ハン・ガン『菜食主義者』 なぜ肉を食べないことが家父長制による抑圧への抵抗なのか
韓国のフェミニスト文学の枠を超えたブッカー国際賞受賞作品。普通の専業主婦がある日肉を食べなくなる。夫は妻の突然の変化に戸惑い、義理の家族に助けを求めるが…という流れで一部が始まり、全三部で構成されているこの作品は、菜食主義者になった妻の周辺人物3人の視点からことの経緯を語る。
この作品は、獣性と植物性、父権主義とフェミニズム、人権と暴力、周縁化と格差社会、解放と抑圧、肉体と精神などのテーマで論じらているが、ここではもう少し文章中の細かい表現や、アナロジーに焦点を当てて作品の魅力について理解を深めていきたい。
「肉を断る」とは何の比喩なのか
そもそもこの本における肉とはなんなのか。第一部の「菜食主義者」に出てくるヨンヘがベジタリアンになったきっかけである悪夢のなかでは、肉 = 家畜の肉や加工肉と捉えることができる表現がある。
夢の中で、ヨンヘは複数人と木々の間を彷徨ったり、肉がつるされた建物を見つけたり、窓がない暗い空間にいたりと、まるで牧場にいる家畜のようにもみえる表現が数々ある。これだけで屠殺場送りを待つしかない家畜の比喩というわけではないが、夢の節々に家畜や牧場、狩られることなどが頻出することは興味深い。
当然だが牧場や屠殺場にいる動物たちは飼われている。管理され、機械的に処理され供給されてしまう個体が大半である。そして、このように提供されるお肉を、家父長制が生み出しそれ自体を維持する規範、と解釈するのはどうだろうか。ただのお肉ではなくコントロールされ、大きなシステムを回していくための生産品。疑いなく受け入れるもの。こう見ると肉を家父長制、ないしそれを維持する装置と捉えられる。この解釈はベトナム戦争に従軍したヨンヘの父親が肉を無理やり食わせようとしたことと照らし合わせても納得がいく。そしてベジタリアニズムはフェミニズムとは切っても切り離せない政治的な問題でもある。詳しくはこちらの本と投稿に詳細があるので是非。
このように、肉を食べない行動 = 家父長制による抑圧への抵抗というのは一つのありえる解釈になる。
夢を見ること、Woke(ベジタリアンになること)なこと
ヨンヘが、夢を見てベジタリアニズムにwokeし、肉を食べ無くなったという設定も興味深い。
Wokeというのは、海外では社会問題・政治問題について意識的になるという意味でよく使われる。ヨンヘは文字通り、夢を見て、夢から覚め(wokeし)、肉を食べなくなった 。作者が意識的に、悪夢から覚めることとwokeしてフェミニストや菜食主義になることをかけているのは自明だ。
夢は自分で見たいものが見られるわけではない。悪夢はこの本の中では、横行する女性搾取と抑圧の例えであろう。悪夢 = 性的虐待や女性蔑視が蔓延る社会。保守的な社会で息苦しく自分を殺して生きていくことの苦しみがまさに悪夢としてヨンヘを苦しめる。また、父親が飼っていた犬を殺したエピソードも悪夢として登場しており、幼い頃から現在に至るまでの父親の有害な男性性が悪夢の根源の一つであったことを示唆し、幼い子どもですら父権主義から逃れることができないことを暗に仄めかす。なんであれ、ヨンヘは悪夢を見て肉を食わなくなる = 家父長制に迎合することをやめて生きていく。
なぜ義兄が魅了されたのは蒙古斑でなければいけなかったのか
第二部は、ヨンヘの臀部に残る蒙古斑に異常な興味を注ぐ映像アーティストの義理の兄の目線で物語が進む。精神的に安定しないヨンヘだが、彼女の蒙古斑を中心に花や植物を描き、映像作品を撮りたいという義兄の頼みを受け入れる。
なぜ蒙古斑なのか。瞳の色だったり、そばかすだったり。義理の兄が執着するヨンヘの特徴は蒙古斑以外でもよかったはずだ。蒙古斑でなければいけない理由があるとしたらそれは蒙古斑が先天的で、成長するについてたいてい消えていくという特性があるからだと考えられる。
蒙古斑の先天性に着目し、蒙古斑 = 社会的・文化的なジェンダー概念や役割から解放されたprimitiveな要素、個性、幼児性、外見、行動と解釈すると比喩としての必然性が浮かび上がる。この定義は義兄が、いわゆる女性的な特徴に惹かれていない点とも矛盾しない。
妻(ヨンヘの実姉であるインへ)の女性らしさは誉めるが、彼はあくまで中性的なものに欲情している。ヨンヘは社会的に構築された女性像としてではなく、もっと原始的なまっさらな状態(植物性?)のアナロジーであるととれる。ヨンヘは伝統的な女性としての役割から脱却し(肉を拒否し、菜食主義者となる)、性差によって定義されない本来の自分(先天的な蒙古斑)を取り戻そうとしている。
ここで、じゃあ家父長制システムに加担する義兄がそのようなヨンヘに性的な魅力を感じるのはおかしいのではと突っ込まれるかもしれない。しかし、単純に義兄をせこい男性の暴力と欲望の象徴というのも少し物足りない。彼は自分の作った作品を客観的に思い返しながらその偽善性に気づいている。義兄は彼のなりたい自分と今の自分の差に気づいており、そのギャップに揺れている。義兄とは、ジェンダー観が強く蔓延る社会の不健全さに気づきつつもその社会通念から自分を解放することができない人の代表なのではないだろうか。
そして第二部の最後に描かれる性関係は、義兄だけではなくヨンヘも社会構造の呪いから脱却できていないことが見て取れる。
性的関係を持つことで、二人は一時的ではあるが社会によって形成されたジェンダー像から逸脱した状態(ここでは植物がそのアナロジー)にはなったが、最後には義兄の行為は暴力的になる。
ヨンヘは涙を2回流す。一度目は、社会によって客体化されていない性関係をもてたことの喜びから。二度目は、義兄の荒々しさから、社会構造から100%逃れることが不可能であると悟った悲しみから。このように二人を二項対立的に見るより、相反する価値観のせめぎ合い、伝統的なものと原始的なものが同時的に存在することを示しているチャプターなのではないだろうか。
フェミニストとしての過渡期を過ごす女性とその足を引っ張る現代的な疲れた男性が第二章の中心だと言える。
燃える木の花火とは結局なんだったのか
最後に、夫と親に見限られ、拒食症になり精神病院で治療を受けるヨンヘを唯一気に掛ける姉インヘの視点で第三部は語られる。ヨンヘの胃ろうをやめさせ、違う病院にヨンヘを移動させる救急車の中からインへは、道路沿いの森の"無数の獣たちのように体をうねらせる緑色の花火をにらむ"(p. 291)。
この文脈において燃える木とは一体なんなのか。一つの解釈として、燃える木 = 伝統的なジェンダー観に疑問を持ち、苦しむのがわかっていても脱却しようともがく存在があると考えられる。そして、第三部はそんな木になった人に対し、自分を守ためには旧態依然とした価値観に迎合することも致し方ないと思っている姉が困惑する物語だと言える。
ではその燃えている木自体は、インヘにとってどのようなものか。第三部では、理解したくても分かり合えない存在として作中に触れられる。
この箇所では、雨に打たれる病院の中庭の樹齢四百年の木にヨンヘを思わず重ねる。肉を食べたくない、そして幼い頃から口数の少ないヨンヘは、まさに第三部に入り限りなく木に近づいた存在になった。少なくともインへにはそう見えている。
姉のインへはさらに精神状態だけでなく、身体的にもヨンヘは木になっていることを示唆する。
女性、女の子としての身体的特徴を失った状態だとインへは感じている。蒙古斑と地続きで、ヨンヘが社会性を削ぎ落とし、ニュートラルで生まれてたのような状態にあることを示唆する。そして、さらにヨンヘはこの妹と周りの年老いた精神疾患を持つ患者との類似性も上げる。ベッドに横たわった姿や、体の骨張った様子は、延命治療を施されより死に近づいた彼らとの接点も強く仄めかす。なぜ死んではいけないのか。そう姉のインへに尋ねたヨンヘは、植物状態に近いからこそ、獣状態であった時と比較して、今は生と死の境界がはっきりしなくなっている。
最後の激しく燃えていることの意味。この花火になった木はインへ視点であることに着目する。花火は遠くにあるもの。輝いており綺麗。ただどこから打ち上げられたかは見えない。自分の築き上げてきた人生を捨てることもできず、古いジェンダー観やシステムから脱却することができないインへにとって、ヨンヘのような存在はある意味憧れであり、最後まで理解できない、眺めるだけの遠く輝く花火なのであった。燃える森は女性が経験する抑圧が撲滅された社会をめざす連帯した同志たちの例えなのかもしれない。
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