"株式会社"が衰退する日(到来した人類史上の大きな変革の波)
最近、極端な妄想を書いているが、妄想ついでに書いてみる。
ざっくり地球を俯瞰してみると、まことにおかしな状況だ。
1%の超富裕層と99%の中間・貧困層。
仮に1,000億もあると、利子や配当だけで豪華な生活が送れる。
富める者はますます富み、それ以外は日々の生活を送るか、送ることすらできない。
日本では7人に1人の子供が貧困世帯という現実。
富める者はブランド品を、数百万一括で買い求め、貧困世帯は手取り10万に届くかどうかでぎりぎりの生活を送る。
では富める者=能力が高く、貧困=能力が低いのか?
断じてそんなことはない。
むしろ政治における再分配機能が極端に低下してしまった結果、貧富が「世襲」されているのが実態なのだ。
たまたま富裕層に生まれた人。そうではない人。
所得格差と、格差の世代継承。
しかし、これは資本主義の宿命である。
トマ・ピケティを持ち出すまでもなく、かのカール・マルクスが当の昔に喝破していたことだ。
斎藤 幸平氏の『人新世の「資本論」』 (集英社新書)がベストセラーになっている。
これはいわゆる共産主義とかそういう過去の歴史やレッテルを貼られた視点ではなく、純粋に「資本論」を原理原則から読み直してみえてきたことが書かれている。
こうした本が売れているということは、どこかで人々は「何かがおかしい」と思っているということだろう。
■株主至上主義という本末転倒
だいたい”株式会社”というのが、だいぶ胡散臭い形態になっている。
大抵、上場すると経営者たちは、途端に株価・株主を気にし始める。口ではステークホルダーといいいながら、やっていることは「株主至上経営」だ。
減収減益になっても配当金は減らさないし、増やすところもある。
おかげで従業員はクタクタだ。
経営者が勝手に妄想した中期計画の最終年度。
「あと1億で、100億達成だ!」とハッパをかけられる。
少々長時間残業が常態化しようが、鬱病による休職者が出ようがおかまいなしだ。
しかし「あと1億」になんの意味があるのだろうか?
少なくとも従業員の幸福にとっては、なんの意味もない。
99億でも利益をしっかりあげていれば企業としては合格だ。
経営者が、勝手に株主に宣言しちゃった「100億」というのが、投資判断になってしまっているというだけの話だ。
だったら、経営者は株主に堂々といえばいい。「100億は未達。だが、企業基盤は盤石で、サービス評価も高く、今後10年先の未来を描くことできる」と。
しかし、今の(大企業の、特にプロパー社長)経営者は、そんな肝っ玉は持ち合わせていない。
そもそも企業はなんのためにあるのか?
私はステーク・ホルダーなどという「みんな大事だ」という言い方は虚偽だと思っている。
企業は「従業員とその家族の幸福のため」に存在しているのだ。
ところが今や、株主至上主義がさも当然のようにまかり通っていて、「株価のために人間が生きている」といっても過言ではないくらいだ。
■富の格差とじゃぶじゃぶの金融マネーを生んでいるだけなのではないか
そもそも企業というのは、別に株式会社である必然性はない。
アマゾンジャパン合同会社、Apple Japan合同会社、合同会社西友・・
非上場でも有名な企業もいくらでもある。
日本生命保険、サントリーホールディングス、竹中工務店・・
明治時代。
まさに渋沢栄一のいた時代。
まだ国家経済が未熟で、資金調達もままならない時代。
株式会社というのは実に有効な手段だった。
しかし、今や巨額の金融マネーはじゃぶじゃぶに潤っていて、投資先を求めて地球を蛇のようにとぐろをまいている。
お金はじゃぶじゃぶに余っていて、しかもそれを手にしている人間は極めて少数だ。
これは先進国だけの話になってしまうが、先進国は成熟経済となっていて、資金調達の手段も多種多様になっている。
そう考えると、別に上場株式会社だけが「王道」の時代ではなくなる気がする。
まして、わけのわからない株主至上主義に振り回されているとあっては、私たち人類にとっては害悪な存在に成り下がってしまうかもしれない。
「上場大企業=投資家=超富裕層」
この構図がぐるぐる何回も回転して「富の格差とじゃぶじゃぶの金融マネーを生んでいる」だけではないか?と思いたくなる。
■私たち人間にとっての幸福と100年単位の変革
とはいえ。
冒頭お断りさせていただいた通り「極論&妄想」の話である。
自分で書いていても、突っ込みたくなるくらいの文章ではある。
しかし、「所得格差の拡大」「金融資本主義」については反論の余地はあまりないだろう。
そしてそれを支えている、上場株式・株式会社の存在。
確信をもっていえるのは、今は100年単位の変革の時代だということ。
つまり翻っていえば、私たちが当たり前、あるいは当たり前だと思っている慣行やシステムすべてを、客観視する必要がある、ということだ。
そして、そのとき大事になってくる視点は、
『人間の”真”の幸福』のため
”真”の・・・と表現したのは理由がある。マズローの欲求段階ではないが、人間の低いレベルの欲求を満たすために、地球環境を破壊し、誰かから何かを奪うようなものは「真」ではない・・・という思いからだ。
私たち人間にとって生きるとはどういうことなのか?
私たち人間にとって幸福とはなにか?
その上で、100年単位の視点で、今の政治・経済、教育などあらゆるシステムを見直してみること。
働き方もそう。家事や育児といった生活の場面もそう。
あらゆる「生きる」場面において、その慣行やシステムが、「幸福」にとって最適なのか?という視点が不可欠だと痛感する。
だから、今、私たちに求められているのは、そういう視点での活発な議論ではないか?と思うのだ。
100年単位の変革を見据えた議論ができる時代。
そう考えると、ある意味、私たちはワクワクする時代に生まれているともいえる。
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