見出し画像

心の身体化、そしてエナクティヴィズムへ (ヴァレラ「身体化された心」 #3, ALife Book Club 2-3)

こんにちは!Alternative Machine Inc.の小島です。
ヴァレラ「身体化された心」解説の第三回目です。これまでの記事(前回前々回)をお読みでない方はぜひそちらもご覧ください。

「心とはなにか」をめぐる本書の話も佳境にはいってきました。

心は物質ではないから科学の対象にできないのでは、というところから始まり、それに対して物質ではないけれど科学が取り扱える計算という概念や、それを具現化した人工知能をモデルとすればアプローチできるはず、というところまでやってきました。(そして、エキスパートシステムを使う場合は「認知主義」、ニューラルネットワークを使う場合は「コネクショニズム」という立場でした。)

よって当初の問題が解決されたので、ここからはさくさく心が科学できる、、と思いきや、全然そうはならないのです、、、

今回は見えているものの根拠が外界にも頭の中にもない、という議論を通じて、人工知能でモデル化することの欠点と、そこからうまれた「エナクティヴィズム」という新たな考え方を説明していきます。

心は「自然の鏡」?

心は「自然の鏡」という考え方があります。これは、自然、すなわち外界がまずあって、心はそれを映すものにすぎないという考え方です。

例えば丸が見えているという状況を考えましょう。これは(回りくどい言い方をすると)目の前(外界)に丸いものがあって、そのまるさを認識している、ということになります。つまり「まるさ」は外界にあるものの性質であって、その性質が「心に映し出される」ことでまるいなあと思う、というわけです。

実は人工知能モデルはこの考え方が背後にあります。なぜなら人工知能がやっていることは、外界からの(視覚)入力を受け取り、そこから外界についての情報を取り出すということだからです。人工知能の働きとして「特徴抽出」という言葉があるのですが、これはまさに外界にあるなんらかの「特徴」を「抽出」するという考え方をよく示すものです。

さて、問題はこの考え方でよいのかということで、もしだめなら人工知能によるモデル化でもまずいということになってしまいます。
「丸」の例ではわりと良さそうに思えましたが、今度は「色」を例にとって考えてみることにしましょう

色は何の性質か?

例えば、黄色い車が見えているという状況を考えます。この「黄色」は外界の性質といってよいのでしょうか?

物理的な性質から言えば、色とは光(電磁波)の波長に対応します。

すなわち、赤いということは目に入ってきた光の波長が700nmくらいで、黄色なら580nmくらいということになります。この場合は「光の波長」という外界の特徴を取り出していることになるので先程の描像で良さそうです。

「光の三原色」は神経細胞の性質

ところがそれでは終わりません。
「光の三原色」はご存知でしょうか?赤と緑と青さえ用意しておけばどんな色も作れる、というあれです。カラーディスプレイはこのおかげで可能になっています。

光の三原色から考えると、黄色は緑と赤を混ぜることでも作れてしまうのですが、さきほどの光の波長の見方でいうとこれは550nmの光(緑に対応)と700nmの光(赤に対応)が混ざっているものであって、580nmの光(黄色に対応)とは全くの別物です。

光の三原色がある以上、色は外界の特徴(光の波長)と単純に対応するわけではないのです。

では、この「光の三原色」はどこからきているのでしょうか。
これは実は目にある神経細胞の性質です。正確に言うと網膜の錐体細胞と呼ばれるものの性質で、三原色が「三」であるのは、この錯体細胞が三種類あるからなのです。

これからわかることは、色は神経細胞という見る側の性質も反映したものであるということです。外だけではなく、中も重要なのです。
(ちなみに生物によっては三原色とは限らなくて、鳥は四原色だったりします。これも鳥の場合には四種類の神経細胞があるからです。)

文化も影響する

さらに、色の知覚には文化的な影響もあります。

みなさんは虹は何色だと思いますか?
七色と答えた方がほとんどかとおもいます。でも、これ文化によって違うんです

アメリカだと六色らしく、パプアニューギニアのダニ族は二色なんだそうです。

もちろんアメリカの人もパプアニューギニアのひとも、もっている神経細胞も同じですし、見ている虹も同じです。ところが、虹を見たときにそこに見えている色は違うのです。

よって色の知覚は、光の波長という物理特性だけでなく、神経細胞という見る側の生物学的な特性、さらにはその人が属している文化特性にまで依存しているといえます

どう運動したかも知覚に影響する

さらにどういう行動をしてきたかということすら知覚に影響することが知られています。その有名な例がHeldとHeinの実験です。

これは二匹の子猫による実験で、片方は自分で動けるのですが、もう一匹はゴンドラに乗せられていて相手の動きに合わせて移動する、という状況です。二匹とも同じ空間で同じ動きをするわけですから、視覚入力としては全く同じになります。
ところがこのような環境で育てられると、自分で動けていた猫は普通に行動できる一方で、ゴンドラに乗っていた猫はうまく知覚が発達せず、例えば崖があっても見分けられずに落ちてしまうのです。

この二匹の差は運動していたかどうかだけであるため、どういう行動をしてきたかということが知覚世界の構築に大きく影響するという証拠となりました。

エナクティヴィズムへ

以上のことから、見る(知覚する)ということは外界の特徴量を取り出すことではなく、見る側の神経細胞の特徴や文化的なコンテクストや、運動の履歴にもよるということがわかりました。

実はこれこそがこの本の「身体化された心」というタイトルで示されていることなのです。ちょっと本文から対応する部分を引用してみます。

「身体としてある」ということばを用いることで、われわれは二つの点を強調するつもりだ。第一に、各種の感覚運動能力を有する身体の様々な経験に認知が依存すること。第二に、これらの各感覚運動能力自体がより包括的な生物的、心理的、文化的コンテクストに埋め込まれていること。

「身体化された心」(工作舎)

ちょっとことばとしては難しいですが、認知、たとえばまわりを見ているという体験には、外界の性質だけによって決まるのではなくて、そこには身体の性質、さらにはこれまでの経験といった過去の履歴や、自分の所属している文化によって形成されたものなどが全部つまっているのだ、ということです。そしてこのことをこの本では「身体としてある」という言葉で表現しています。

そして、ここからあらたな認知の考え方としてヴァレラらが提案するのがエナクション(enaction)ないしは、エナクティヴィズム(enactivism)になります。

エナクションは日本語だと「行為からの生成」と訳されていて、すなわち認知が行動の履歴から生じてくるという、先程から話している内容(ただし「行動」がより強調されている)に対応しています。

だいぶ長くなってしまったので今週はこのへんで終わりとします。
「エナクティヴィズム」こそがこの本のメインなので、次回ももうすこしこの話をしようと思います。ただ、うっすら気づいているかもしれませんが、初回にさんざん脅していた仏教の話がまだ出てきていませんでした。来週はついにそこにも触れていきます。

エナクティヴィズムという新しい考え方に至ることができたのに、なぜそこで終わらずに仏教思想に至ってしまうのか?次回をお楽しみに!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?