呉市在住 「船が好き」「歴史を読む」ということ
呉に住み始めて半年が経った。
「坂の街の洋館」という何かに憧れて、呉の高台にある洋館付きの古民家に住み始めたのは去年の12月のことだ。
冬の古民家はとても寒く、中古家具店で買ってきたお古の炬燵を荷車で持って上がって、毎晩布団を二重にしてくるまって寝た。家は細い路地を登った先に建っているので、トラックを横付けして引越しというわけにもいかず、布団や家財道具一式は車の止められる下の通りから小分けにして手作業で運んだ。
坂の街の家に住み始めたことで、あることに気づいた。それは「同じ坂道を一日に何度も上り下りする」ということだ。当たり前のことかもしれないが、旅によく出ていた頃は旅先で出会う風景は一期一会で、同じ道を何度も通るということはなかった。住み始めたことで初めて、僕は毎日うんざりするような坂道と階段を行き来することになった。買い出しの荷物が多い時なんかは坂道の途中で疲れ果てて何度も声を上げそうになる。ただそれこそが坂の街に住むということであり、それは紛れもなく僕が望んでいた生活でもあった。
毎日何度も上り下りするからこそ、日々の小さな変化について意識するようになった。今日は港にどんな船が入っているかとか、夕焼けが思いのほか綺麗だったとか…。
季節が移ろい、春を迎えた。住み始めてしばらく僕は仕事の都合で長崎と呉を往復する生活を続けていたので、目まぐるしいなかで数ヶ月が過ぎていった。呉港で建造中だった巨大貨物船は進水して海外へ旅立ち、路地には暖かい季節の訪れを象徴するように、草花が蔓延りはじめていた。
呉に住み始めたことにより僕は大きなふたつのテーマを意識するようになった。
1、船が好き
2、歴史を読む
もちろん、船も歴史も今までずっと好きだったものだ。ただ、この家に住み始めてからこのふたつのことは今まで以上にずっと大きなテーマのように感じていて、日々何かしら「船」と「歴史」のことを考える生活が続いている。実際、床板のギシギシなる家に住んで、時折港からの船の汽笛を聴く生活をしていれば、そういった物事について何かしら考えないわけにはいかない。
1、「船が好き」ということ。
これまでももちろん船のことは好きだったが、呉の家に住み始めて、より明確に好きだという気持ちが強くなった。
もともと近代建築や洋館といった戦前の造形文化が好きで、またそれとは別に船や鉄道、バスといった機械工業系も好きだったので、その二つが結びついた「客船」「商船」のことを好きになるのは自然な流れだったのかもしれない。
特に、近代化を進める日本の中で華開いた商船の文化のことが好きだった。そこには西洋文化を十分に吸収したモダンな洋装意匠と、目まぐるしく発展する造船技術がひとつになって存在していた。戦前の客船には、ものづくりの巧みさが珠玉となって詰まっているように感じられた。
長崎という造船の街に一時移動になり、「船」「港」というものを日常的に感じる中で、戦前の貨客船を描いた創作漫画「大脱走」に出会ったことも大きい理由の一つだ。津崎先生ありがとう。
ここに描かれているのは、近代の日本の姿だ。
貧しい時代が続くなか、なんとか欧米諸国に追いつこうと皆躍起になって働いていた。街には色とりどりの西洋館が建てられ、重厚な瓦屋根の街並みには洋服に身を包んだ人々が背伸びして行き交っていた。自家用車などもちろんあるわけもなく、当時の人々の移動手段はもっぱら馬と牛、人力車、そして鉄道と船だった。
そんな時代の船の話をしよう。
当時、日本では近代化による技術の発展と一時的な好景気のもとに海運業が急成長を遂げていた。鉄道も今のように日本の隅々まで路線が繋がっていない時代だったため、遠方への移動はもっぱら船旅が主であった。
戦前のものづくりの力は目覚ましいものがあった。人々は海外から次々と輸入される工芸品や書物、それらが伝える思想や技術を貪欲に吸収していった。金属やガラスといった材料は貴重なものであったため当時の技術はいかに限られた材料で良いものを仕上げるか、という点にこだわられており、鏝絵や彫刻、ステンドグラスと意匠を凝らした建築が日本各地に建てられていった。
そのようにして建てられた近代建築のうちいくつかは今でも現存しているが、もはや生産技術が規格化された現代では再現できないものとなっている。
船についても同様である。当時は溶接技術が今のように発展していなかったため、船体はリベットと呼ばれる「鋲」を打ち込んでつなぎ合わされていた。真っ黒に塗られた船体に何万本という鋲がずらりと整列し打ち込まれた外観、そしてその船内は国内外の要人をもてなすために西洋館さながらに意匠を凝らして作られていた。
当時の客船は、工芸品の集大成と言えるものだっただろう。
戦前〜戦時下に作られた船の多くは絵葉書や文献資料といった形で当時の様子が今に伝えられているが、船は建築と違って陸に繋ぎ止められている存在ではなく、また工業機械としての性質から寿命があり、残念ながら現代ではそのほぼ全てが失われている。
※ 唯一、横浜港に日本郵船「氷川丸」が歴史遺産として展示されている。
船の歴史を追っていくと、それらの船が姿を消した理由が単なる老朽化による引退だけではないことに気づく。
美しい内装を抱えた船たちは、戦時徴用という名のもとに陸軍や海軍に徴収され、戦争のなかへ巻き込まれていった。
戦前期、日本は「海外旅行ブーム」「東京オリンピックの誘致」その延長上にある「造船推進政策」といった華やかに飾られた歴史の裏で、確実に泥沼の戦争に向かって歩んでいた。
日本の近代化成功を海外へ知らしめるはずだった東京オリンピックの計画は中国への侵略開始と国家総動員法の施行により消滅し、「造船推進政策」は実際のところ海外交流を盛んにするためのものなどではなく、商船を戦時徴用し軍艦として運用するためのものであった。
美麗の象徴として漆黒と純白に塗り分けられた商船は徴用によって灰色に塗られ、そのうちのいくつかは空母や巡洋艦として実戦にも参加した。栄誉の幻想に酔うていられるのは一時的な勝利の間だけであり、結局のところ、戦争は何も生みはしない。
第二次世界大戦、日本の戦局は次第に悪化し困難を極め、想像を絶する損害を生んだ上に敗戦を迎えたことは誰もが知る通りである。戦時徴用された船たちの多くは故郷に戻ることもなく、遠い海の底に今も眠っている。
"もしも海に船とその船員たちの墓標を建てるとするならば、海はその墓標で埋め尽くされることだろう"
長崎に住んでいた時、そんな商船の美しさと、どうしようもない儚さに気づき、半ば虜のようになって船の歴史を知るために書店に足繁く通った。
造船の街ということもあって、古本屋を覗くとたいてい船舶にまつわる貴重な書籍があった。
私のように船に興味を持ち調べたい、という人がいるかもしれないので、以下に収集した本を記しておく。同時にこれまでの散文の参考文献を兼ねている。
『商船建造の歩み (三菱造船)』
戦前〜戦後期にかけて三菱造船の建造した船についての記録書。戦時中、空母として改装された「新田丸」「春日丸」の建造時の図面や船内風景についての記録もあり、とても貴重だ。
『日本海軍と航空母艦 (大和ミュージアム)』
呉 大和ミュージアムで開催中の「日本海軍と航空母艦」展の図録。戦時徴用船舶となった日本郵船や大阪商船の貨客船についての記載のほか、呉海軍工廠で空母に改装されたドイツの客船「シャルンホルスト(のち空母神鷹)」についての記録もあり。
『魅惑の進水式 (シー・エム・センター)』
戦時中日本で建造された艦船の進水記念葉書をまとめた画集。絵葉書はどれも色とりどりの色彩で描かれ、兵器とは思えないような美しさを醸し出している。それだけに、戦争の道具となってしまった宿命を思うと辛い。
『武装商船 報国丸の生涯 (並木書房)』
岡山 玉島にて建造された報国丸級貨客船の生涯を追った一冊。進水から2年ばかりで海軍に徴用された報国丸は1942年11月、インド洋沖にて敵護衛艦と戦闘中に積荷の魚雷に誘爆し沈没している。
以下、購読中 or まだ読めていない。
『随筆 船 (明治書房)』
戦前期の商船建造に関わった造船設計者、和辻春樹氏の随筆。
『平賀譲遺稿集 (出版共同者)』
旧海軍 海軍造船官として数々の軍艦の設計に携わった平賀譲の遺稿集。
『客船の時代を拓いた男たち (成山堂)』
『日本造船技術百年史 (日本造船学会)』
近代化というものは、技術の発展の歴史である。
零戦や戦艦大和に象徴されるように、技術はある一面では収斂された美しさを纏い、もう一方で人々を残酷な形で傷つけるという耐えがたい一面を持っている。
西洋文化を吸収し、人と物の交流が盛んに行われ、大衆文化とものづくりが発展した時代の日本が行き着いた先は戦争であった。美しく飾られた西洋館、瓦屋根と赤煉瓦の街並み、そしてそれらの街を結ぶ汽車や船といったものたちは無惨にも戦争のなかに失われていった。
文字通り戦争は、「人々の生活が根底から焼き尽くし」たのち、日本は敗戦を迎えた。そこには美しい西洋館も、瓦屋根の街並みも、そこに息づいていた人々の生活も、夢も何も残らなかった。船たちは故郷に戻ることなく遠い海の底へ沈んだ。
2、「歴史」について幾つか考えること。
私の家は、戦時中に旧海軍士官が住んでいたと伝わっている。
旧日本海軍の軍港として栄えたこの街は、良い側面を見れば「海軍さんの街」として日本の防衛と産業を支えた街である。
しかしそれは同時に人々を傷つけ、傷つきあった歴史であることは、前章で述べた通りである。
近代までの呉は、その頃の瀬戸内にはどこにでもあったような長閑で小規模な漁村・農村であったが、明治時代に海軍鎮守府が置かれたことで急激に軍港として発展した。海軍鎮守府が置かれたことは、その後現代に至るまで呉という街の方向性を決定づけることとなる。
余談にはなるが、近代化とともに急激に人々が移り住み発展したという呉の歴史は、さながら私が学生時代を過ごした北海道の歴史にも似ている。
三方を山に囲まれた呉には平地が少なく、その限られた平地もほとんどが海軍の敷地となったため、住宅は山の上へ上へと侵食し、自然と坂と路地の街が生まれた。なかには「坂」というよりは「崖」といった方が近いような地形もあり、急傾斜地に迫り出すように建てられた住宅と造船所のクレーン群という独特の景観を作り出している。
私の家も、そんな迷路のような崖地のなかに建っている。
戦後、戦艦大和などを建造した旧呉海軍工廠は海軍が解体されるとともに民間に払い下げられ、石川島播磨造船所、日鉄日新製鋼などからなる重工業地帯となった。日本は戦前からの造船技術を引き継いで成長し世界一の造船大国になったが、それも昔の話で今や造船業はすっかり下火となった。近代化のなかで欧米諸国へ追いつこうとしていた頃の狂気や、戦後つぎつぎに舞い込む新造船の計画に息を継ぐ暇もなかった頃の熱気は、既に過去のものになっていた。
2023年9月、旧呉海軍工廠の跡地を引き継いで操業してきた日鉄日新製鋼が全設備停止した。「船の街」「鉄の街」である呉にとって、それは一つの時代が終わるような、象徴的な出来事であった。
私がこの街に越してきたのはその年の12月で、街の人たちは「あのニッシンがねぇ…」「呉も寂しゅうなった…」と口々に漏らしていた。
それでも今日も呉は「呉」としてあり続けている。路地階段の街並みは鉄に錆びつき、街並みの向こうには工業地帯が連なっている。
夕暮れ時、ぶらりと高台に登り港を行き交う船舶を眺めるのが好きだ。瓦屋根の街並みの向こうに巨大なクレーンが整列する姿を見ると、私は今でもその工業地帯を初めて見た時と同じ胸の高鳴りを感じる。
そして、私がそのなかで働く技術者の一人であるということを、否応なく認識する。
操業停止した日新製鋼の跡地を防衛省が買収する計画がある、という記事を、私は長崎から戻る列車のなかで知った。
私はこの街が背負った「軍港」という宿命のことをいつも思う。
近代化と技術発展。
製鉄、造船、軍艦、客船、洋館、港町。人々の交流、愛と憎しみ、防衛と侵略。人々の住んでいる街の上に爆弾を落とすということ… 。大勢の人が乗った客船に魚雷を打ち込むということ… 。誇りと屈辱。幸福さと悲痛さ。
そして痛み、傷み、悼み….。
願わくば、この港がいつまでも穏やかなままでありますように、と。
もう二度と、ここから旅立つ船によって人々が傷つくようなことがありませんように、と。それが矛盾した思いであると知りながら、僕はそう願わずにはいられない。
以下、用意したけど使わなかった写真など。
ここから先は
¥ 500
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?