見出し画像

◆衝動◆

衝動に駆られた、巡り逢いだった。

まだ肌寒さが残る春。
私は、見ず知らずの男と二人で旅をした。

岐阜の隠れ宿である。

宿の最寄り駅に続く、ローカル線の乗り口で待ち合わせた。
それが、二人の初対面だった。

彼は、静かな"間(ま)"の持ち主で、
話していてもいなくてもすっと身を委ねたくなる、心地良いリズムのある人だった。

電車の座席に腰掛け、揺られながら話していると、
ふと何かを思い出したかのように彼は笑い、こちらを指差して

「いい意味で期待を裏切られた。」

と、言った。

「どんな?」

私が聞くと、

「もっとアダルトなのかと思っていたら、可愛い女性だった。」

と、返ってきた。そして

「いいね。すごく、センシュアル。」

と、微笑んだ。

彼の、この言葉選びのセンスと表現は、
私を魅了するに充分だった。

旅をする前、彼とは何度か電話でもやり取りをしたが、
その時も

「見知らぬ男性に泊まりがけの旅行に誘われて、承諾しようとしている私は軽い女ですか?」

と問う私に、

「見ず知らずの女性をこうして旅に誘っている僕は、軽い男かな。」

と返してきたあたりもお見事で、それが故に私はなお

どうしてもこの人に会いたい。

と思ってしまったのだった。

最寄り駅には、宿からの迎えが来てくれていた。
私たちは車に乗り込み、
山の奥の、さらに奥深くへと運ばれていった。

宿は、山々と茶畑に囲まれた、美しい渓谷を見下ろす長閑な集落の一角にあった。
歴史を感じさせる、合掌造りの隠れ宿。
太い梁が組み合わされた、広がりのある重厚な空間がロビーになっていて、
設えてある暖かな暖炉の側で、私たちは宿帳をしたためた。

一日五組限定とは聞いていたが、
その日は私たち以外に一組だけの宿泊で、
館内はやさしい静寂に満ちていた。

案内された部屋は、広縁に露天風呂付の、掘り炬燵のある部屋だった。
夕食まで少し時間があったので、
私たちは作務衣に着替え、館内にある薬湯露天風呂に出かけることにした。

枇杷葉の薬湯を湛えた、2つの露天風呂。
天然温泉ではないものの、
清流を眺めながらの石造り露天と、
香り豊かな半露天の檜風呂。

先の人がちょうど出るところでその後は誰も来ず、貸切状態だった。
湯も熱すぎず、体が芯まで温まる程良い温度。
心がほどけていくほどに、しっとりと肌が潤っていくのがわかった。
一時間ほど出たり入ったりを繰り返し、
再び化粧を施して、私は浴場を後にした。

部屋に戻ると、まだ彼は帰っていなかった。
私は掘り炬燵に腰をかけ、そのまま眠ってしまった。

暫くして、微かな物音で目が覚めた。
掘り炬燵越しに、彼がいた。
彼は読んでいた本を静かに閉じ、

「そろそろ起こそうかと思ってた。もうすぐ夕食だよ。」

と、言った。

部屋でのゆったりとした食事の間、彼とはいろんな話をした。
日常の中で彼の仕事を目にする機会は多くあったので、
私自身、正直、そこに興味はあったけれど、
つかの間の休息で此処にいる彼の心境はわかりかねて、
私から仕事について何かを話題を振ることはしなかった。

話したければ話すだろうし、話したくなければ、それでいい。

多忙な人の休息の時に傍にいることができるのは、
ただ、それだけで幸せなことだ。

ふいに、私は箸を落とし、拾おうと俯いて驚いた。
作務衣がはだけ、片側の胸元が露になっていたからだ。
いつからその状態になっていたのかわからず、
慌てて身なりを整え、彼に目をやり

「ごめんなさい。」

と言った。
彼は瞼を伏せながら、

「どうして?」

と言い、

「綺麗だった。」

と、こちらを見つめ微笑んだ。

食事が終わると、仲居さんが布団を敷きに来てくれた。
私は上着を羽織って広縁の揺り椅子に座り、
春まだ浅い山の息吹と、渓流のせせらぎを感じていた。
風はなく、しかしながら冷んやりと澄んだ草木の匂い。
空は明るく、満月に程近いいびつな丸で、
何処からかふっと現れる甘い香りは、思いがけず人を惑わすような。

彼は再び本を読んでいたが、私がなかなか戻らないのを心配してか
広縁に続く障子を開け、私を呼びに来た。
そして軽く頭を柱に持たれかけ、

「風邪引くよ。」

と、やさしく笑った。

その後のことは、あまりはっきりとは覚えていない。

どんな流れで彼に抱かれ、また、彼を抱いたのか。

残っているのは
月夜の灯りに動き揺らめく彼の影と、
気を許せば遥か遠くまで連れ去られそうな、春の夜の妖しい気配。
冷たい空気とは裏腹の、熱い肌の感触。

夢現(ゆめうつつ)の中で、いつしか私たちは眠りについた。

翌朝、部屋の露天風呂に一緒に入った。
湯船につかり、背中越しに私を抱きながら、彼は言った。

「いつも休みの後は帰りたくないなって思うんだよね。現実に。でも、実際は、慌ただしい現実があるからこんな休息があって、それでバランスが取れていたりする。君みたいな人との出逢いも、ある。」

私は黙って頷き、軽く振り向いて彼の首筋に口づけた。

「ありがとう。」

彼もまた、私のうなじに口づけて、

「ありがとう。」

と言った。

その後、新幹線の乗り口で私たちは握手をして別れた。
お互いに振り返ることはなく、それぞれの現実へと戻っていく。

衝動から始まっていながら、私たちが冷静でいられたのは、
これが自分たちの現実ではないということを、互いに理解していたからだろう。
しかしながら
魂の孤独は時に残酷で、
身近な人では満たされないものを誰もが抱えている、
という現実をも、私たちに突き付ける。

寄り添えること。
寄り添ってもらえること。
そして、その時間を共有できるのは、
本当にただ、ただ、それだけで特別なことなのかもしれない。

◆◆◆◆◆◆

私の"千一夜物語" 第四話。
十二年前の衝動が生んだ巡り逢いのお話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?