「愛してる」を知りたくて〜“知らない”からこそ“わかる”こと〜
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『「愛してる」を知りたいのです』そう彼女は言った。
彼女はコトバを知らない。
幼少の頃から軍にて「人を殺める技術」だけを習得してきた彼女は、人を殺めるために必要な“言葉”を知っていたとしても“コトバ”は知りえなかった。
彼女は意志を、ココロを持たない。
「人」ではなく「武器」である彼女に、彼女自身の意志は不要だった。彼女は人に命令を、「生きる意味」を与えられなければ、生きることはできなかった。
そんな彼女が自らの意志を始めて他者に示したのは終戦後、自動手記人形という職業に出会った時であった。コトバを知らない、ココロを知らない彼女が「人のココロの内を手紙を通してコトバにする」、そんな仕事に就きたいのだと意志を示したのであった。
どれだけ言葉を習得する力が高かろうが、どれだけ言葉を文字にするタイピング能力に長けていようが、コトバを、ココロを知らなければそんな職業に彼女は就けるはずがない。普通だったらそう考えるかもしれない。
けど、“知らない”からこそ“わかる”ことができる、そんなことがあると私は思うのです。
彼女は「愛してる」を知らない。だからこそ、それを知りたいと思った。だが、彼女が知らないコトバはそれだけではなかった。
彼女は「普通」という感覚を知らない、彼女は「当たり前」という名の常識を知らない、彼女は「本心」という建前の裏にある本音を知りえない。様々な誰もが“知っている”であろうそれを彼女は知らないのであった。
けれども、だからこそ彼女は“わかる”ことができたのだと思う。
私たちはコトバを“知っている”、話している相手のことを“知っている”、自分が何を伝え、どうなりたいのかを“知っている”、ように思っている。
だが、本当に私たちは“知っている”のであろうか、そして“わかる”ことができているのであろうか。
例えば悩みの相談の時、相手が自分のことを話すときにどこか私が思っていることとは違うと感じることがないだろうか。
同じ言葉を使っていたとしても、どこか相手とその言葉の裏に隠されたコトバが違うように感じることはないだろうか。
私たちは、それぞれの“コトバ”を持っている。そのコトバによって相手に気持ちを伝える。コトバを介して世界を見る。それは自分が自分として生きる上でとても大切なことだ。
だが時にはその“コトバ”が足かせになることがあるのだと思う。
相手の“コトバ”を私の“コトバ”と取り違え、どこかすれ違ってしまうことがある。
本当はやりたいこと、伝えたいことが違うのにもかかわらず“コトバ”に縛られて自分の本当の気持ちに正直になれないことがある。
コトバは世界を創り、そして世界に縛り付ける。
きっと彼女はその“コトバ”を“知らない”、持ち得なかったからこそ相手の“コトバ”に、相手の“ココロ”に迫ることができたのではないだろうか。
“知らない”からこそ、“わかる”、わかろうとする。
そんなことがあるのだと私は思うのです。
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