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わたしを悲しむだれかの記

 車の免許をとって一年経った。時間が過ぎるのなんてあっという間だ。合宿免許に通ったあの頃が、ついこの間のようだ。
「ねぇ、ちょっと大丈夫」
 助手席にすわり、わたしは菜原くんの顔をのぞきこむ。
「あれから一年も運転してないのに、こんなレンタカーなんて借りちゃって」
「あれ、茉ぁちゃん、俺のこと信用してないなぁ。こう見えて俺、運動神経、良いほうなんだけど」
 思いのほか慣れた手つきでエンジンをかけ、レンタカー会社の駐車場から車を発進させる。
 車はオレンジ色のスターレットで、色合いが派手なのには閉口したが、コンパクトカーなのに内部は意外に広く、シートも大きく、座りやすい。云うだけあって、彼の運転はなかなかスムーズだった。細い道からの合流も、車線変更も、滞りがない。さらに運転しながらエアコンの調節をしたり、オーディオのチューニングをあわせたりして、そのなんとなく余裕な感じがちょっとしゃくにさわる。
「運転しながらいろいろいじるの、危ないからやめて」
 わざとそんな可愛くないことを云ったりする。こういうところが多分、わたしのだめなところだ。
「はーい、じゃあもうさわらない。運転に集中しまーす」と彼、菜原くんはにっこり。裏のない、正直なかんじ。この子のほうがよっぽど素直で、まっすぐだ。男と女、逆だったらわたしたちは良かったのに。わたしは彼から視線をそらし、窓の外をながめるふりをする。成城通りに入り、公園を右に見て、北上する。
 一年前、大学三年の夏に、わたしたちは山梨県で合宿免許に参加していた。そこは菜原くんの親戚が経営しているとのことで多少のわがままが利き、彼の実家で同棲みたいな生活をしながら、教習に通った。実家とはいえ、彼の家族はみんな東京に引っ越しているから、現在は別荘のような扱いで、普段はほぼ無人だった。なのでその古民家にはわたしと菜原くんとふたりだけで生活していたわけだ。親には適当な言い訳をしてごまかしたけれど、仲良しとは云え、一か月もよその男子と寝食をともにするとは、さすがのわたしも云いだしづらい。無理を通すため、正面切ってあの母親と争いになるのも体力と精神のむだづかいだ。結果、今にいたるまで、あの一か月のことは秘中の秘となっている。
 ドライブに行こうと云いだしたのは菜原くんだ。免許とってから全然乗ってないし、たまには運転しないとね、と彼は云った。それと、「茉ぁちゃん乗せて、車ででかけるって約束したし」
「ああ、あれって約束って云うか・・・、まぁ、話の流れでしょ。でも菜原くん、そんなことよく覚えてるね」
「当たり前じゃん、おれ、茉ぁちゃんの云うことは忘れないんだよ。なんでも覚えているように作られてるんだよ」
 心外そうに眼をまん丸にして云う。グーにした拳をわたしの肩のあたりに軽くぶつけてくる。
 わたしは息がぐぅっと詰まって、なにも云えない。彼はいつでも、臆面もなくそんなことを云いだすから、きらいだ。動揺を顔にださないようにするので必死になる。
 彼とは別の大学に通う同士だったが、とある書店の棚卸のバイトで、ふたり一組のチームに振り分けられることになった。初対面のわたしとも遠慮なくしゃべり、物怖じのしない、なんかかわったひとだな、と云う印象があった。その短期バイト後、いったん別れたものの、数か月後に偶然新宿で再会し、それからなんとなくおつきあいがはじまった。少しずつ互いのことがわかっていくうち、わたしは彼のたぐいまれな才能に気づかされることになる。それは国語や文学に関する圧倒的な知識量だった。ふだんの、わたしに対する軽い調子での接し方とはうってかわって、その膨大な情報量と記憶力は、普通の学生の域をはるかに超え、それまで自負していたわたしの国語力のレベルとはケタ違いで、完膚なきまでに打ちのめされた。むろん、彼としてはそんな気はなかったはずだ。ただ単にわたしの自尊心に対し、それ以上わたしが期待できなくなっただけの話だ。それでわたしは文学における専門分野の研究はあきらめてしまった。あまりにおおきく、追いつけない存在に対して、ひとは語る言葉をもたない。例えば、ちっぽけな蟻は人間の生活になにか批評めいたことを云ったりしないだろう。そもそも人間の思考について理解すらできてはいないだろう。そしてわたしは彼に対し複雑な感情を抱いたまま、自分のなかの落としどころを探し、結果、院に行くことはやめてしまった。彼の才能は彼のせいではない。わたしの才能もわたしのせいではない。だれも多分、悪くないのだ。
「茉ぁちゃんも運転してみる」と菜原くんが前を向いたまま云う。「教習所のマニュアルとは違う、オートマだから簡単だよ。アクセル踏むだけで前に進む」
「え、あたし?いや、えーとあたしは、今日はいいかなぁ。菜原くんの担当を奪っちゃなんだし」と外を眺めていた目を菜原くんに戻し、しどろもどろになって云う。免許取得に苦労したわけではないけれど、こころの準備って大事だ。はいそうですか、と颯爽と運転席に乗り込み、片手ハンドルで都内をクルージングするなんて図は想像つかない。
「そんなことより、自分の運転に集中して。上祖師谷で左に曲がるんだよ。まちがえないで」
「はいはい」
 見透かしたのような彼のにやにや笑いにちょっと腹が立つ。わたしは手の平で、彼のひざあたりを腹立ちまぎれに強くたたく。
 季節は秋になった。あんなに暑かった夏は今や遠ざかり、すっかり過ごしやすくなった。街の色も少しずつ彩りをなくし、落ち着いた色合いにうつろった。街路樹の葉が色素をなくし、薄い黄色になりつつある。わたしたちは秋の空気をかいくぐるようにして走った。上祖師谷の分岐で左に、そしてそのまま甲州街道に合流する。日曜日の午前中に、道はおもった以上に空いていた。道の流れはスムースだ。オレンジ色の車は順調に西に向かって速度をあげた。
 わたしは教官の真似をして、「菜原くん、おほん、スピードの出し過ぎはいかんよ」
「はーい、教官」
「停車中の車を追い抜くときは、ミラー、目視、ウインカーの順番じゃよ」
「はい、教官」
「こほん、菜原くんは素直でよろしい」
「はーい、茉ぁちゃん教官」と彼は、くすくす。
「そういえば、云わなかったけど、あの合宿免許のとき、妙にあたしに触ってくる教官いたな」
「はぁ?まじで」
「ギアチェンジの時、あたしの左手の上から自分の手を添えてきてさ、こういうかんじに動かすんだ、みたいにしてくるの。白手袋はしてたけど、なんかこのひと、気持ち悪っておもったよ」
「茉ぁちゃん、そんなのもっとはやく云ってよ。そしたらおれがとっちめてやったのに。ぐうの音もでないようにこてんぱんにしてやったのに」
 少しハンドリングが荒くなった。
「でも実際、痴漢行為かどうかわからないじゃん。本当にあたしのギアチェンジの仕方が悪かったのかも知れないし。素人相手だから、しっぽつかまれないように、巧妙にしてたかもだしね。うかつに告発したら、こっちの立場が悪くなったりして」
「そんなことないでしょ。ぜんぶ受け手側の問題だよ。茉ぁちゃんがそうおもったら、もうそうなんだよ。おれ、ちょっとこのまま山梨まで突っ走る」
「ちょっとムキになんないでよ、やめて。女子にはそんなの、よくあることなんだよ。どっちかって云うと、ないほうが珍しい」
「なんかモヤモヤするなぁ」
「まあまあ、菜原くんはちゃんと前見てハンドルをにぎればよろしい。ほら、こうして」
 わたしは右手を差し出して、彼のハンドルをにぎる手の上から自分の手をそっとかさねる。少しなでるようにして、
「ほら、リラックス、リラックス」
「茉ぁちゃん教官、痴漢行為はやめてくださぁい」
 わたしたちは声をだして笑いあう。
 甲州街道をひたすら真っすぐに走り続け、途中八王子付近から16号に入る。そのまま北上すると、横田基地のある福生に出る。今日のわたしたちの目的地だ。福生に何があるのか、知らない。福生がどんな町なのか、考えたこともない。でもだから、と菜原くんは云った。
「でもだから、行ってみようよ。何があるか分からないから、それ見に行こう。ぜんぶ分かってる場所行ったって、面白くないでしょ」
「・・・キミ、そういうところあるよね。ヘンに行動的なんだよなぁ。あたしなんか、行った先になにもなかったら行った損じゃんって思っちゃう。それに、なんでよりによって福生なの」
「福生ってさ、横田基地の面積が市全体の三分の一も占めてるんだって。それを抜かすと、市の面積はぐっと小さくなって、日本の市の中でもトップクラスの狭さなんだって。そういうの、なんか興味惹かれない。日本の中の非日常みたいでさ」
 軍隊は嫌だなぁ、とわたしは漠然とおもう。兵器とか武器とか殺傷装置には本能的な嫌悪がある。こういうところに男女差ってでるものなのだろうか。
「あたし、軍事基地ってちょっと苦手。平和主義者だから」
「俺だって戦争反対だよ。でもなんていうの、こう単純な事実として、普通の街の中によその国の基地が三分の一も存在してて、それが奇妙だなぁっておもう。歴史的にそうならざるを得なかった不可思議さっていうかね。それとあとは・・・」
「ん、あとは?」
「ひとの顔くらいあるハンバーガーを出す店があるんだって。でかすぎて持って食べられないから、ナイフとフォークが出てくるの。コーラとポテトとアイスクリームと、メニューはみんなアメリカンサイズ。そういうの、どう?行ってみない」
 わたしは想像する。そして唾液が湧いてきて、ちいさくお腹が鳴った気がする。
「えー、もうしょうがないなぁ。じゃあ・・・行ってみる?」とわたしは小声で云った。
 福生の手前、昭島でコンビニエンス・ストアに寄る。一時間ちょっとは走っただろうか。お手洗いに行き、簡単なガムを買い、車に寄っかかりながら辺りの街の様子をながめた。菜原くんはまだ店内から出てこない。
 ここでジャン・ポール・ベルモントならタバコをくわえ、親指でくちびるをなぞるところだが、わたしはタバコは吸わないので、ミントのガムを噛んで遠い目をする。
ロードムービー、とわたしは最近覚えた言葉を思い浮かべる。旅しながら様々なできごとを体験してゆく登場人物たちのものがたり。最近、幾つかそんな映画を選んで見に行った。銀座とか池袋とか新宿とかに。それらの結末は、みんななんとなくアンハッピーエンドだった。追ったり、追われたり、行く当てなくさまよったり、しかしラストシーンはきっと登場人物のだれかが死んでおしまいになる。旅を終わらせるには、そんな不幸が必要なのだろうか。不幸がなければ旅は終わらないのだろうか。たどり着くべき場所に安全にたどりつき、そしてその後、みんな幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、というふうにはいかないのだろうか。
 オレンジ色の車はわたしたちを運んでゆく。とてもあの映画の中のようなドラマチックさはない。いたって普通なちんまりとした道中だ。銀行強盗もしない。保安官との銃撃戦もない。サーカスの真似事をしてお金を稼いだりもしない。秋の甲州街道を西へと走る、どこにでもあるような味気ない、平凡な日曜日だ。
 駐車場から見る景色は知らない街だ。もしかするともう二度と訪れない場所かも知れない。街路樹と住宅と幾つかのお店と、どこにでもある景色だ。しかしここは、やはりちがう。わたしの場所はここにはない。わたしが含まれない場所はこの世の中に多すぎて、それがわたしをちょっと傷つける。わたしはたまたまの存在。偶然ここにいるだけの、切り取られた空気の中にいる人間だ。
 舗道を家族連れがゆく。車道をはさんだ反対側には赤ちゃんを抱っこした若いお母さんがいる。自転車で並進する友だち同士、なにか買い物袋を下げたお婆さんがうつむきながら歩いている。車の流れがあり、ひとのくらしがある。いまこの瞬間までわたしは知らなかったのに、しかしここでの営みは存在している。わたしがいようがいまいが関係なく、街のくらしはこれから先も続いてゆくだろう。
 わたしはぐっと胸が詰まって、自分のさみしさに押しつぶされそうになる。ロードムービー。わたしは通り過ぎるだけのひと。誰も知らないわたしがこうして誰かをかなしむように、誰か知らないわたしを誰かがかなしんでくれるだろうか。
 いや、こんなことって傲慢だ。図々しい。わたしの噛むガムの味が、より一層うすくなる。
 菜原くんが店から出てくる。ずい分時間がかかった。
「なにキミ、おなかでも痛いの」
「おかしいなぁ、変なもの食ったかな」
 青と白のデザインのスポーツドリンク缶を片手に、もう片方は自分のおなかにあてられた。菜原くんがスポーツドリンクを一口飲む。わたしは横取りするようにその缶をひったくり、自分でも一口飲む。ちょっとすっぱい、甘い味。最近はこういう吸収の良いドリンクが缶が出て、ちょっと前みたいに粉末を自分で溶かさなくても飲めるようになった。
 飲んでから無言で彼に缶を返す。
「早いとこ肉、食べなきゃ」と彼は云った。「いっぱい肉食べて、このゆるくなったやつ、硬くしないと」
「やーめーて。ヘンなこと云わないでよ。食べてる途中で思いだしちゃうでしょ、もう」
 彼の背中を遠慮なく、ひっぱたく。冗談なのか本気なのか良く分からない。突然こういうデリカシーのないことを云いだすから、油断ならない。他のひと相手には、まじめぶった優等生みたいな顔しているくせに、わたしには下品な話題を普通な顔して云ってくる。きっとわたしは軽く見られているんだとおもう。
 彼の脇腹をねらい人差し指でつつく。間一髪で彼はわたしの攻撃をさける。
「おっとあぶねぇ。茉ぁちゃん、余計なところにちから入れると、あらぬところからなんか出ちゃうよ。ゴホンとせきをしても、ぴゃっとなりかねないんだから」
「もうキミは一生ここのお手洗いにいて。わたしだけ運転して福生まで行くから。ご自由になんでも好きに出して、暮らしてね」
 そう云った次の瞬間、はっとなった。
 だれかにふいに呼ばれたような気がして、くるっとそちらを振り向く。
 女の子と目が合った。
 舗道の途中で足を止め、駐車場にいるわたしをじっと見つめている。にやり、となんとなく嫌な笑顔をする。その笑い方がわたしのこころを逆なでした。ざらりとして、鉄でもなめたような感じだ。
 女の子は中学生くらいだった。髪は天然の癖っ毛で、量が多い。うまく梳かれていず、無造作に伸ばされているので、全体的にもこもことした塊のように見える。毛先が左右に自由自在にはね、とりとめがない。ゴムで結ばずにいるせいで、垂らした髪はだらしなく見え、あまり清潔感がない。
 わたしと菜原くんは車に乗り込む。福生まではあと少しだ。オレンジ色の車はまた走り出す。
 わたしはさっきの女の子をさがそうと振り向くけれど、もう姿は見えない。
 セーラー服の白いリボン。ソックスが三つ折りされてかかとあたりで止まっていた。胸のリボンどめに刺しゅうされた校章は、あれはわたしの通った中学校のものだ。
 実は、わたしは彼女を知っていた。初めて見る子ではない。彼女はわたしの昔の同級生だった。そして今日、少なくとも三回はわたしの前にその姿をあらわしていた。
「ねぇ、菜原くん。きみってひとを呪ったりしたことってある」助手席でまっすぐ前を見ながら、わたしは云った。
 突然、突拍子もないことを云いだす。自分のことなのに自分に呆れてしまう。彼はちょっとの間、黙った。わたしの声が聞こえなかったのか、或いはわたしの発言の真意を探ろうとしていたのかもしれない。
「あたしは、ある。少なくとも一回は、誰かひとりを対象にして、たぶんあれは呪ったんだとおもう」
 道が途中から片側四車線になり、前方の景色がぱっと大きくひろがった。車の流れが速くなり、わたしたちの車も速度を少しあげた。
「呪ったと云っても意味なくしてやったわけじゃない。あたしだってそんなこと、したくてやったわけじゃない。だってほら、あたしって平和主義者だから」
 冗談を云ったつもりで菜原くんのほうを振り向き、彼の反応を見る。わたしの視線に気づいてか、彼は一瞬こちらを見て口元だけでほほ笑んだ。じっと沈黙して、無口だ。わたしは構わず、
「それでも呪ったのは、それは仕方ないことだった。そうなるべくしてなったんだと今でもおもう。でも、誰も悪くなかった、とは云わない。仕方のないことだったとしても、誰かのせいにはきっとなる。それは、呪ったあたしのせい。あたしが悪い。そして、呪われたあの子のせいでもある。悪いのは、あの子も悪かった。誰かだけが悪いんじゃない。関わった、あたしたちみんなのせいだったんだ。あたしたちのそれぞれひとりひとりが、みんな揃って悪かったんだよ」
 わたしは思いだす。あれは中学二年生の春だった。
 ある時からわたしはクラスの女子たちから無視をされ、同時に遠巻きに距離を置かれていることにふいに気がついた。今もそうだが、当時はさらにぼんやりした子供だったから、それはもっと前から始まっていたことだったのかもしれない。
 元々が友だちは少ない方だった。同じクラスとは云え、用事がなければ他の女子とは滅多に話すことはなかった。やむなく会話しなければいけないときは、最低限のことばで済ませた。愛想よくしたり、関係を円満に築こうなんて、露とも思い浮かばなかった。なにも無理するわけではないのに、わたしは基本ひとりで過ごすことに寂しさや孤独をかんじることなく、逆に気楽なおもいだった。しかし、今にしておもえば、それは女子の輪を乱す行為に他ならなかった。
 中学二年生ともなれば、女子特有の派閥づくりは厳然としてあらわれる。さらにそこにうまく組み込まれるため、ほとんどの女子は誰かの顔色をうかがうようになる。誰かの、と云うのは自分よりちからを持った女子のことだ。クラスを仕切り、注目をあび、ひとを支配したがるようなそんな女子のことだ。クラスにはきまって一人や二人はそういうちからを持った人間がいて、良くも悪くもひとを巻き込み、人間の上下関係を明確にしようとする。自分でつくったルールを普遍にし、そこからはみだすものを許さない。独裁政治だ。一党独裁の恐怖政治だ。そのちから関係に飲み込まれていれば問題ないが、そこに入らないものは弾圧の標的になる。それがみんな怖いのだ。ひとと違うことに普通の人間は耐えられない。みんなと同じなら打たれることもない。少しの我慢でおおきな安心だ。だからみんな誰かの大きな傘の下にいて、嫌々ながらも事なきを得る。
 出る杭は打つ。規格外は叩き潰す。犠牲はみせしめだ。しおれていく花を見て、まだ安全に咲いている自分に安堵する。ああはなりたくないよね。あれがわたしだったら耐えられない。そしてまた王様に朝貢して、生きていく免罪符を手に入れる。 
 女の子たちのそんな苦労を知らなかったのは、わたしばかりだ。自分のいる教室にそんな見えないパワーバランスが存在しているとはおもわなかった。ひとりで自由に生きて、好きな時に好きな行動をして、あまりまわりに気を遣わないわたしのような存在は、王様にとっては脅威だ。目の上のたんこぶだ。いつまでものさばらせていては、しめしがつかない。自分の統治能力に疑いがでる。そうでなくてもただ単純に気に食わない。悪い芽は早めに摘み取るに限る。それでいよいよ実際的な行動に出た。
「まぁ、いわゆるいじめ、だよね」とわたしはひとりごとのように云った。「いじめの王道みたいなこと、一通りはやられた。靴とか持ちものを隠されたり、机にいたずらがきされたり、聞こえみよがしにうわさ話されたり。それをやるのはトップの女子とその取り巻き。あとの子たちは見て見ぬふり。近寄ってもこなくなった。味方はいない。仲間もつくれない。次の標的にされるのが嫌だから、誰もあたしをかばったり出来ない。八方ふさがりだよね。どこを向いても救いはない。ただ主犯格っていつも狡猾だから、絶体絶命ってところにまでは追い詰めない。生かさず殺さずが、あの子たちの信条。日によっていじめの度合いを弱めたり強めたり、急に優しくしてきたりして、こちらを油断させるんだよ。そんな甘い飴をあげて、ほろりとさせて、支配しようとする。こういうのって、たちの悪い洗脳だよ。感情を操り、自分の存在で相手のこころを一杯にさせ、こちらを陥落させる。それで一丁あがり。叩いて、ならして、ペンキを塗って、もう元には戻させない。簡単でしょ」
 しかし、わたしには自信があった。あの子たちにはない自我と知識と見識があるとおもっていた。逆にそれがいじめの原因になっていたのだけれど、それでも最終的にわたしがわたしに頼れるものはその一点に集約された。わたしは他の子たちとは、主犯格のグループはもとより、彼女たちに取り入るその他大勢の子たちとは違うとおもい、それを盲信した。そしてわたしを理不尽に追い詰めようとする相手を呪った。教室を身勝手に牛耳るそのグループの中心人物を。その相手が、彼女だった。今になってもまだわたしの前に現れるセーラー服姿の女の子を、わたしは一心に呪ったのだ。
 
 車はやがて福生に入った。右手に重々しい壁が延々と連なり、この向こう側がアメリカの基地なのだと菜原くんは云った。
「ここ治外法権だからね。ここでうかつにアメリカさんの悪口云うと、兵隊さんがやってくるんだって。車から降ろされ、基地の中に連行させられて、地下室で無理やりアメリカンビーフ食べさせられるんだって。口開けさせられて、レアの肉汁滴るやつを、投入されたりするらしいよ」
「なにそれ。それだと君には願ったりかなったりじゃん。じゃあ、安保・反対、米国・撤退」
「ちょっとヤバいって。それ以上云うとお腹いっぱい食べさせられるちゃうよ。ロブスターとかフライドチキンとか、無尽蔵に出てくるから」
 菜原くんのお目当ての店は、いかにもアメリカの様式が看板にあらわれていて、色鮮やかなネオン管と巨大なハンバーガーとフライドポテトが目印だった。内装は50年代式と云うのだろうか、くすんだパステル調の色合いに統一され、ジュークボックスがあり、大きめの鏡があり、グラマラスでゴージャスな美女のポスターがいい感じの古さを出して飾られていた。家具も椅子も、今となっては懐かしい未来をアピールしたデザインになっている。子供の頃テレビで見た、ビィ・ウィッチドを思い出す。
 菜原くんはシュリンプとスモークチーズのダブルハンバーガー、わたしはアボカドとサーモンのレギュラーサイズのハンバーガー、それぞれのお皿にはこれでもかとばかりのマッシュポテトとサラダ、巨大なオニオンフライが別皿で添えられた。ジンジャーエールとドクターペッパーで乾杯した。口ひげを生やしたテンガロン・ハットのおじさんが料理を持ってきた。と、これは普通の日本人なので、ふたりして目配せをしながら少し笑った。
「ちぇっ、あっちのポニーテールのお姉さんだったら良かったのになぁ。水玉模様のワンピース着た」
「邪念だね、世の中そうは、うまくいかない」
 わたしは冷たくあしらい、初めて見るようなサイズのバーガーにナイフを入れる。
 バンズの上にはアメリカ国旗のつまようじが刺さっている。オールディーズの曲が店内に流れた。ジンジャーエールを一口飲む。窓際の席から外を見る。灰色の壁の、あの向こうは軍事基地だ。日本の国内にある外国。普通の生活の内にある非日常。セーラー服の女の子がこちらを見ている。

 いじめの主犯格、Kさんは中学三年生になるまえに長期療養に入った。現代の医療では有効な治療方法のない、国の難病にも指定されている筋肉の病気だ。他の子たちはどうか知らないが、わたしは彼女を見ていて少し変だな、とおもっていた。体育の時間になんでもないところで躓いたり、簡単なボールが取れなかったりし始めた。国語や英語の朗読時、その滑舌が日を追うにつれ少しずつ怪しくなっていった。わたしも最初は気のせいだとおもった。そういう日もたまにはあるだろう。調子の悪い時は誰にでもある。しかし徐々にその変化は明らかなものになっていった。確実に三か月前、二か月前とは異なった。体育も休みがちになった。冬休み前には、週に三日は休むようになった。年が明け、三学期に入ると、彼女はもう学校に来なくなった。と云うより、来れなくなったと云うほうが正しいのだろう。担任教師は、しばらくKさんはお休みします、と告げた。また元気になったら、みんな仲良くしてあげるように。
 だが、そんなときは二度とやってこなかった。
「汐崎さん(これはわたしの苗字だ)、あんたの呪いのせいだね。あんたが呪ったから、Kさん、こんなことになっちゃって」と、Kさんの取り巻きだった女子のひとりがわたしに云う。「呪いがうまくかかって、どんな気持ち。ざまぁみろって感じ。でもあたしたち、あんたのこと許さないから」  
 リーダーがいなくなってもまだそんなことを云っている。
 Kさんも入院するずいぶん前から、わたしのことはもうどうでもいいように、それまでの粘着が嘘のようになんの接触ももたないようになっていた。実際、わたしを構うどころではなかったのだろう。ちっぽけなことだ。なんのメリットもない。それに気づいた時、彼女はもう病に侵されていた。
 しかしKさんを呪ったのは間違いない。心ならずも、わたしはそこまで追い込まれていたのだ。
「あたし、あなたが不幸になるといいとおもう」いじめが頂点のころ、わたしはKさんに向かって云った。「なんであなたがあたしにこんなことしてくるのか、さっぱり分からない。これからも理由なく今までみたいなことしてくるなら、あなたなんかどんな目にでもあえばいいとおもう。いつか、絶対あなたにはその代償がくる。もうそれは避けようがない。あたしには分かる。あなたは今のようなままでは、けしていられない」
 よどみのないわたしの台詞に、明らかにKさんは気圧されていた。わたし自身、自分が話したようではなかった。自動で言葉はわたしのなかから紡がれ、脳からと云うより、胸の奥の方から湧き出て、勝手に口から外に放り出された。自分でも自分の言葉の意味がよく分かっていないほどだった。けれど、これは呪いの言葉だ。あるいは彼女の未来をわたしが予言してしまったようでもあった。わたしは彼女を憎むあまり、呪い、恨み、不幸を願った。そうしなければ、わたしは押しつぶされてしまっただろう。それ以外に自分が生き延びるみちはなかった。彼女の身になにか不運がくるといい。それが罰だ。わたしを理不尽に追い込んで、なにもなかったようなわけにはいかない。それには相応のことが起きなければいけない。いや、そうなるべきなのだ。
「あなたは絶対、不幸になる」とわたしは面と向かって云い切った。
 Kさんは三学期中をお休みし、もう姿を見せず、取り巻きのひとりはわたしにあのように云い、息まいていたものの、それまでのような言動をみせることはなかった。なんとなれば、わたしと目を合わせることすら避けていたようだった。なにかが変ったのだ。もう取り戻せないほどに、それまでのようにはいかなくなったのだ。
 わたしはため息をおおきくつく。あの取り巻きの女子は、自分で自分に呪いをかけてしまったのだとおもう。わたしがKさんの病気を召喚したのだと信じれば信じるほどに、彼女はわたしを恐れざるを得ない。次の呪いの対象は自分だと、ありもしない恐怖で自縄自縛してしまったのだとおもう。それは彼女以外の仲間にも伝染したのだろう、その後、わたしが教室でいじめ行為にあうようなことはなくなった。他の女子たちは少しずつではあるが、わたしに話しかけるようになった。わたしは色々なことの整理のつかないまま、似てはいるが、けれど前とは微妙に異なった日常の中で過ごすことになった。

 あれから八年たった。中二だったわたしも今では大学四年だ。あの頃のことはあえて思いださないように努めてきた。それが功を奏し、今では本当にあった現実だったのかどうかも怪しくなる。少しの教訓も残らない出来事だった。わたしにプラスになって与えられたものが、何かあるともおもえない。事故にあったようなものだ。そこに必然はない。ただそんな出来事が起こったと、それだけのことだ。
 菜原くんとお皿を取り換えっこして、違う味のハンバーガーを口に運ぶ。マッシュポテトにオニオン・フライに、とても全部は食べきれない。わたしの胃腸は、どうやらアメリカ向けではないようだ。
 もう一度外に目をやる。もうKさんの姿は消えている。今朝から謎に、あの頃の姿のまま、ところどころで姿を見せていた。上祖師谷の交差点、甲州街道沿いの横断歩道、日野橋のたもと、昭島のコンビニ脇、そして福生と、こんなところまでついてきた。わたしは彼女と目があうたび、あ、またいる、と少しあきれた。もう彼女にわたしは必要ないはずだ。自分の思い通りに行かない女子のことなどきっぱり忘れて、好きなところに行けばいい。もちろんわたしだって、彼女なんて必要ない。出会ったのが、事故だとも云えるわれわれだ。忘れてしまえばいい。なかったことにして、全然かまわない。今日はわたしのささやかなロードムービーの日だ。ちっぽけな旅。となりにはちょっとお調子者の男の子がいる。そこに昔の記憶なんて入る余地はない。ましてやKさん、あなたなんて。
 店の人は親切で、食べきれなかった分のお皿は、透明のトレイに詰めなおして持たせてくれた。今回はポニーテールをバンダナで巻いた金髪のお姉さん(しかしやっぱり日本人だ)がテーブルに来て、さらにマッシュポテトを大ぶりのスプーン山盛りにおまけで入れてくれた。なんのつもりかわたしにウィンクしてほほ笑んだ。わたしもつられてお姉さんに向け、同じ仕草をし返した。誰かにウィンクするなんて、こんなこと生まれて初めてだ。ひとりでこっそり赤面した。
 帰りみち、車での道中はよくおぼえていない。
 お昼ごはんの後、福生の町をぶらぶら歩いて巡り、途中ドラッグストアのフードコーナーで生クリームがたっぷり乗ったソーダ水を飲んだりして、夕方になる前に帰途についた。
 お腹にはまだお昼のハンバーガーとサイドメニューが残っているようで、胃が重たい。車に乗り込むとたちまち睡魔が来て、菜原くんとの会話もままならなくなり、やがてうつらうつらとして、目が閉じた。車の振動で時折目が覚めると、府中だったり、烏山だったりした。ぼんやりした意識に、暮れてゆく国道沿いの街並みが瞳にながれた。どこにでもあるひとの暮らしと、喜怒哀楽とをおもった。わたしだって日常に取り込まれているひとりなのに、街をゆくひとの、それぞれの生活を不思議におもった。こんなにひとはあふれ、そのひとりひとりに与えられた場所と人生の出来事があるなんて、気が遠くなりそうだ。どうしようもなく、手からこぼれ落ちるものが多すぎて、わたしはせつなくなる。わたしには背負いきれないものがありすぎる。仕方ないのに、なす術もないのに、胸が締めつけられる。商店街、花屋、おもちゃ屋、電気屋にお菓子屋さん、暗がりには狐を祀った小さいお宮。しあわせがある。ふしあわせがある。わたしのまだ知らないなにかがある。わたしはすべてをこころのフィルターで濾して走ってゆく。菜原くんの踏み込むアクセルで、わたしたちは先へと進む。
 わたしはスピードに溶かされて、またゆっくり目を閉じて眠った。


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