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「それは子どもに言っても仕方ないことだよね?」と思うこと

こんばんは、保育士ライターのあきです。
保育園に入園したばかりの0歳児が、未知の世界から逃れようとぎゃんぎゃん泣くのに付き合う毎日。
どれだけ泣かれようと、0歳児というだけで全てが許される・・・すごい存在だなと日々かみ締めています。


今日のテーマはタイトルの通り、「それは子どもに言っても仕方ないことだよね?」と常々感じていることについてです。
冷静に考えれば「これは子どもに対して言っても、どうにもならないことだよなぁ」ということもあれば、無意識に子どもに対して感じていることだけど「責任は大人にあることだよなぁ」ということもあります。

例えば、甘えたな子。
誰かがずっと傍にいないと落ち着かなくて、ちょっと離れるだけでぎゃん!と泣き出す、そんな子。
大人としては、思うように仕事や家事が進まないので困るわけで、つい「甘えたで困った子だなぁ」なんて言ったりしないでしょうか。

でもこれ、言われた子どもにどうにかできることではないですよね?

元々の性質からきているのかもしれないし、それまでの生活からそうなっているのかもしれない。
理由はそれぞれですが、子どもに責任があることではありません。
なのに、つい子どもに対して「甘えたなんだから・・・」とこぼしてしまう。
これは保育士でも、子育て経験が豊富な方でもやりがちです。
私も以前は言っていた気がします・・・

見方を変えることで自分の考え方が変わったな、と感じているので、どう見方を変えたのかを書いてみようと思います。

「責任を分けて考える」という考え方

これはアドラー心理学を勉強している時に出会った考え方です。
物事の責任の所在はごちゃ混ぜにせず、本来責任を負うべきなのは誰なのかを明確にする、そんな考え方だと理解しました。
(正確には違うかもしれません、私の理解の仕方ということでご了承ください)

先ほど書いた、甘えたな子。
誰かがいないとダメ、不安で泣きたくなる・・・
そんな子の気持ちの責任は誰にあるんだろう?

生まれもった気質である場合、責任はその子にはありません。
なので、その子に対して「甘えたなんだから・・・」と言うより、不安を感じやすい子なんだと理解した上で対応を考えた方が、大人も子どもも安心してスムーズに活動できるようになります。

これまでの生活から影響を受けている場合も、責任はその子にありません。
第一子だったり、親御さんも不安を感じやすかったりすると、子どもと大人が一緒にいる時間が多くなる傾向があります。
そのため、子どもも大人とずっと一緒にいるのが当たり前で、大袈裟に言えば、世界はそういうものだと思っているわけです。
特に0~2歳くらいの子どもは世界が狭いので、家庭の影響がすごく大きい。
家庭で行われていることは、外の世界でも同じように行われると信じて疑っていません。
だから、急に一人にされたら不安になって泣くのは当たり前。
子どもにしてみても、「なんで急に一人にするの!?」と大混乱でしょう。
こういう子どもは慣れてくれば一人でも平気になることが多いので、「ここではこういうものなんだな、これでも大丈夫なんだな」と納得してくれるまで付き合います。

責任を分けて考えるようになってから、子どもに対してイラッとすることが格段に減りました。
「そうだよねぇ、しょうがないよねぇ」という気持ちで対応できることが増え、「大人の勝手で振り回してごめんね?」という気持ちになることもあります。

ただ、子どもに責任がないと考えることは、大人に責任があって大人が悪いんだと考えることとは違います
親御さんを責めるつもりもありませんし、保育士を責めるつもりもありませんし、自分を責めるつもりもありません。
ただ、子どもに責任がないことだから、子どもにあれこれ言うのは止めようと思うだけ。
私自身そうなんですが、自責に走りやすい人にとって、「責任を分ける」という考え方は諸刃の剣だなと感じることもあります。
自分に責任がないと判断できれば、不必要に自分を責めることはないかもしれない。
けれど、自分にも責任があると判断してしまったら、とことん自責に走ってしまいそうで・・・自分でも気をつけているところだったりします。

子どもへの言葉は、ラベルになってしまうかもしれない

ラベリング、という言葉をご存知でしょうか?
人から言われた言葉から、「自分はこういう人なんだ」と思い込んで自分にラベルを貼ってしまう、といった意味合いの言葉です。
自分で自分にラベルを貼ってしまうこともありますね。

例えば、大切な約束の日に寝坊をしてしまったとします。
いつもは寝坊なんてしないのに、その日に限って寝坊をしてしまったことに落ち込んで、あなたは「どうして自分はこうなんだ・・・大切な場面でいつもミスをする・・・」と自分を責めました。
ここで、自分に「自分は大切な場面でミスをする人間」というラベルを貼ってしまっています。
そして、別の大切な場面に出会った時に、このラベルの存在を思い出してしまうんです。
「ああ、自分は大切な場面でミスをする人間だから・・・きっと今回もミスをするに違いない・・・」と。

ラベリングは大なり小なり、誰しもが身に覚えのあることではないかと思います。
しかも、大半が無意識なんですよね。
だからなかなか気がつかない。

恐いのは、自分で自分にラベルを貼るのも無意識ですが、他人にラベルを貼るのも無意識に行っている、ということなんです。

先ほどから例に挙げている子に関しても、大人からの「甘えたなんだから・・・」という言葉がラベルになってしまう可能性があります。
まだ言葉が分からない0歳児でも、表情や態度が言葉の代わりを果たします。
「甘えたなんだから・・・」という言葉や、その時の表情や態度から、自分はマイナス評価を受けているんだということを、実に敏感に感じ取っているんですね。

大人からしたら、ちょっとした愚痴のような一言で、1時間後には忘れている言葉かもしれません。
でも、言われた子どもにとってはそうじゃないかもしれない。
大好きな人からマイナス評価を受けた、というショックは、大人でも結構尾を引きますよね。
子どもにとっては、大人以上のショックを受けると思っていいと思います。

そういう、ちょっとした言葉が積もり積もって、子どもの自己肯定感を下げてしまうこともあるんです。

「それは子どもに向ける意味がある一言?」という一呼吸

言葉が分からない0歳児でも、言葉のもつ雰囲気や相手の表情をしっかり感じ取っています。
言葉が分からないから、とぽろっと出た一言が、子どもをますます不安にさせるかもしれない。
その可能性に気がついてから、子どもに向ける言葉にすごく敏感になりました。

私自身、とても自己肯定感が低くて、子どものころからすごく生きにくかった。
いろいろと知識がついて、どうして自分の自己肯定感が低いのか?と考えてみると、子どもの頃に言われた一言が根深く突き刺さっているからだ、と気がつきました。
悪意があって言われた一言だけでなく、全く他意はなく言われたんだろうという一言もあります。
他意はないというのに、その一言は数十年経ってもまだ私から消えていないという事実・・・この記憶力、もっと別のところに使いたかった・・・というのが正直なところですが、そううまいこといきませんね。

私の言葉が、全く子どもを傷つけないか、マイナス感情を抱かせないかというと、残念ながらそんなことはないと言い切れません。
私と子どもたちは別の人間で、感受性も、経験も、知識も違うので、同じ言葉をどう受け取るか私には想像することしかできないから。
それこそ、私に数十年突き刺さったままの言葉も同じ理由なのでしょう。

とはいえ、私は保育のプロで、自分自身が生きにくさを抱えている人間でもあります。
「それ、子どもに向ける意味がある?」という一呼吸は、常に保ち続けたいと思っています。

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