【小説】愛も夢も手に入れた後(第4話)
ロンドンに着いて、最初の3日間は観光気分でホテルに泊まった。そして好きなカムデンタウンを見てまわったり、パブでビールを飲んだりした。
3日後にホームステイ先に着いた日の夜、ホストマザーに「そうそう。手紙が届いているわよ。今日届いたの」と言われ、エアメールを渡された。
ホームステイ先の住所は、家族と悠也には伝えてあったが、メールではなく手紙を、しかもこちらから連絡する前に送ってくれたのは誰だろう? そう思って受け取ると、見慣れないローマ字で書かれた名前は悠也のものだった。
いつ、出したのだろう。成田で見送ってくれた時か、その前? それともその直後? それにしては着くのが早いな…と思いながら開けてみた。そこには愛の言葉が溢れていた。どれだけ穂乃果を愛しているか、今まで口にしたことのないような、深い愛の表現が並んでいた。
「…穂乃果を誰よりも愛している。離れてしまうのは寂しいけれど、二人の将来が待っているんだし、お互いに頑張ろう。これから成田に、おまえに会いに行く」で結ばれていたこの手紙。成田に見送りに来てくれる直前に投函したのだ、とわかった。
遠く離れて、ホームステイ先に落ち着いたタイミングでこのような手紙を受け取った穂乃果は、やっと色々考える心の余裕ができて、涙が流れた。早くもホームシックにかかったような感覚だった。日本に帰りたいわけではなかったが、とてつもなく寂しかった。悠也に会いたかった。家族にも会いたかった。お腹の子を死なせてまでここに来て、やっと留学生活が始まるという時に、こんな寂しい気持ちになるとは思ってもみなかった。
学校が始まるまでまだ3日もあった。少し余裕を持って日程を組んだつもりだったが、穂乃果はそれを後悔した。心の余裕があると、色々と考え過ぎてしまう。到着してすぐに学校が始まった方が、余計なことを考えなくて済む。それほど穂乃果はホームシックにかかっていた。
気を紛らわせるために、毎日パブに通って、悠也や家族、友達に手紙やメールを書いた。本も読んでみたが、文字の上を目がすべっていくだけで、内容が全く入ってこなかった。私は何をやっているのだろう、と穂乃果は思った。そして夜になるとホームステイ先のベッドの中で泣いた。ベッドの枕元には、遺影代わりにしていたキューピーの人形がいつもあった。
やがて学校が始まると、目の前のことで精一杯になり、日本のことを考える余裕がなくなってきた。ホームステイが始まった頃はまだ友達もいなくて孤独だったが、学校で友達もでき始め、寂しくなくなってきた。穂乃果はようやくロンドンでの生活を楽しみ始めた。ホームステイは1か月間だけだったので、一人暮らしのフラットを探さなければいけなくて、急に毎日が忙しくなった。充実した日々を送ってはいたが、夜になると穂乃果は悠也を想った。
渡英して10日後に、穂乃果は4か月ぶりに生理になった。身体が元通りに戻ったのだと思うと嬉しくて、その日、穂乃果は悠也に電話を掛けた。
「今日ね、生理が来たんだ!」
「あ、そうなんだ。よかったな」
悠也はそれほど喜んでいないようにも思えた。
「…嬉しくない? 身体が元に戻ったんだよ!」
「うん、嬉しいよ」
穂乃果はちょっと拍子抜けした。自分だけあんなに喜んでばかみたいとも思った。
「もう切るね、こっち、夜中だから。おやすみ」
「おう、身体に気を付けてな。愛してる」
「私も愛してる」
電話を切った後、穂乃果は東京で付き合っていた頃と、初めて送ってくれたエアメールの文面と、電話での悠也が同一人物とは思えないような寂しさを覚えた。離れると人は変わってしまうのだろうか。しかもこんなに早く? 穂乃果は胸騒ぎを押し殺すように、左手の指輪をなでた。
(大丈夫、私たちはきっとうまくやれる)
そう自分に言い聞かせて穂乃果は眠りについた。
順調に留学生活は過ぎて、穂乃果は一人暮らしのフラットに引っ越した。留学生仲間だけでなく、だんだんイギリス人の友達もできて、穂乃果はますます毎日を楽しんでいた。もうすぐクリスマス。悠也がロンドンにやって来る。穂乃果はクリスマスの装いになったロンドンの街を歩く度に心を躍らせていた。
クリスマス休暇になり、留学生たちは自分の国に一時帰国する者も多かったが、穂乃果を含むアジア人留学生たちは、ロンドンに残る人が多かった。でも穂乃果のように恋人がロンドンに会いに来る人はほかに一人もいなかった。
悠也がロンドンに到着する日、穂乃果はロンドンで買った新しい服を着て、ヒースロー空港に迎えに行った。3か月半ぶりに会う悠也はどんな顔をしているだろう? 心が弾んだ。
空港に着き、到着ロビーで悠也を待った。悠也を乗せたJAL便は、もうすぐ到着の予定だと表示に出ていた。穂乃果は胸の高鳴りを抑えられず、何度も深呼吸をした。
やがて大きなカートを押しながら、悠也が到着ロビーに姿を現した。穂乃果は悠也を見つけたと同時に駆け出した。途中、悠也と目が合い、穂乃果は微笑み、悠也はニヤッと笑って見せた。そしてゆっくりとこちらに近づいて来た。
二人は言葉もなくただ、抱き合った。そしてキスをした。離れていた間の心のざわめきは、杞憂に過ぎなかったと穂乃果は思った。穂乃果はやっと安心できた。
「女の子に触れるの、久しぶり…。柔らかい…」
悠也が照れくさそうに言った。
「そんなに私、太ってる?」
穂乃果が冗談っぽく言ったら悠也は笑った。
「太ってない、全然。ちゃんと食べてるか?」
悠也が父親のように言うので、穂乃果も笑った。
二人は本当に幸せなクリスマス休暇を過ごした。ロンドンの街を案内したり、穂乃果の好きなパブを飲み歩いたり、海辺の町、ブライトンまで旅行したりした。10日間ほどの悠也との生活が、穂乃果には天国の暮らしのようにも思えた。
「なんだか浮世離れしてるな」
ブライトンのB&Bで朝食を食べている時、悠也が言った。
「なにが?」と穂乃果がイングリッシュブレックファーストを食べながら聞くと、「この生活」と悠也が答えた。
「ちゃんと生活できてるのか?」
「何を聞くの、できてるよ」
相変わらず父親のように聞くので、穂乃果はおかしくなった。
ブライトンの海辺を二人で歩いている時、穂乃果は震えるほど幸せだと思った。
「いつかさ、家族でまたここに来ようよ。子どもたちも連れてさ」
穂乃果が夢見るように言うと、悠也が返した。
「子どもたち、ね。何人つくる気?」
「最低でも2人。できれば4人」
「そんなに欲しいの?」
「うん…。悠也は何人欲しい?」
「俺は、1人か2人かな」
「そうなんだ、じゃあ、間を取って3人だね」
「間を取ったら2.5人だろう」
「でも2.5人は無理…あ」
「0.5人はもうつくっちゃったな…」
「…だね。じゃあ、あと2人か」
そんな話をしながら、二人で夕暮れの海辺を歩いていた。穂乃果には将来、悠也と結婚して子どもをつくることしか思い描けなくなっていた。
大晦日にはシャンパンを買い込んで、穂乃果のフラットでお祝いをした。年が変わる瞬間は二人でベッドにいて、テーブルの上のグラスを取るのがわずらわしく、ベッドの中で裸のまま、二人してシャンパンのボトルを豪快にラッパ飲みして笑った。二人ともこの上なく酔っぱらっていた。幸せな年明けだと思った。
悠也が日本に戻る日が近づき、穂乃果はだんだん憂鬱になっていった。でも仕方がない。この休暇は永遠には続かないのだ。私は夢を叶えるためにここに来た。そして帰国したら悠也との愛の日々が待っている。焦ることはない。ゆっくり幸せになればいいのだ。穂乃果はそう自分に言い聞かせて、悠也を空港まで見送りに行った。
悠也が帰国した後、穂乃果は熱を出した。落ち込んだ心が身体に影響したのだろう。しばらく学校にも行けなかった。こんなになるまで自分は悠也を愛していたのだと悟った。でもロンドンに来たことは後悔していなかった。寂しくても何でも、ここに1年間住めること、ロンドンの四季を肌で感じることができることは、穂乃果の喜びだった。
ロンドンに来ること、ロンドンに住むことが目的のような穂乃果の留学だったが、ロンドンに滞在しているうちに、穂乃果は帰国したらイギリスについての本の編集者になりたいと思うようになった。イギリスにいるうちに自分の新たな夢を見つけたいと思っていたので、その夢を見つけた時は嬉しかった。そして悠也と結婚をして、今度こそかわいい赤ちゃんを産んで…と、自分の幸せな未来を思い描いていた。自分の将来は幸せ一色だと信じて疑わなかった。
その後の生活は実に充実していた。穂乃果はロンドン生活を楽しみ、英語も上達させて、イギリス人の友達や、他の留学生仲間たちとパブで毎晩のように語り合い、楽しい毎日を過ごしていた。悠也とも頻繁にメールや電話で連絡を取り合っていて、時々エアメールも送られてきた。
しかし3月のある日、悠也から突然電話があった。4月から大阪に転勤になることが決まったという。今は東京とロンドンという超遠距離恋愛中の身だったので、帰国後の東京-大阪間の遠距離恋愛なんて、大したことはないと穂乃果は感じた。
「そうなんだ…でも、大丈夫だよね、私たち」
「うん。今よりは近くなるしな」
そんな感じで二人とも重く受け止めなかった。これが後々の困難になるとは、二人はまだ気づいてはいなかった。
4月に悠也が大阪に引っ越した後も、変わらずに超遠距離恋愛は続いていた。何も変わらないと穂乃果は感じていた。
8月の帰国が近づくと穂乃果はやり切った感でいっぱいだった。もう思い残すことはないと思った。そして日本で編集者になるという新たな夢を叶えた後で、またロンドンの街を訪れたいと思った。その時は夫である悠也と、かわいい子どもを連れて…。
1年間の留学を終えて、穂乃果は帰国した。久しぶりの日本。母親と、夏休みで東京に戻っていた弟が成田空港まで迎えに来てくれた。
イギリスでは公共の場でも、扉を次の人が通るまで押さえておくのが暗黙の了解であり、穂乃果も自然にそうするようになっていたが、日本に帰ったら前の人にバタンと扉を閉められて、ドキッとした。ああ、ここは日本だった、と思った。なんだか嫌な感じがした。私の祖国って、こんなに冷たい国だったっけ、と…。
帰りの成田エクスプレスの中で、母親が「青い目のボーイフレンドと一緒じゃないのね」と冗談を言った。
「それだけはやめて、って言ったの、誰だっけ?」と穂乃果は返したが、母親は「誰?」ととぼけている。
「ママでしょ! 青い目のボーイフレンドを連れて帰って来ないで、って言ってたじゃない」
穂乃果が笑うと、「あら、私? そんなこと、言ったかしら…?」と、本当に忘れているようだった。「もう、話にならない…」と3人で笑った。
「俺まで駆り出されたけど、俺は迎えに来る必要なかった気がするんだけど…」
弟はそんなことを言いながらも、お互いに日本にいる間は全然連絡をよこさないくせに、穂乃果の留学中には結構メールを送って来ていた。
悠也とは帰国後初めての週末、ホテルで会うことになっていた。金曜日の仕事に東京出張を組み込んで、週末は穂乃果と過ごすことにしたのだった。
週末が来るまでの間、穂乃果は懐かしい自分の部屋に閉じこもった。実は外に出るのが怖かったのだ。すっかり変わってしまった東京。いや、変わったのは自分かもしれない。ロンドンでの生活が普通になってしまった今、東京の電車の中でちょっとぶつかっただけで、キッとにらまれるような毎日が怖くなってしまったのだ。
(第5話へつづく)
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