学而1-8 で あそぶ
子曰く、君子は重からざれば則ち威あらず。
学べば則ち固ならず。
忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。
過てば則ち改むるに憚ることなかれ。
「君子は、
立ち居振る舞いが悠然としていて、
他の人からなんかあの人は普通の人とは違うなーと
感じさせるようであるべきだし、
学べば学ぶほど、考えが自由柔軟になるべきだし、
自分といろんな意味でなじまない人と常時つるむべきじゃないし、
間違った!と思ったら潔く間違いを認めて
言動を改めることに躊躇すべきじゃないよ。」
学而1-8 この言葉の中で、「過てば則ち改むるに憚ることなかれ」はとっても有名ですよね。これがよく使われるってことはそれだけ「間違った!」と思ってもメンツとかなんとかを気にして態度・言動を改めない人が多いってことですよね。
確かに自分自身でもやっちゃったなーって思っても素直に「ごめん!間違えた!」って言いにくい瞬間あるもん。
特に、あまりにも確信に満ちてやっちゃってるときとか。
この気持ち、なんなんでしょ?
常に、人の目や反応を気にしてるからなんでしょうね。恥ずかしいとか、がっかりされるかもとか、軽く見られてしまうかもとか。
ただただ自分が自分をごまかしたりがっかりしたりしないために、
「自分は成熟した人間として、どうあろうとするか?」が大切なのに、
「人からどう見られるか?」の方が気になる。
と、つらつら考えてくると、この言葉全体に通底するポイントがなんとなく見えてきた!
「忠信を主とし」。
ここですね。
忠=まごころ。自分の中に嘘偽りがないこと。
信=これも、まこと。偽りがないこと。
つまり、
「自分が思うところあるなら、周りに左右されんな!」。
でも同時に、
「固執したり、変える事を恐れず柔軟であれ!」。
かな。
誰だって、なんとなく周りの空気に合わせてノリで振舞ってしまうことがあるけど、それであなたは人として真っ当だと言えるの?
誰だって、ある領域に詳しくなればなるほど、自分が正しい!ってなりがちだけど、それであなたは人として真っ当だと言えるの?
誰だって、嫌われたくないしどんな人ともいい感じで付き合う方が生きやすいかもしれないけれど、でも、どうも自分とは見ている世界・願う世界が違うなって人に合わせてて、それであなたはその人たちに引きずられずにいられるの?それで、自分にがっかりしたりしないの?
中心にあるのは、「自分は人として、社会人として、どうありたいか?あるべきか?」だけれど、
他者との関係を抜きにしては生きられないからこそ、
常に「自分の心を見つめ、忠・信に照らす」ことが大切ってことなんだと思う。難しいけど。