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斎王に関係する古典文学の話


はじめに

 前回は斎宮のことについてお話しし、斎宮跡のことなどを文献史料と考古学史料で簡略して説明してきたわけですが、今回は古典文学のお話になります。
 斎宮の制度が確立していくのは天武天皇頃だとお話ししましたが、それ以降に作られた歌集『万葉集』に斎王が作った歌が残っていますし、斎宮が大規模なものになっていく平安時代には物語の舞台として登場してきます。
 古典文学に残る斎王の痕跡に触れて、歌が詠まれた当時の斎王の思いやその背景に思いを馳せてみましょう。

大伯皇女(おおくのひめみこ)が残した歌

 「斎王と文学」といった時、誰しもまず思い浮かべるのは大伯皇女(大来皇女)のことではないでしょうか。『万葉集』に次の歌があります。

大津皇子(おおつのみこ)竊(ひそ)かに伊勢神宮(いせのかむみや)に下(くだ)りて上(のぼ)り来る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首
我が背子(せこ)を大和へ遣(や)るとさ夜ふけて
暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし
(2・105)
二人行(ふたりゆ)けど行き過ぎ難(かた)き秋山を
いかにか君がひとり越ゆらむ
(106)

 大伯皇女と大津皇子は、天武天皇と大田皇女(持統天皇の同母姉)との間に生まれた二人の姉弟(きょうだい)です。幼くして母を亡くしました。(皇女7歳・皇子5歳の時)
 『日本書紀』の天武天皇2年(673年)4月14日の条に
大伯皇女(おほくのひめみこ)を天照太神宮(あまてらすおおかみのみや)に遣侍(たてまた)さむとして、伯瀬斎宮(はつせのいつきのみや)に居(はべ)らしむ。是(ここ)は先(ま)づ身を潔(きよ)めて、稍(やや)に神に近づく所なり。
とあり、翌3年10月9日の条に
大伯皇女、伯瀬の斎宮より、伊勢神宮(いせのかむみや)に向(まう)でたまふ
とあります。大伯皇女は斎王として伊勢の神宮に来られたのです。皇女13歳の時のことです。

飛鳥京出土木簡
(奈良県立橿原考古学研究所保管)

 天武天皇は朱鳥(あかみとり)元年(686年)の9月9日に崩御されましたが、その24日、大津皇子は皇太子草壁皇子に対して謀反を起こし、10月2日にことが発覚し逮捕され、翌3日に処刑されました。これを大津事件といいますが、この事件のことは『日本書紀』と『懐風藻』にその様子が書かれています。
 前の歌に見える大津皇子の伊勢下向は、その9日間のことであったと思われます。そのようなただ中において、大津皇子は独り馬を駆けって、姉君に会いに会いに来られたのです。
 それは何よりも姉に自分の立場を告げ、もしもの場合の暇乞いのためであり、また神の加護を祈るためでもあったと思われます。皇女26歳、皇子24歳の時のことです。
 歌はこのような異常な事件を背景としてのものであって、それだけに弟皇子を思う皇女の愛情がひときわ深く感じられます。
 二人が会われたのはどこでのことでしょうか。現在発掘調査が行われている明和町の斎宮跡でその痕跡が発掘されると非常に面白いことになるのですが、現在のところ不明です。
 大津皇子が処刑されて後の11月16日、
伊勢神祠(いせのかみのまつり)に奉(つかへまつ)れる皇女大来、還(かへ)りて京師(みやこ)に至る。
と『日本書紀』に見えます。

大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京(みやこ)に上る時に作らす歌二首
神風の伊勢の国にもあらましを
なにしか来(き)けむ君もあらなくに
(163)
見まく欲(ほ)り我(あ)がする君もあらなくに
なにしか来けむ馬疲るるに
(164)

大津皇子の屍(かばね)を葛城(かつらぎ)の二上山(ふたがみやま)に移し葬(ほふ)る時に、大伯皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて作らす歌らす歌二首
うつそみの人なる我(われ)や明日(あす)よりは
二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
(165)
磯(いそ)の上(うへ)に生(お)ふるあしびを手折(たを)らめど
見すべき君がありといはなくに
(166)
右の一首は今案(かむか)ふるに、移し葬(ほふ)る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢神宮(いせのかむみや)より京(みやこ)に還(かへ)る時に、路(みち)の上(へ)に花を見て、感傷哀咽(あいえつ)して、この歌を作るか。

 大伯皇女は大宝元年(701年)11月27日に41歳で薨ぜられましたが(『続日本紀』)、『万葉集』に残る歌はここに引用した6首ですべてになります。

映像資料

 『万葉集』に残る大伯皇女の個々の歌についてはVtuberの藤花桜さんが分かりやすく解説なさっていますので、ご覧になってみてはいかがでしょうか。

我が背子(せこ)を大和へ遣(や)るとさ夜ふけて
暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし
(2・105)

二人行(ふたりゆ)けど行き過ぎ難(かた)き秋山を
いかにか君がひとり越ゆらむ
(106)

神風の伊勢の国にもあらましを
なにしか来(き)けむ君もあらなくに
(163)

見まく欲(ほ)り我(あ)がする君もあらなくに
なにしか来けむ馬疲るるに
(164)

うつそみの人なる我(われ)や明日(あす)よりは
二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
(165)

磯(いそ)の上(うへ)に生(お)ふるあしびを手折(たを)らめど
見すべき君がありといはなくに
(166)

平安朝文学と斎王

 平安朝文学と斎王に関しては、『栄花物語』などの歴史物語に実在の斎王の逸話が多く語られています。また、勅撰集や私家集や歌合などには、野宮とか斎宮の館を詠歌の場とする作品その他いくつかが収められています。
 しかし、斎王物語としては何といっても『伊勢物語』と『源氏物語』がもっとも著名だと思います。
 『伊勢物語』69段は、狩の使として伊勢に遣わされた男と斎王との間に交わされた次の有名な贈答歌を中心とする物語になります。
(斎王)
君やこし我や行きけむ思ほえず
夢かうつつか寝てかさめてか
(歌の意味)
あなたが来たのでしょうか、私が行ったのでしょうか。わかりません。
夢なのか現実のことなのか、寝ていたのか、目が覚めていたのか。
(狩の使)
かきくらす心のやみにまどひにき
夢うつつとは今宵さだめよ
(歌の意味)
悲しみにくれる心の迷いに途方にくれてしまいました。
夢か現実なのかは今宵(私の部屋に来て)決めてください。

 一方、『古今集』ではこの贈答歌の詞書(ことばがき)に、在原業平が伊勢の国に行った時、「斎宮なりける人」と密かに会い、その翌朝には女の方から「君やこし」の歌を寄越し、それに業平が「かきくらす」の返歌をしたとあり、「君やこし」の歌を「読人しらず」としています。
 『古今集』がどの程度の史実を伝えているのかはよく分かりませんが、なによりも贈答歌のもつ独特の雰囲気、殊に女の歌の逢い事を無我夢中の出来事とする戸惑いとおののきとが核となり、『伊勢物語』では、神に仕える女性と狩の使との斎垣(いがき)を越えた逢瀬というスリリングな物語に形成され、人間の願望や憧憬の激しさを訴えるものとなっています。
 なお、物語にはこの時の斎王が文徳帝皇女の恬子(てんし)内親王だという一文を加えて、人々の興味をいっそうかきたてようとしています。

絵・住吉如慶筆 詞・愛宕通福筆,Painting by Sumiyoshi Jokei (1599-1670), Calligraphy by Otagi Michitomi (1634-99),東京国立博物館,Tokyo National Museum『伊勢物語絵巻』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-48612)

 『源氏物語』に登場する斎王は、六条御息所の姫君で14歳の若さで伊勢に下向しましたが、その時母の御息所は光源氏との仲がうまくいかないこともあって、幼い斎王に付添って下る決心をします。
 出発が近づいた秋の一日、久しぶりに光源氏が野宮を訪れて、御息所と榊の歌(巻名「賢木」はこの歌にちなんでいます。)を詠み交わし、暁に二人が別れる場面はとても印象的です。

伝土佐光元筆,Attributed to Tosa Mitsumoto,東京国立博物館,Tokyo National Museum『源氏物語図扇面』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-166394)

この扇に描かれているのも源氏物語の一場面で、第十帖の「賢木(さかき)」というお話です。主人公、光源氏の恋人であった六条御息所が、伊勢神宮に仕えることになった娘に付き従うため、身を清める施設に入ります。そこへ源氏が訪れる場面です。中央の、榊を手に建物に向かっているのが源氏です。山の上には月が浮かび、夜の場面であることがわかります。

 ところで、この御息所のモデルと言われるのが、別に「斎宮女御」とも呼ばれる徽子(きし)女王です。
 女王はわずか10歳になるかならないかで斎王として伊勢に下り、7年間その任にあり、退下の後、村上天皇の宮中に入内し、間もなく規子(きし)内親王を生みます。
 その後、この内親王が斎王に卜定され伊勢下向に際し、40代半ばを過ぎた女王はそれに同行することになり、生涯に二度までも鈴鹿山を越えることとなりました。
 その時の感慨が

世にふれば 又も越えけり 鈴鹿山 むかしの今に なるにやあるらん
『斎宮女御集』
(歌の意味)
世に生きながらえると、またも越えてしまいました。鈴鹿山を。昔(少女の頃)にいた斎宮にもどり、またこうして、神にお仕えする身となるのでしょうか。

と詠まれています。
 このような徽子女王とその女斎宮の史実が、先の『源氏物語』の場面の細部にまで織り込まれているのは、作者の徽子女王に寄せる関心とその宿世への共感の深さを物語るものだと思います。

映像資料

 エピソードが残る斎王の紹介です。
 紹介した大伯皇女、恬子内親王、徽子女王以外にも逸話がある斎王は他にもいらっしゃるので、参考として映像資料をご覧になってみて下さい。

おわりに

 斎王に関係する古典文学の話はいかがだったでしょうか。
 過去にあった出来事の真相を知るということはとても面白いことですが、出来事だけだと面白さは半減してしまいます。
 その当時生きていた人が何を考えて、何を思ったのかを知ることができれば面白さに深みが増していくものです。
 これは、その逆もしかりで、古典文学を知ってその作品に込められた思いというのを感じとることは面白いことですが、ただそれだけだと面白さが半減します。作品が作られた背景を知ってこそ面白さに深みが増すというものです。
 私は物事を知るという好奇心を歴史、文学、芸術、宗教など色々な方面で持っていたいと思いますし、それを生涯持ち続けたいと常々そう思っています。最後まで読まれた方は知るという好奇心を大切になさって下さい。
 最後になりましたが、動画の引用を承諾してくださった藤花桜さんや最後まで読んで下さった読者のみなさんに「ありがとうございます。」と謝意を示し、この話を終わりとさせていただきます。

参考文献

澤瀉久孝 『萬葉集注釈』巻第二 中央公論社 昭和33年
日本古典文学全集『萬葉集』1~4 小学館 昭和46年~昭和50年
日本古典文学大系『日本書紀』下 岩波書店 昭和40年
日本古典文学大系『懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』 岩波書店 昭和39年
新訂増補国史大系『続日本紀』 吉川弘文館 昭和39年
日本古典文学大系『伊勢物語』 岩波書店 昭和33年
日本古典文学全集『伊勢物語』 小学館 昭和47年
日本古典文学大系『源氏物語』 岩波書店 昭和33年
日本古典文学全集『源氏物語』 小学館 昭和45年
日本古典文学全集『古今集』 小学館 昭和46年
新編国歌大観 勅撰集編『古今集』 角川書店 昭和58年
新編国歌大観 私家集編『斎宮女御集』 角川書店 昭和60年
山中智恵子『斎宮女御徽子女王』 大和書房 昭和51年



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