわく、「狩猟や釣や山登りよりも、よい食事、よい酒、よい服、よい女友達のほうに喜びを求める、選ばれた都会の若者」。しかしその都会の若者とは、キンゼイ報告によれば、その9割がパートナー無しの自慰行為に耽っている「非モテ」だった(p64-65)。そして、引用につながるわけである。

もちろん男がそういう欲求を発散する機会を求めることがあるのは万国共通で、ピンナップ雑誌発祥の地パリで「プロ」の女性が活躍していた様を、例えば鹿島茂『パリ、娼婦の街』(角川ソフィア文庫, 2010)は緻密かつ軽やかに描写している。いわゆるハイカルチャーのオペラでも、19世紀パリの成金プルジョアと女優の間で舞台裏での「交渉」がなされることもないではなかったらしい(岡田暁生『オペラの運命』中広新書, 2001 p107)。ましてもう少し大衆的なモンマントルのムーラン・ルージュとなると…(鹿島茂『パリ・世紀末パノラマ館』中広文庫, 2000 p130-132)。

『プレイボーイ』についていえば、映画『地獄の黙示録(1980)』の中盤、ベトナム戦争の最中のジャングルの中にプレイメイトが空から「配給」されるシーンがあったのが印象的だ。

ただ、そういう層にターゲットを絞ってマーケティングし欲求を満たすことで、いわゆる「ポルノ中毒」になる、ということはあるかもしれない。

消費資本主義というのは、パーセンテージ的に一番層が厚いところにターゲットを絞るのが常です。その層に食い込めば、一番簡単に儲けることができるからです。(…)
セックスについていえば、モテモテで異性との関係を結びやすい人よりも、モテない人のほうが数が多いに決まっています。性愛資本主義がターゲットとするのは、こうした性的弱者(モテない人々)です。
性愛資本(つまり、オナニー産業ですね)は、こうした人々に、異性との関係が築けるよう自分を改造しろというのではなく、そんなことは不可能だから、こちらの提供するDVDなり雑誌なりの映像(マンガ、アニメを含む)で妄想の処理を行え(あるいは妄想を膨らませろ)と命じるのです。そのほうが、自分たちが儲かるからです。
この性愛資本主義の命令によって、人間関係を作ることの苦手な人々は、「面倒臭い手順を踏んで、異性との関係を結ぶよりは、イメージの中のキレイな異性と想像の中でセックスするほうがいいや」ということになってしまうのです。
鹿島茂『SとM』幻冬舎新書, 2008 p27

だから、「去勢」なのだ。
男が「女々しく」なった。
女性の書き手となると、この問題についてはもっと手厳しい。

男性たちが、母親におむつを替えてもらうように、女に射精をもらいたがっているだけだとしたら、これは女たちの逆ユートピアだ。現に男たちは、受け身のセックスの味を覚えて、せっせとソープランドに通ったりしている。「男だって、されたいときもあるんですよね」とにこにこしながら、「消毒」してもらいにお風呂に行く男たち。
上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』岩波現代文庫 2009, p229


同じ書き手でストレートに「去勢」というワードが明確に出てくる著作もあった気がして調べたところ、すぐに見つけることができた。

“いいセックス”は女が決めるのです。
そうなると女の側でアイデアル・ぺニスに対する要求水準が高まってきます。ところがリアル・ぺニスはアイデアル・ぺニスに勝てないと、男たちは思い始めています。そうすると、女の子というのは、非常に禍々しい、自分を強迫する存在、「おまえは快楽というゴールを私に与えてくれるか」という強迫をつきつける存在になります。男の子たちは自分がアイデアル・ぺニスの持ち主でありえないことはよくわかっていますから、限りなく退行していく。退行しながら現実からシミュレーションの世界にどんどん移行していきます。そうなれば、フェティッシュな手続きの値打ちがどんどん上がってきて、性器よりもパンティ、あるいはゴールよりもプロセスという方向にどんどんいくでしょう。それはもう不可避だと思います。
そういうときに、たとえば女の子が動物的なセックス・アピールという観点で下着を選んでいたとしたら、それはもう完全な見込み違いでしょう。もうそれは男に対してアピーリングではありません。むしろ男の子たちは、シミュレーションの世界で空白なものに向かう。つまり女性のボディの白ヌキとしてのパンティに向かっています。これは、限りなく自分に脅威を与えないもの、自分を去勢しないものなのです。だから一種の去勢恐怖ですけれど、ロリコンも同じものに根ざしています。
上野千鶴子『スカートの下の劇場』河出文庫, 1992 p198-199

…いわゆる「性愛産業」にお世話になっている身としてはなんとも耳が痛い。

僕自身もまぁ、そういう動画を観賞することもあるし、そういうお店で「消毒」してもらうこともたまにはあるのだけれど、幸か不幸か生身の女性と仲良くする機会もあって、会う度に結構厳しいことを言われながらもそれが楽しかったりする。自分が基本的に好きで自分に自信があるから、彼女ともやっていけると楽天的に構えられるのだと思う。その自信をくれたのも、彼女なんだけど…
あるいは根本的にドMだから、強迫とか脅威に抵抗がないだけかもしれない。

精神分析の大家フロイトには、去勢コンプレックスという概念がある。「僕は(特に父親に反抗することで)去勢されるのが怖い。ぺニスを失いたくない」という男児の妄想の中に表れるものだ。母親の局部に「ついていない」のを見て、父親に去勢されてしまったと思い込み、こういう妄想にいたるというプロセス。
ギリシャ神話のオリュンポス12神以前の系譜で、息子が父親のその部分を切り取る物語がやけに多いのも、去勢コンプレックスが働いて、「やられる前にやれ」という発想になったのかもしれない。
この去勢コンプレックスのバリエーションに、「歯のあるヴァギナ」というのがあるらしい。

口唇領域のコンプレックスがヴァギナ領域に転移した場合、ある種の神経症者は、女のその部分に歯があることを空想して恐怖する。精神分析用語で、これを「歯のあるヴァギナ」と称し、不能原因の一つと認めている。口唇愛的行為の結果として起こる罪悪感が、母親のヴァギナを恐ろしいもののごとくに空想させ、それによって自分のぺニスが咬まれはしないか、という不安を惹起するのである。いわば、去勢コンプレックスの一変種だともいえよう。
澁澤龍彦『エロスの解剖』河出文庫, 1990 p100

口唇愛もフロイトの用語で、「愛するものを食べてしまいたい」という願望になる。栄養物吸収のリビドーと性的欲望のリビドーが未分化の幼児期のものとされるけれど、ちょっと古臭い口説き文句で言うくらいだから(笑われた気がするけど…)、大人とも無縁ではない。

「愛する対象を自分の中に取り込む」=「ひとつになりたい、愛する対象が「他者」であることに耐えられない」

これは大人になりきれない子供、得体の知れない他者としての生身の女性を拒絶する男性という意味では、これまで取り上げられた「去勢された」男と重なりあうのではないか。

ちなみに僕は口唇愛と聞くと、『千と千尋の神隠し(2001)』のカオナシをなんとなく思い出す。今度見直してみよう。

さて、女性に対し「愛してる=食べてしまいたい」という願望を無意識のうちに抱いた男性は、そういう願望を持ったことに対してやはり無意識のうちに罪悪感を覚える。そして自罰願望を持ち、「歯があるヴァギナ」という空想を抱くことになるのだ。

僕は一人っ子で両親が共働き、従兄弟もいなかった。他者(「他人」ではない)を他者として捉えて付き合うことに、あまり抵抗が無かったのかもしれない。今までの恋人たちは心の底から愛していたけど、それでもどこまでも「他者」だった気がする。それで多分、口唇愛の段階に固着する割合が少ないのだろう。だから去勢コンプレックスにも悩まされず、「歯があるヴァギナ」を幻視することもなかった。
まぁ初めて女性と「そういう」ことをした時、自分の一部分が他者の一部分に入って隠れてしまうのはなんとも不思議な感覚で、その部分の圧がすごく強いと「このまますっぽ抜けるんじゃないか?」と思ったものだけれど、それもすぐ馴れて、いつの間にかしっかり「抜かれて」しまった…
やっぱり、ドMなのかもしれない。

このSとMの問題について、文化論の面から切り込んだ面白い本がある。

Mというのは、いつの時代でも、失われた絶対者へのノスタルジーであると定義することができます。
鹿島茂『SとM』p30

なかなか穿った見方だ。
例えば日本なら、戦前には現人神とされた天皇という絶対者が失墜し、さらには家父長制の中の家長としての父親も絶対者ではないという状況がある。

ところが、そうした絶対者が姿を消し、人々の心にも空隙が生じるようになると、その空隙を満たすために、幻想の中で、かつてあった被支配や屈従を再創造しようとする動きが出てくるのです。
いいかえると、人々の幻想の中に、絶対者の支配していた時代の安定感、充足感へのノスタルジーが生まれるのです。
Mが発生するのは、こうした状況においてです。国家や家庭における絶対的権威が消滅してしまうと、絶対的な被支配や屈従のさいにひそかに感じていた「奴隷状態の恍惚」が感じられなくなり、懐かしいこの快感をどこかで補おうとして、Mが誕生するのです。
叱られるべきときに、きっちりと叱ってくれる絶対者が存在しないなら、その叱ってくれる絶対者を、幻想の中で育まなければならない、ということになるのです。
上携書 p31-32

なるほど、そうすると僕はMになるのかもしれない。
しかし、それも捨てたものではない。文明化された証なのかもしれないのだから。

文明化すれば、たいてい、「自我パイの一人食い」はまずいということに気づいて、想像力で相手の立場も取り入れるように努めるから、「ポーションの一部を共同体に委ねる」という態度が生まれて、必然的にM化していくわけです。
前携書 p139

「自我パイ」「ポーション」など、この前の部分(p105-116)の論で出てきた言葉がそのまま使用されていて分かりにくいが、要は一人で全部所有、支配、管理するのではなく、共同体に一部を委ねようとするから、M的になる、ということだ。その共同体は絶対者とまではいかなくとも、フロイトでいうところの「超自我」というか、みんなが従うべきひとつの機構ではあって、それからの被支配が、M的であるのだ。

こうも論じている。

民主主義時代の政治家は、男性なら「女の子とままごとを楽しむ少年」が向いているのかもしれません。私は、こうした男性を「おままごとボーイ」と呼んでいますが、彼らは、近代の戦争をひきおこした人々とはちがい、攻撃的ではありません。受動的なのです。なぜ受動的なのかというと、大雑把にいえば「母親との関係に充足している」ということです。つまり、「おままごとボーイ」というのは、たいていマザコンであるのですが、マザコンであるということは、自我パイのかなりのポーションをママに委ねていることを意味します。そして、その手の男性は自分のポーションを他者に委ねることになれていますから、自我パイの一人食いタイプとは違って、協調的なのです。
上携書 p115

…となると、僕は「おままごとボーイ」だったのかもしれない。
もちろんそれなりに自立心はあって、5歳くらいに母親と昼寝をするより近所の女の子と遊ぶほうがいいと言って5時までの約束で抜け出したり(おままごとばかりじゃなかったけど、多かったかもしれない)、もう少し大きくなると「男らしい」ことをしたくて少年野球を始めた。反抗期だってそれなりにはあったと思う。親にろくに相談しないで市民劇団に飛び込んだり、留学したりもしていたし。
ただその一方で、園芸を始めてからは元々やっていた母親と一緒に作業をしたり、ホームセンターに買い物に行ったりしている。自我のある程度の部分は、委ねているかもしれない。
というか、そういう店に行く時は全身まとめて「消毒」してもらうわけだから、自我どころか身体全体をまるごと他者に委ねてしまっているわけで…

そしてもちろん、『どうする家康』の「神の君」も、芯の部分では立派な「おままごとボーイ」だ。
(家康ファンや潤ファンに聞かれたら怒られそうだけれど…)

武家の棟梁という立場上、「絶対者」として振る舞うことが多い(特に後半)けれど、本当の家康は、第1回で描かれた浜松での少年、青年時代のように、好きな女の子とおままごとをしたり、興味の向くまま読書をしたり、家臣と家族のように付き合う日々を過ごしたかったのだろう。そういう優しい気性だから、「パイの一人食い」はせず、ポーションを他者に委ねることが出来た。家臣や同盟者にいろいろなことを任せ、落ち度があっても許すことが出来た。
もちろん「民主主義」ではないけれど、瀬名の「慈愛の国」構想を絵空事と断ずることなく支持したし、小牧長久手の戦い後の豊臣方との和睦についての評定で、「戦無き世が成せるのなら家康ではなく秀吉が成してもいい」という於愛の進言も、結局は受け入れることができた。
関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣はどうしようもなく、「戦国の世の最後の亡霊」として始末をつけるしかなかったけれど…

最終回、死ぬ間際に家康は孫の竹千代(のちの徳川家光)から絵を渡される。家康を描いたというその絵は、神君と祭り上げられた立派な姿ではなく、か弱く愛らしい1羽の白兎だった。

いつの間にか卯の年は過ぎ、辰の年に入った。
龍のように荒れ狂う時代の激流に呑まれながら、兎は飛び上がることができるのだろうか。
時に恐ろしい他者を排除せず協調し、パイを分け合いながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?