見出し画像

大学院のこと(7) (進学・留学体験談)

大学院での実体験を紹介するシリーズ「大学院のこと()()()()()()」の続き。

大学院の先生たちは、ある意味で「タイパ教」または「コスパ教」の信者のような人々であり、極力自分の時間や労力を使わずに「授業をやった」ことにしてサラリーを得ることに長けていた。掛け持ちしている仕事先からテレワークでちょろっと教えてみたり、同じ教材を繰り返し使って時間稼ぎをしてみたり。なんやかやと言い訳をして(嘘までついて)授業にさっぱり来ないくらいならカワイイもので、学期早々に国外逃亡して消息不明になるなど、先生たちのサボりっぷりたるや、なかなか堂々としたものだった。さすが、アカデミアである。

ある日の授業3時間分が、まるまる「図書館ツアー」なるものに費やされ、図書館員から「図書館の利用手順」を学ぶという、まるで小学校のような行事に費やされたこともあった。書棚の周りを図書館員についてゾロゾロ歩き回り、「こういうタイトルを探すときは〜、パソコンに〇〇と打ち込んで検索をして〜、そしてこっちの棚に来て〜」といったようなことを、いい歳をした大人が高い授業料と引き換えに学ばなければいけなかったのである。

先生が授業を「自由にサボれる」というアカデミアならではの「おいしい常識」を書いたのが、前回第(6)話だったわけだが、そうであるにもかかわらず、先生たちはアカデミアでの現状に対して強い不満を抱えていることが分かってきた。

そこで本編では、先生たちの愚痴から見えてきた大学の実情と、先生たちが何に苦しみ、どのような不満があり、なぜそんなにストレスフルな日々を過ごさなければいけないのかについて考察してみることにした。



安月給を嘆く大学の先生たち

大学院の実情についてがっかりしたことはいくもあったが、私が特に気になったのは、先生たちが大学での待遇に不満を抱えていることだった。

「こんなこと本当はしていたくもないのに、仕方なくやってやってんだ!」

と言わんばかりの先生たちの憤りが、ひしひしと伝わってきたことである。態度を見ていれば、それは明らかなことだったが、その想いを実際の言葉にして愚痴った先生たちもいた。

全部で10科目、関わりのあった10人の先生のうち、授業中に愚痴った先生は3人いた。

「安い給料で働かされている」こと「給料に見合わない労働を課せられている」こと「大学の約束が違うこと(クラスの定員がオーバーしているのに、同じ給料で働かされていること」など。

一人は准教授で、あとの二人は常勤の講師だったが、どちらも長年大学院で教えていたことから、安月給がそんなにも嫌なら、どうして大学を辞めて転職しないのだろう?と、不思議に思ったものである。またそれ以上に、たとえ大学の待遇に不満があっても、学生(授業料を払っている相手)に対して、そんなことをグチグチ言ってどうするのだろう?という疑問もあった。

もちろん、仕事をしている限り待遇に対して不満を覚えることはある。給料が安かったり、上司が意地悪だったり、どうしてこんなことを私がしなきゃならんのだ、と言いたくなるのは、それ自体珍しいことではない。

ただ、それを客(お金を払っている相手)に対してグチるといったことは、一般社会ではまず起こらない。

私自身、若い頃には低賃金のサービス業をあれやこれやとやっていたので、待遇と求められる業務とのギャップに不満を抱いたこともあったが、だからといって店にやってきた客に対し「私、大した給料もらってないんですよ。だからあなたに頑張って接客する筋合いはないんですよ。分かります?」などとグチったことは、とりあえず一度もなかった。

とある世界的な有名ブランドが、某老舗百貨店本店で催事を行った時にも、私はその催事中の1週間だけ派遣会社から派遣され、接客を任されたことがあった。催事には、万札に加えゴールドやプラチナのカードがぎっしり詰まった長財布を携え、10本ある手の指の全てに巨大な宝石をあしらったお得意様や、なぜかお帽子をかぶって傘までさしていらっしゃる(室内催事場なのに、なぜ傘?)大金持ちの外商客などが続々とやってきて、私は金持ちの爺さんたちのセクハラまがいのトークをいなし、資産家の婆さんたちの自慢話に愛想笑いで相槌を打ち、なんとか持ち堪えてやっていたが、ある時、ひときわ目立つギンギラギンのお婆さんがやってきて、何か知らないが商品の名前をいきなり言った。

「新作はどこ?」と聞かれたので、私は「少々お待ちくださいませ。只今お調べいたします」と言って、責任者を探しに走ったが、客の怒りは収まらなかったようだった。売り場責任者の社員さんに呼び出され、お客様から本社に通報があったと叱られた。

「商品に対する不勉強があると、お叱りの言葉をいただきました」と。

私はとりあえず、「あっ、すみませんでした。以後気をつけます」と言っておいたが、内心ではさすがに「どうでもいい」と思っていた。私はこの催事の間だけ雇われて時給870円くらいで会場を回していたのであって、あと数日で催事が終われば、もうこのブランドとも百貨店とも関わることはないのである。社員でもなんでもないのに、過去の作品から新作まで、すべての商品知識を網羅するなんて、そんなことできるわけないし、するつもりもなかった。あと数日、決められた時間だけ会場内をぶらついて、安い給料をもらって、はい、おしまい。それだけじゃんか、と思ってはいた。

ただ、私はそのお婆さん(本社に通報した大金持ちのお得意さん)に、

「あのねぇ、私は短期バイトでここにきた派遣なんすよ。しかも時給は870円。ここに来る交通費も自腹切ってんのね。だから新作だかなんだか知らないけど、私の知ったことではないわけですよ」

などと言ったりはしなかった。とりあえず、不勉強で申し訳ございませんでした、と適当に頭を下げておいた。なぜなら、そこはアカデミアではなく一般社会であり、たとえ低賃金でもそれが私に課せられた仕事なのであって、客に社内の不満をグチるというのは、やはりお門違いだと考えたからである。

アカデミアでは、先生が学生に「給料安いし、こっちだって困ってんだよ!」とグチるという光景が、割と普通のこととして受け止められているようだった。ただ、先生の給料は安いのかもしれないが、少なくとも私を含む学生たちは高い学費を支払っていた。ではその差額は、一体どこへ消えたのか?

先生たちは、学生にグチるべきではなかった。不満があるなら、雇用主の大学側に「待遇を改善してください」と交渉してみるべきだったのだ。それでもダメなら、より待遇の良いポジションを求めて転職すればよかったのだ。もちろんこれは、一般社会の考えであって、それが通用しないのがアカデミアなのだけど・・・。


これはひどい?!先生たちの実際の給料

薄給が不満の先生たちだが、では実際の給与額はいくらだったのだろうか?「ポスドクや非常勤講師が薄給で使い倒されている」といった話は聞いたことがあったが、そうは言っても常勤の職員であったり、さらに「大学教授」ともなれば高級取りの代名詞の一つでもある。

グチる先生たちに「では実際にいくらもらってるんですか?」と聞くことは出来なかったものの、だいたいの給与額は知っていた。ネット検索でも分かるが、私の場合は既に当時30代の後半だったこともあり、同年代の友人たちが「大学で教えていた」からである。

ある港大OBの友人は、学部から頼まれて一学期だけ学部生を教えていた。友人は教員ではなく本業である別の仕事をしており、副業として「低賃金の講師の仕事を仕方なく引き受けてイヤイヤ教えている」タイプの典型だったが、給料は1科目(彼女の場合は3単位で、授業は週1回、2時間程度)でHKD60,000。現在のレートで113万円。当時のレートで90万円くらいのイメージだった。

一学期が3ヶ月半程度なので、月収にすると月に約30万円。週1回の授業で30万円もらえるなら良いのでは?と、私は思ったものである。

彼女の場合は、一学期限定の臨時職員だったが、私が教わっていた先生たちは、准教授ほか、講師であっても常勤だったし、1科目が倍の6単位だったと考えると、常勤で2コース教えていた講師たちの月収は、最低でも120万円ほどだったことになる。

物価の高い香港とは言え、3ヶ月半で360万円、長い夏休みを始め、多くのお休みや自由時間を挟んで、前期と後期で(年間7ヶ月働いて)720万円程度を稼ぎ、他の仕事も掛け持ちできるのであれば、それほど悪いとは思えなかったが、先生たちはなぜか不満タラタラなのだった。

また、授業をサボりまくり、そのうえ給料が安いとグチっていた准教授が、講師以上の高待遇で港大に17年間い続けたことは間違いない。正確な数字はわからないが、ネットで調べた港大准教授の年収は、一例ではHKD942,660とあり、現在のレートで約1776万円。2016年当時のレートでも1400万円程度はもらっていたと考えられる。准教授であれば、住宅などその他の手当がつくこともあり、それはやはり、どう考えても、公然と嘆かなければならないような薄給ではなかったと思うのだ。

ただ、それはあくまで私の感覚であって、先生たちの感覚ではなかったのだろう。なぜなら件の友人も、「給料が安いこと」と「実に面倒くさい仕事であること」を、同じように嘆いていたからである。


先生たちがイライラしている理由

世の中の一般的な感覚からすると「そこそこ恵まれている」とも思える「大学職員の待遇」だが、それでも先生たちが不満を覚えるのはなぜなのか?

私が推測する理由は3つ。一つ目は、先生たちの多くがインテリであり、とても自尊心の高いエリート(または、エリートだと思っている人たち)だからである。

高学歴であるインテリの先生たちは、基本的にインテリやエリートに囲まれて生きてきた人たちであり、彼ら・彼女らが当たり前と考える社会的地位、給与水準は高い。要するに、自分の学友や親族や元同僚たちなどとの比較で見た時に、大学側が提示する待遇が見劣りするということなのだろう。「周りはもっともらってるのに!」というわけである。

二つ目の理由は、大学の先生たちは、そもそも「教えることが好きではない」という点。義務教育レベルの教員たちの多くが「若い人たちの成長を育むこと」に意義を見出し、教える人としての「先生」を目指して教員になるのに対して、大学の先生たちは「できれば教えたくない」と思いながら教職に就いているという点が大きく違う。

大学の先生には大きく2つのタイプがあり、研究者になりたくて大学にいる人と、研究職にも興味はないが大学にいる人がいるが、どちらにも共通するのは「教えることに興味がない」という点である。

研究者たちは、大学で好きな研究をさせてもらう代わりに、その代償として仕方なく「学生たちに教えている」のであって、もしも教えなくて済むのなら、そんなことからは解放されたいと思っている。すなわち「教えること」に多大な面倒と、時に苦痛さえも感じている人たちなのだ。だから大学の先生たちは、一見すると高待遇で憧れの職業でもある「大学の先生」というポジションに不満を抱えているのだろう。

また、私が学んだジャーナリズム学科に多かった「研究にも興味はないが大学にいる人」というのは、研究も先生もやりたくない人たちという点で最も厄介な人々である。では、彼ら・彼女らは何がしたいのかというと、本当なら本職(ジャーナリストとして)の第一線で活躍していたいのであるが、何らかの事情でそれが叶わないために「先生業」に甘んじているのだ。

本シリーズの(4)話で、大学院は「時代の変化についていけず現場では使えなくなった引退後のじいちゃんばあちゃんたちの再就職先」という辛辣な表現をしたが、大学院で実際に先生たちの「不満」と「グチ」にまみれていると、つくづく、本職以外のことをやらされてプライドを傷つけながらも、生活のために無能な学生たちのお世話をさせられている先生たちの苦しみ、その忸怩たる思いにはある種の同情さえ覚えてしまったのだった。

自分は、本当はこんなところにいる人間じゃないんだ!と言いたかったに違いない。

そして3つ目は、実は私にも心当たりのある理由になるが、「講義」というものには絶対的な評価基準がなく、まじめにやればやるほど「タイパとコスパが著しく低下していく」という点である。どういうことかというと、講義の準備にかける時間や情熱には際限がなく、1時間で適当に準備しようが、100時間かけて持ちネタ(それまでに培った経験や知識など)を詰め込んで準備しようが、1コマ当たりの支払いは同じなので、準備に100時間かかった講義は時間給では100分の1になってしまうという難しさがあるのだ。

ここから先は

2,428字

身の回りの出来事や思いついたこと、読み終えた本の感想などを書いていきます。毎月最低1回、できれば数回更新します。購読期間中はマガジン内のす…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?