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【小説】愛も夢も手に入れた後(第5話)

 週末、穂乃果は8か月ぶりに悠也に会いに行った。ロンドンでのクリスマス休暇の時ほどではなくとも、内心はすごく楽しみだった。外出がまだ少し怖かったが、ホテルに向かう電車の中では、早く悠也に会いたいと思っていた。
 
 ホテルに先にチェックインして悠也を待った。ベッドの上に寝転がって、スマートフォンで二人で行きたいレストランを探していたら、部屋に向かって来る足音が聞こえて、鍵が開いた。悠也だ! 穂乃果は跳ね起きてドアの方に駆けて行った。悠也がスーツ姿で、涼しい顔をして入って来た。
「悠也!」
 穂乃果は抱きつこうとしたが、悠也は顔色も変えずキャリーバッグを引いてスタスタと部屋の中へと向かい、「おかえり」と真顔で言った。
 穂乃果は想像していた再会のシーンとは程遠い、悠也の態度に面食らった。嬉しくないのだろうか。微笑みひとつ浮かべない悠也は、そのままキャリーバッグを置き、穂乃果の方に向き直った。そしてようやく微笑みを浮かべた。
「なにそれ、嬉しくなさそう…」
 穂乃果は上目遣いで不満を言った。
「嬉しくないわけ、ないだろ。ほら、おいで」
 悠也は両手を広げている。穂乃果は気分を害したので悠也に近づかず、その場に突っ立っていた。悠也は「なにやってるんだよ、しょうがないな」といった顔で穂乃果に近づき、包み込むように抱いた。穂乃果は一応抱き返したが、二人の温度差を感じていた。やはり長く離れていると、心も離れていくのだろうか。私の心は離れていないのに。まだ変わらず留学前のように悠也を愛しているし、悠也と結婚もしたいし、今度こそ悠也との子どもが欲しい。だけど悠也はもう冷めてしまったのだろうか。
 
 その後は二人で夕飯を食べに行き、夜の公園を散歩してからホテルに帰って来た。外を歩く時は悠也から手をつないできたし、公園のベンチに座っていた時は優しくキスもしてきた。ホテルに戻ってからは、セックスもした。でも穂乃果はなんとなく、留学前と、ロンドンで会った時とも違うものを感じていた。
 2回目のセックスが終わり、二人で抱き合ってベッドにいる時、穂乃果は悠也に聞いてみた。「部屋に入って来た時、なんであんなに冷めてたの?」
「冷めてないよ。ちょっと照れくさかったんだ。感動的な再会のシーンみたいなのが…」
 悠也はちょっと照れながら言った。本当だろうか、と穂乃果は思った。女の勘というのだろうか、何かが違うと胸騒ぎがした。あ、もしかして、恐れていたことー、私が日本にいない間に浮気をしたのだろうか、それとも本気の恋とか…?
「私のほかに気になる女性、できた?」
 穂乃果は恐る恐る聞いてみた。
「あのなぁ、できるわけないだろ。もしできたらちゃんと言うし、俺はおまえを愛してるんだから、そんな心配はするな」
 悠也は怒ったように答えた。穂乃果は一応納得し、それ以上深く考えないようにした。ただ、なんとなく残ったモヤモヤは消えなかった。
 
 東京で会った週末の後、会えない日が続いた。穂乃果は仕事を探し、出版社を何社も受けた。まずは東京での生活の基盤を整えなければ、と思った。
 穂乃果は10社以上採用試験に落ち続けた。しかしなんとか1社、採用してくれる出版社があった。イギリスの紀行本を出している出版社で、イギリス英語の英会話本も出している。どの本の担当になっても嬉しいと穂乃果は思った。やっとやりたい仕事ができることにも胸が躍った。今まで、興味のない事務職を4年間もしてきた穂乃果にとって、やっと好きな仕事ができる喜びは大きなものだった。
 
「仕事が決まったんだよ! イギリスの本の編集者。出版社が採用してくれたの」
 その夜、穂乃果は悠也に電話で報告した。
「そうか、よかったな!」
 悠也も喜んでくれているようだった。
「…大阪で仕事を探した方がよかった?」
 将来を約束している関係なのだから、穂乃果は一応聞いてみた。
「いや、まずはそれぞれの生活を整えないと」
「…だよね」
 悠也に言われて、穂乃果もそう思ったが、なんとなく寂しく感じていた。なぜだろう。日本に帰って来たのだから、一緒に住もうとか、早く結婚しようとか、心の底では言って欲しかったのだろうか。悠也は、将来結婚しようという話はもう時効…というか、白紙に戻す気なのか? 将来の話をしなくなった悠也に、穂乃果は嫌な胸騒ぎを覚えた。
 
 電話を切ってから、穂乃果はよく考えてみた。私は何がしたいのか。子どもを諦めてまで、何のために留学したのか。留学は行ってよかったと心から思える。それは間違いない。やりたい仕事に初めて就けることも嬉しかった。ただ、悠也なしの人生は、穂乃果にはもう考えられなくなっていた。二人のこれからのことも話したいと、心の底では思っていたことに気づいた。
 
 仕事は楽しかった。しかし出版社で働くということは、こんなにも残業をしなければいけないのかというほど、毎晩深夜まで働いた。金曜日の夜から大阪に行こうと予定していた週末も、何度も直前にキャンセルせざるを得ないほど、仕事に追いまくられた。こうして悠也に会えない日々は続いた。
 
「日本に帰って来た意味がない。全然会えないんだもん」
 穂乃果が電話で悠也に愚痴を言うと、悠也は冷静に諭すように言った。
「仕方ないだろ、仕事とはそういうもんだ」
「悠也だって全然東京に来てくれないし」
「俺だって仕事してるんだから、そう簡単にはいかないよ。来月にはなんとかまた東京出張を入れるから」
「出張にかこつけて来るばかりで、全然自分からは会いに来てくれないじゃん」
「それは…。ちょっと金欠で大変なんだよ。東京に行けば泊まるところも必要だし」
 穂乃果は不満が募っていった。日本に帰ったら、悠也との幸せな生活が待っていると思っていたのに、結局ずっと遠距離恋愛だし、電話の回数が増えただけで、留学中とあまり変わらないと感じた。
 
 2か月ぶりに悠也に会えた時は、もうクリスマス直前だった。
「今年のクリスマスはどうする?」
 穂乃果が悠也に聞くと、「仕事を休めない」とのことだった。
「じゃあ、会えないんだね…」
 穂乃果はたまっていた寂しさがどっとあふれてきた。ちょっと涙ぐんだのを悠也は見逃さなかった。
「それくらいで泣くなよ」
「泣いてないよ」
「泣いてるやん」
 悠也はそう言って、あごに手をかけて穂乃果の顔を上げさせた。
「私…寂しい」
 穂乃果は思わず本音が出てしまい、涙がどんどん出てきて慌てた。悠也は穂乃果を抱き寄せた。
「私たち、いつ結婚するの?」
 穂乃果の本音は堰を切ったように次々と出てきた。
「ロンドンから帰って少ししたら結婚して…って言ってくれてたのに、もうその話はしなくなっちゃったし…」
「少し、じゃなくて、何年かしたらだろ。まだ時期が早いよ」
「いつならいいの? …私、早く赤ちゃんが欲しい」
「え、でもおまえ、子どもを諦めてまで留学しただろ」
「そうだけど…だから…、失ったものがいつも頭に蘇るの」
「それは…おまえ、勝手だろう」
「わかってる。ごめんなさい」
「いや、俺に謝られても…」
 穂乃果は自分でも自分の気持ちがよくわからなかった。赤ちゃんを犠牲にしてまで、留学という夢を叶えた次は、愛する人と家庭を持って、今度こそ赤ちゃんを、それもなるべく早く産みたいのか。自分はそんなに自分勝手だったのか。
 
 留学せずに子どもを産んでいたら、どうなっていただろう。幸せな家庭を築いていただろうか。きっと、ロンドンに行けなかった不満を子どものせいにして、幸せではないと感じたのではないか。だからといって、自分の思い通りの順番で、留学して、好きな仕事に就いて、結婚して、子どもを産むなんて、自分の頭の中の計画通りにはいかないのだ。相手がいることなのだし、その相手は留学前ほど穂乃果に熱くなってはいないし…。
 多分、これから離れ離れになってしまうという焦りから、あの頃は穂乃果に熱心に働きかけていたのではないか。今、悠也は落ち着いてしまって、何も焦ってはいない。だからこんなにつれない態度になっているのではないか。でもきっとまだ穂乃果への愛情は変わらずにあるはずだ。
 だが、果たしてそうだろうか。去年、愛と夢を同時に手に入れたと思ったのは、幻だったのではないか。その時、そう思っただけで、実は違ったのではないか…。穂乃果はそんな気がしてきた。
 仕方がない、私が決めたことだ。自分が、愛する人との子どもを産むより、ロンドンに留学することを選んだのだから。その結果、留学中に悠也の転勤があり、色々と状況も変わっていった。流れに身を任せるしかない。理屈ではわかっていた。しかし穂乃果はどうしても、今度は失ったものが欲しくなった。
(最終話へつづく)


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