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かたく、なめらかに

細かい名前を挙げたらキリがないけれど、最近炎上が多いなと感じる。

SNS時代の必然と言えばそれまでなのだけど、それにしてもあまりにも多い。僕がSNSを使い始めた8、9年前と比べても、頻度がどんどん増しているように思えるし、ニュースが炎上を中心に回っているようにすら感じる。炎上についてコメントした著名人に炎上が飛び火することも多々ある。だいたい何人もコメントする人がいるので、ひとつの炎上が倍加して小分けになってスプラッシュする。

しかも、国や地域によって炎上の内容もそれに対する反応も全然違う。もちろん、地域の中でも人によって全く違う見方をする。ヨーロッパや北米では近年特にLGBTQや人種問題についての炎上が多くて、ビリー・アイリッシュが13歳の頃に撮られた映像をきっかけに炎上したり、女子サッカー選手のメーガン・ラピノーが10年前のTwitterのリプで言った一言が今になって差別的であると追及されたり。この2人はいずれもアジア人差別をしたという批判を受けて炎上したけれど、それは最近炎上したサッカー選手のウスマン・デンベレとアントワーヌ・グリーズマンの日本人差別発言についてのニュースをきっかけに知ったこと。あとは、日本でYouTuberが盛大に飲み会を開いたことによる炎上も、最近ありましたね。

ビリー・アイリッシュが有名なのは知っているけれど、実際僕の友達が全員知っている人なのかわからないし、ラピノーやデンベレの炎上について僕がなぜ知ったかというと僕がサッカー好きだからであって。自分がわざわざ炎上ニュースを見すぎているのか、それとも炎上自体が増えているのか、それすらよくわからない。そもそもそんなことを考えることが野暮に思えてくるくらい、前提として僕らに流れてくる情報はテーラーメイドで多様化している。

でも、ひとつ上に挙げた人たちが炎上した理由に共通していることがあるとすれば、それは「にもかかわらず」という思考が人々のバックに存在しているから、なのではないかと思う。アイリッシュはフレッシュで既存の枠にとらわれない価値観を包み隠さず表現することで支持を得ているし、ラピノーは女性やLGBTQに対する差別に長年反対してきた。デンベレも、黒人選手でBlack Lives Matterへの共感を表明したことが知られている。今や世界にはありとあらゆるタイプのヘイターたちが勢ぞろいで跋扈していて、彼らは比較的ハッピーに生きているようにすら見える。そんななか、彼女ら・彼らが炎上したのは、人々が信じて期待している「一貫性」を持っていなかったと思われてしまったからだろう。でも、その一貫性ってなんだ?

例に挙げた炎上は具体的に言っちゃってる内容が内容なので、擁護はできないし僕自身も幻滅したことは否めない。でもミクロな視点では、多分普段の僕らの個人的な人間関係の中ですでにこういうことって無数に起きてるんだろうなと思う。言葉はかたい。言葉はそれを発した人をちっこい石ころみたいに固形化して人々の目の前に差し出す。きっとその作用自体はウィトゲンシュタインが考える前からこの世にあった作用なんだろう。でもその石ころを見て人々が瞬時にその人の本質を理解したと納得するスピード感は異常に早くなっている。なんなら、去年僕がイギリスから日本に帰国してから今までの期間で、体感的にはさらに早くなっている。

間違いなく、コロナ以降の人間関係の変化も関係しているだろう。人間関係がオンライン中心になった、というのはもちろんだけど、オンライン化自体よりは「人と一緒にいる時間=用事がある時間=勝負時間」になってしまったことが自分には一番堪える。「何気ない時間を過ごす自分」を知ってくれている人が、あまりに少なくなってしまった。コロナ以前から親しくしていた人たちも、前は他愛のない話や「なんとなく一緒にいる」時間を過ごすことに疑問を持たなかったけれど、最近はどうしても会わないといけない理由がないと会って何かをすることはめっきり減った。

人間関係は常に現在進行形で水もの。以前なら「あいつバカなことやってるなあ、でも意外と●●な面もあるよね」とか、「今日のあいつの発言にはカチンと来たけど、前に○○って言ってたから、そういう事情もあったのかな」とか、もっと人を判断する目が複合的で豊かだったと思う。今は長年の付き合いが言葉尻のわずかなすれ違いで崩壊したり、その後一切の関わりを断たれたりされかねないし、むしろ「一緒にいて気分が上がらない人とは関わる価値なし」とでも言うような、人間関係の断捨離が推奨されてすらいる。そして、角を立たせずにうまく人間関係からフェードアウトするテクニックや言い回しは、日に日に洗練されている。いまや「また機会があったら会おう」のような言葉を正面から受け取れることなんて稀だし、少しでも一度いざこざがあったら、例え「大丈夫」と言われても「次」があるかはわからない。「それで全然いい」という人が激増しているのもわかっているし、なんなら僕もその末席にいるひとりと言えなくもない。元々、日本社会で堅苦しさを感じていた身からすれば、ある一面から見れば同じ国とは思えないほど風通しが良くなったことを喜ばしく感じることも多い。

でも、これってどこかで立ち行かなくなる。人って、そんなにすぐ絶交するもんじゃなかったでしょ。もちろん、よほどのことがあれば話は別だ。でも「よほどのこと」が大したことじゃなくなりつつありゃしないか?確かに、気の合う人たちと過ごす時間は最高だと思う。でも人は毎日、いや毎秒変わり続ける。それも一方向ではなくて、行ったり戻ったりもするし、あらぬ方向に行くこともある。失敗もするし、つい落ち込んでいて相手の「気分を上げる」ことができない時だってある。でも失敗から学んだり、成長することだってできる。人はいつだって矛盾の塊だったし、これからもそうあり続ける。「勝負時間」だけの人間関係は味気ない。一言で言えば無味無臭でセクシーじゃない。人間、なんでも「させていただいている」わけではないのだよ。こっちが「してやってる」こともあるし、それがむしろ「粋」な時だってあるのだよ。

僕は「にもかかわらず」でいい。僕に関わる人間も、「にもかかわらず」でいい。言葉が人をかたい小石に変えてしまうなら、その小石を受け取る心はなめらかでいたい。

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