【マンガ】『ゴールデンカムイ』その②鶴見中尉の謎を解きに行こう!!——小指の小さな道しるべ 【マンガ・児童書・映画】『ゴールデンカムイ』『大空に生きる』『七わのカラス』『ディア・ハンター』『太陽の子』『ビルマの竪琴』を考える!…そしてちょっとだけ『スピナマラダ!』
「その①」からの続きです。
お読みになっていない方は、ぜひ先にこちらを!
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それでは。主文を回収しつつ、まとめていきます!!
まずはご一献
◯実在の長谷川篤四郎について考える
モデルとなった、長谷川篤四郎が小指を捨てなかった理由は何だったろう?
彼自身にも言葉にできるような、確たる理由はなかったかもしれない。それはぼんやりと虚ろに滞った何かだ。
無意識の中に漂う心の滞留。思い残す、とは、かくあるものなのだろうか。
彼は、浄化の時を、「とき」に託したのだ。それが鍵であると知らなくとも、心のどこかで察していたのかもしれない。
そのひそやかな声は野田ニシパによって、そしてまた、物語の形成に作用した幾億、幾兆ものカムイによって拾い上げられ、北の地を舞台に描かれた物語を生きる鶴見中尉を経由し、モデルとなった実在の人物、長谷川篤四郎に回帰する。
凝ったなにかが解けてゆき、鍵にぴったりの似合いの小箱が見つかる。
このような奇跡が起きるとは誰も想像しなかったろう、だけど現実は、いつだって虚構をしのぎ、超えてゆく。
絡んだ糸は解れる。近づくことすら不可能だった場所に到達し、痞えていたなにかが氷解する。
長谷川篤四郎の魂は、野田サトル先生の作品に宿るカムイとともに、時空を超え次元を跨いで浄化のときを迎えた。
小指の骨は役割を終えた、傷をつけ、長谷川篤四郎ニシパの元へ送ろう。
何があったか誰ひとり知らない、知るための手段はどこにもない。
しかし今こそ、この小さな骨を抱き、哀しみに到達して欲しいと皆が願う。
あなたの喪の作業を、我々はあなたとともに行おう。
ゴールデンカムイを知る、すべての人々が想いを馳せる。
鎮魂の詩は、今こそ高らかに歌い上げることができるのだ。
彼らは人間に戻りたい。
妹は兄たちを人間に戻したい。
「アシㇼパさん」が杉元を人間に還してあげたいと思うように。
その役割を担うのは、少年や少女、あるいはその魂を持ち続ける者、あるいは聖職者たちだ。
彼らは世俗に塗れることがなく、生命の欲望に左右されないので、多くの人々が汚れとともに失ってゆく鍵を見出せる。
あるいは、欲望に不可欠な部分を自ら切り落とし鍵となして、謎の小箱を探す旅に向かうことができるのだ。少女の小指から落つる血潮。
少女らはなにも知らぬ純真の赤子ではない。切り落としの通過儀礼を経た大人、誰よりも絶望の痛みを理解する年寄り、齢を超越した120歳の巫女でもある。
若者たちは日本へ帰りたい。
帰ればきっと、ひとの姿に戻れると思うから。
多くの兵士が思うだろう、帰ろう、帰ろう、故郷に戻ることができたなら、干し柿を食い、餅をついて、あの軽やかに甘い水蜜のときを、取り戻せるに違いない、と。
しかし、それは叶わぬのぞみなのだ。
ベトナム帰還兵は、もとのひとの姿に戻れただろうか?
◯『ディア・ハンター』のニックはどうだったか?
ベトナム帰還兵は、もとのひとの姿に戻れただろうか?
生きて戻るがその精神は業火の中に取り残されたまま。彼らの意識は未来永劫無期限に極限状態を彷徨う。
平和の社会には二度と再び帰属不能になった人々、拳銃を頭に突きつけて、何度も何度も死の瀬戸際を繰り返す、映画『ディア・ハンター』でクリストファー・ウォーケンが演じたその若者、狂乱の渦から抜け出すことはできなかった精神の成れの果て、あの凄惨の光景は、彼らの内部に依存する逃れようのない現実なのだ。
◯『ビルマの竪琴』の「水島」という創作性
ミズシマは、今こそ人間に戻りたい。このまま日本へ帰っても、彼は自分が元の姿に戻れないと知っている。そんな安易な結末には決してならないと解るのだ。注5
けれど彼は、『ディア・ハンター』の若者とは違い、物語の創作者からとんでもない力を宿される。竪琴による音楽という底無しの活力を。
彼の奏でる竪琴の調べは私たちに夢を見させる、それは絶望の淵にあって生きる命の頼りとなるもの。人間性の破壊という喪失の謎を解く鍵が、今手元にあるのかもしれないという希望だ。
ビルマで終戦を迎え、行方不明になった水島上等兵は、僧侶の姿で仲間たちの前に現れる。「水島、一緒に日本へ帰ろう」と呼びかける皆々の声も虚しく、彼は慰霊のためにビルマに留まるという選択をする。
作者である竹中道雄氏自身が「空想である」と明言するこの物語には、中村光夫氏の解説にあるとおり、創作ならではの思想という拡張が存在している。その形は人々に、遠く彼方に望みを持って、今生のギリギリを生き延びる余地を与えるのだ。
名もなき戦死者たちを弔い、ひとの姿に還したら、自分も、生き残った仲間たちも、狂気の渦に呑まれた人々も、また人間の姿に戻れるのではないだろうか?
だから彼はビルマに残り、『太陽の子』ふうちゃんの「おとうさん」は、人外の怪物に蹂躙されたその記憶に耐えきれず、正気下の人格を放棄する。娘は父の自我が崩壊してゆく有り様を目撃し続け、最後には死をもって、ひとの姿に還ろうとした父を発見する。
◯『太陽の子』ふうちゃんと沖縄戦について
灰谷健次郎氏の『太陽の子』。主人公のふうちゃんは、沖縄出身の両親をもつ、神戸っ子だ。時代設定は終戦30年後、1975年あたり。
ふうちゃんは、両親の営む沖縄料理店をよく手伝い、病気の父を助け、お店にくるお客さんたちに愛される多感で闊達な小学6年生の女の子だ。
「おとうさん」は精神を病んでいる。店に来るお客さんの中にも沖縄出身の人々がいて、それぞれに何かを背負っている。ふうちゃんは「おとうさん」が大好きで、父の精神を蝕むものに心を痛めている。ふうちゃんは思春期直前。もはやなにも知らぬ子どものままではいられない。彼女は周囲の人々と深く関わり合い、悲喜交々の体験を重ねながら、沖縄戦の影と対峙してゆく。
ふうちゃんは、人を逸らさない少女で、物語のテーマの重さとは裏腹に、その軽やかは目を見張るほど。ギッチョンチョンに軽口を叩き、キヨシ君を言い負かす。
しかし、そうしたふうちゃんの、伸びゆく若木のような成長とは逆行して、父の病状は徐々に悪化する。
終戦から20年が経ち、30年が経とうとしている。何が彼を苦しめるのか?どうして未だその記憶に苛まれ続けてしまうのか?戦争マラリアに?沖縄戦に?もちろんそれらは病状の理由のすべてではないかもしれない、けれどもまったく関係がないとも言い切れない、あの土地で起こった残酷の数々は、体験したものにしか通じない、言葉で伝えることが不可能な何かだ。彼は時に訳のわからない言葉を呟き、時に何かを探しに出かけ、時に失踪する。周囲の人々はこの疾患の行き着く先を懸念している。
ふうちゃんは希望を持って、父を支え続けるが、終盤、ついにその日が訪れる。
ふうちゃんは声を上げて泣かない。焼香をすすめられるが首を振って固辞する。二度目にゴロちゃんがすすめた時、ふうちゃんは叫ぶ。
今でもぶたれたお尻が痛い。なのになぜおとうさんが死んでいるのか、阿呆、とふうちゃんはいう。
物語の終わり、ふうちゃんは沖縄出身の少年キヨシ君と出かける。父との思い出の場所へ、お弁当を持って。そして自分は将来「子どもをふたり生むねん」といい、ひとりはわたしのおとうさん。もうひとりはキヨシ君のお姉さん。と発言する。
太陽の子・ふうちゃんの父が、因果の説明をつけることのかなわない、非業の結末を迎えたにもかかわらず、吹き抜ける風のような救いが見えるのは、このためだ。ふうちゃんは、父を生み、キヨシ君の自死した姉を生むという形をもって未来に臨む、その場所へ至る扉を開くために。
出産という血のりを上げるということ、小指を切り落とし血を流し、そしてまた血を流すということ、父を真のひとの姿に立ち返らせるために歩むということ、そこへゆくために、自らの命を使うということ。解放のための核である鍵が、彼女の真芯の決意にありありと見て取れる。
それは物語の中盤において、この少女が賢く聡明であるが故に、年寄りたちの口から、人々の過去から、数多くの資料から、父の病の全容を解き明かそうとした姿勢、語ろうとしない母を傷つけ、片腕のろくさんもキヨシ少年の母親も と、ギッチョンチョンに正答を求め詰め寄った、もどかしい色々とは少し違う。
ひとの姿に還りたかった父の亡骸を見つけたこと、これこそが魂の安寧を実行するための、鍵の金型だったのだ。
それがわかるので、私たちはこの『太陽の子』という物語に、その終わりに、始まりがあると感ずる、少女らしいふうちゃんの望み、小指の鍵を持って解放への遠い道のりを歩もうと明日へ向けて面舵を切る、泣きたくなるほど真摯で、いのちのあり方に溢れたエピローグだ。
この最後のふうちゃんの姿こそが、『ゴールデンカムイ』のアシㇼパであり、『七わのカラス』の妹であり、『ビルマの竪琴』の水島なのだ。
おわりに
ミズシマは日本には帰らないと決意する。
ビルマの「竪琴」、すなわち現在のミャンマーの伝統楽器「サウン・ガウ」にはバチがない。使うのは両の手指であり、それは解放の場所へゆくためのカギなのだ。
ミズシマの仲間たちは別離という回答を受け、落雷に打たれたか如くに得心する。
仲間たちはすべてを理解する。ミズシマ、ミズシマ。お前の気持ち、俺たちにわからないはずがあるだろうか?
かえろう、かえろうミズシマよ。その身を置く地に万里の隔たりがあろうとも、君の魂は僕らとともにある、我々はみな、いつの日かひとのすがたにかえりたい。
小指のカギにぴったりの、解放の扉を見つけたら。
謎を解くためのほんとうの小箱を見つけたなら。
兄たちは、人々はみな、ひとの姿に戻ることができるだろうか?
切り離された小指の痛みは、今もなお、多くの人々の集合意識として、世界中のありとあらゆる場所、ありとあらゆる時のそこここに存在して、役割をまっとうする日、いつかその存在のもとに送られる邂逅のときを待っている。
ああ、カムイよ。
今は叶わなくとも、弔いのときをいつか迎えよう。
私たちはかえりたい。
いつかまた、ひとのすがたにかえりたいのだ。
あなたにも、少女の見出すあの道標が見えるだろうか?
若ワシの失われた一本の、ミリミリとした痛みとともにある、その切望は
ひとに還り ひととして逝く
安らかなる魂ための、小さな小さな道しるべなのである。
***
さてご返杯
もちろん、『スピナマラダ!』も経由してます。水嶋く…ん!
注
1)https://www.countrygentleman.co/post/historyofmensring, 2024-9-8閲覧
2)https://spap.jst.go.jp/india/news/220203/topic_ni_04.html, 2024-9-8閲覧
3)長谷川篤四郎さんについては、ファンブックの記載に準じ、記事中、敬称略といたしました。
4)この映画のベトナム戦争の描き方には、いろんな意見があるのですが、それとはまた別で、ひとりの人間の精神の荒廃を、あれほど鬼気迫る映像に創りあげたチミノ監督は、やはりスゴイと思ってしまいます。同監督の『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』もお勧め。
5)本記事中の「ミズシマ」とその仲間たちは、私の想像の産物です。原作の「水島」とは少し違った、新たな切望の物語となっていることをお詫びいたします。
6)新潮文庫版の後付け(あとがき、解説、その他)は、本作品の俯瞰的な読み解きを可能にする重要なもので、私は今回初めて読みとても驚きました。創作の無限の可能性と、事実との解離により生じる危うさ。大変考えさせられますが、言及は増長にすぎるので割愛😭。電子版には載っていないため読むなら紙書籍をぜひ!
7)ろくさんとキヨシ君の母については、ふうちゃんならそうするだろう、というギッチョンチョンの想像です。
8)『スピナマラダ!』は『ゴールデンカムイ』の前作長編漫画。現在セルフリメイク版の『ドッグスレッド』が連載中。『スピナマラダ!』では野田サトル先生の「水嶋くんの物語」に出会えます。
参考資料
金田鬼一. 七羽のカラス: 完訳グリム童話集. 第一巻. (岩波文庫). 岩波書店, 1979.
竹中道雄. ビルマの竪琴. (新潮文庫). 新潮社, 1948.
竹中道雄. ビルマの竪琴. (偕成社文庫3021). 偕成社, 1976.
トリシャ・グリーンハル 他編. 斎藤清二 他監訳. ナラティブ・ベイスト・メディスン: 臨床における物語りと対話. 金剛出版, 2001.
中川裕. アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」. (集英社新書). 集英社, 2019.
野口裕二. 物語としてのケア: ナラティヴ・アプローチの世界へ. 医学書院, 2002.
野田サトル. ゴールデンカムイ. 全31巻. 集英社, 2015-2022
野田サトル. ゴールデンカムイ公式ファンブック 探求者たちの記録. 集英社, 2020.
野田サトル. スピナマラダ!. 全6巻. 集英社, 2011-2012.
灰谷健次郎. 太陽の子. 理論者, 1978.
灰谷健次郎. 太陽の子. (角川e文庫). 角川書店, 2014.
ファン・フェネップ. 通過儀礼. (岩波文庫). 岩波書店, 2012.
フェリクス・ホフマン(絵). 瀬田貞治(訳). 七わのカラス. 福音館書店, 1971.
マイケル・チミノ監督. ディア・ハンター. ロバート・デ・ニーロ. クリストファー・ウォーケン. ジョン・カザール出演, 1978.
椋鳩十. 大空に生きる. 偕成社, 1975.
謝辞
(あいうえお→アルファベット順です)
資料の当たり方に、豊かな指針を示してくださった久藤 あかり | はじめまして!さんに、たくさんのお礼を申し上げます。ありがとうございました!
ナラティブとしての「ものがたり」について考えるきっかけをくださいました齋藤信@シゴトバさんに、たくさんのお礼を申し上げます。記事中の表記は、文化庁・送り仮名の付け方(通則7)より、「物語」に統一いたしましたが、人間の営みとしての「ものがたり」について、今後も理解を深めていきたいと思います。ありがとうございました!
思いがけないコメントで、私の筆を動かしてくださったぷるるさんに、たくさんのお礼を申し上げます。ありがとうございました!
アシㇼパさんにぴったりの画像を選ばせていただきました。ご提供くださったtaiinさんに、たくさんのお礼を申し上げます。ありがとうございました!
おまけ(最重要事項)
なんだかとんでもないものを見つけてしまった……どうしよう。
(小指にネコというセンス。二階堂浩平もびっくり)
っていうか、すべてはこれで良いのでは……???
(心の平安のためにはネコを実装すればイイ……!しかも、小指に!!!)
実行可能かを考える!
今の時代、意外にすんなり実現できるのかも……。
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フジムラさん。
本記事作成中に、小指のネコを見つけた私は、完全に意表をつかれ、うろたえてしまいました。す…素晴らしい解決策です!!
たくさんのお礼を申し上げます。
機知の効用と、安らかな心のための実践のカタチをいただきました。
ありがとうございました!
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注:ちなみにフジムラさんは、小指のネコに偏執しているわけではありません。
記事は、確かな知識と見識を下敷きに縦横無尽、楽しさ見事てんこ盛り!です。
「akiと本」では情報がテーマに沿ってひどく偏りますのでご注意ください…。
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次回は短い記事を投稿する予定です!