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#短編小説

【短編小説】『簪(かんざし)』

【短編小説】『簪(かんざし)』

 こんな空の色にも、立派な名前がついていることを菜津子は知っていた。

 三日三晩降りつづいた秋雨がやんだ。やんだはいいが、黄昏の空には象のお腹みたいに硬くて分厚い雲がいっぱいに残っていた。

 思い出すのもこんな空模様の夕方のこと。

 学校から大急ぎで帰った、当時八歳の菜津子を玄関で迎えてくれたのは祖母だった。

「なっちゃん、おかえり。まあ、傘もささんと!」

「ただいま、おばあちゃん! 雨

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「蝶とショパン」【短編小説】

「蝶とショパン」【短編小説】

 鈴子がショパンのワルツを弾いていると、窓辺の光の束がわずかに揺れた。カーテンをそよがせて、夏の風が吹いたのだ。それだけではない、風に乗ってひらひらと一羽の蝶が音楽室に迷いこんだ。鈴子はピアノを弾いていた両手の指の動きをとめた。

「こんにちは、アゲハ蝶さん」

 ショパンの残響のなかにアゲハ蝶は舞った。空気のかすかな振動を丁寧に羽で受けとめて、それに全身をあずけたような儚い舞姿だった。

 鈴子

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『大いなる一瞬のための70万時間』【短編小説】

『大いなる一瞬のための70万時間』【短編小説】

「そこのお兄さん。お兄さん、きみだよ、きみきみ」

 帰ろうとしたところを呼び止められた。しわがれてはいるがいきいきとして明瞭な声が背後に響いた。僕はすこし躊躇ったが、仕方なく踵を返して、テーブル席に不安定に腰掛ける老人を振り返った。

「きみは、〝大いなる一瞬のための70万時間〟について、どう考える?」

 僕ははじめて見るその老人を、瞬時に「ソクラテス」と命名した。おそらくは哲学に分類されるで

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