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【小説・MIDNIGHT PARADE】[23]100万光年の優しさが注がれる限り

  予鈴が終わり、本鈴の直前。真弓は、教室の後ろのドアが勢いよく開く音に続く、大股な足音で振り向いた。いつもの習慣通りに美春の姿を確認する。すたすたと窓際の自分の席に向かう美春の様子は、いつもと何ら変わらないように見えた。しかし、着席し、美春が正面を向いた瞬間、教室内がしんと静まり返った。美春の顔に派手に広がる痣に誰もが目を瞠った。

「何あれ、ひどくない?」
「遊んでるらしいからさー、男にでもやられたんじゃん」
「回されたとか? うわ、きつー」
「工業の男が、あいつ気に食わないとか言ってたらしいしね」
「マジ? 超怖い」

 周囲でひそひそと噂話が始まり出した。二時間目が始まる頃には、美春当人が一言も話していなくても、その理由はまことしやかに校内を駆け巡っているだろう。

 小声で交わされる自分についての話を無視して、美春はいつものように頬杖をつこうとしていた。しかし、右手を顎に持ってきたところで、それが痛みを伴うものだと気付いたようで、やめた。ため息を一つ吐き、カーテンを持ち上げると、開け放してある窓の桟に顎を乗せる。カーテンに隠れて、美春の様子は、教室内からはもう見えなかった。真弓は、周囲で交わされる美春についての話を耳に入れながら、その後ろ姿を見た。

 どうしたっていうのよ、一体。あんな風に逃げるみたいにするなんて。そんなの、あの子には、似合わない。
 
 教師が来るまで、教室は、美春の顔の痣の話で持ちきりだった。そこには、その痣を心配するような言葉はなく、その原因を知りたがる好奇心だけがあった。しかし、真弓はそれ以外の意味で、美春の事が気になって仕方がなかった。けれども、美春に近付いて言葉をかけるような事は出来なかった。真弓は今まで美春と一度も話した事がなかった。なのに、今、この状況で話しかけたら、美春にとって真弓は優しい振りをして自分の覗き趣味を満足させる野次馬にしか見えないだろう。真弓は、そんな風に美春に思われる事は避けたかった。

 しかし、そう考えながらも、真弓は、美春から視線を離す事も出来なかった。白いカーテンの間から見える美春の後ろ頭は、うなだれているように見えた。

 授業が始まると、さすがに美春もそのままではいられなくなったようだ。カーテンを元の位置に戻し、不承不承という感じで正面を向いた。出席を取る教師の目線が、美春に止まった。すぐさま、教師の顔色が変わった。美春は、それを、そ知らぬ顔をして無視していた。しかし、教師は美春の側に急いで駆け寄っていった。

「どうしたんだ、その顔」
「何でもないです」
「何でもない事ないだろう、一体、お前、何やったんだ」
「転んだだけです」
「転んだ? 顔から転ぶなんてあるか」

 顔を背けていた美春の肩を、教師が揺さぶっていた。美春は、その教師のなすがままに壊れた人形のように首をがくがく揺らしていた。その様子を見て、真弓は、思わず叫んだ。

「何やったとか聞く前に、少しは怪我の具合、心配しろよ」

 立ち上がり、机をがたんと蹴った。教師が息を呑む音が聞こえた。教室内の誰もが振り向いて、真弓の顔をぽかんと見詰めていた。それに気付きながらも、真弓は、教師を睨みつける事を止められなかった。

「お前」

 教師が顔を紅潮させて、こちらに詰め寄って来る。瞬間、美春が立ち上がった。手で教師を制すと、かばんを手に取り、お辞儀をした。

「お騒がせしちゃうみたいなんで、帰ります」
「おい、ちょっと」

 教師の声を無視して、美春は足早に教室を出て行った。しんとした教室の中、真弓は美春の後姿を目で追いながら、呆然と立ち尽くしていた。

 気を取り直した教師が今あった事をなるべく早くなかった事にしたいというように授業を始めた。周囲もそれに同調し、全員が着席して、教室内には筆記用具がかりかりと鳴る音だけが響いていた。ぐるぐると渦巻く感情に翻弄されながらも、真弓も着席した。しかし、教師が話している内容は全く頭に入ってこなかった。

「真弓、何してんの?」
「超びびった。いきなり怒ってるんだもん。何あれ?」

 グループの女達がこちらをちらちら見ながらそう囁きあっているのが聞こえた。理奈はそれに加わらず、こちらを心配げに見ていた。真弓は、その視線から目を逸らし唇を噛んだ。私だって、何なのか、全然わかんない。でも。そう思った瞬間、真弓は立ち上がった。

「真弓!?」

 理奈が叫んだ。教師の制止の声も聞こえた。けれど、それを振り切って、真弓は教室を走り出た。
 
 既に校門から出ようとしていた美春に、真弓は全速力で走って追いついた。しかし、美春の名前を呼ぼうとして、真弓は躊躇した。どのように呼びかけていいのかわからなかった。呼び捨てにするような仲ではない。かといって、ちゃん付けにするのもちょっと違った。そもそも、真弓は、美春に対して話しかけた事はおろか呼びかけた事すら一度もないのだ。しばし悩んだ末、真弓は、無難な呼びかけを選んだ。

「ちょっと」

 美春がその声に、ばっと振り向いた。真弓の姿を認めて、目を驚きに見開いた。そして、それから、小さく笑った。呆れたような、けれど何処か気弱な笑みだった。その顔のまま、美春が言った。

「何してんの」

 そう聞かれて、真弓は言葉に詰まった。自分でも、何故そうしたのかわからなかった。

「いや、別に」

 とりあえず、いつも使う言葉でお茶を濁した。美春は、その真弓の返答にまたも笑った。今度はからかうような笑みだった。横目でちらりと真弓を見て言う。

「そんなに息切らしてるのに、そういう風に言われても」

 真弓は、美春のその言葉に唖然とした。言葉も見つからなかった。口を結び、汗ばんだ額を拭った。美春は、真弓の様子など意に介さずに、歩き出していた。真弓は、足を早めてその横に並んだ。

「さっきは、ありがとう」

 そっけない態度のまま、美春が言った。

「別に」
「そうだね、私も本当はありがとうなんて思ってない」

 淡々と言う美春のその言葉を、真弓は鼻で笑った。確かにこっちが勝手にした事だが、ここまで肩透かしな反応を食らうとうんざりしてくる。もう、何もかもどうでもよくなってきた。

「性格、悪いな。普通、言わないだろ、そういう事」
「そうだね」

 美春が、自嘲するように笑って、そう言った。その頼りなげな様子に、真弓は慌てた。何だかフォローをしなければいけない気がして、声をあげた。

「ま、こっちも、別に感謝されたくてした訳じゃないけど」
「だろうね」

 その美春の一言の後、続く言葉が尽きた。二人は、しばし無言のまま、あてどなく歩いた。

 晴れた日の午前中の住宅街は通りかかる人間もいず、時間から振り落とされたように静かだった。陽射しに暖められ、走ってきた真弓の背中の汗はなかなか引かなかった。カラスが遠くで鳴いては行き過ぎる。美春はかばんをぶらぶらさせながら歩いていた。背筋を伸ばし、遠くを見て、少し顎を上げ、すたすたと歩くいつもの調子だった。けれど、近くから見る美春の背中は思いの他、小さく頼りなく見えた。近くの家に生えている木の梢がざっと揺れる。美春の髪が風にかき乱された。すると、頬の痣が目に入った。真弓はそれを確認し、また息を飲んだ。それに気付いたように、美春が振り向いた。そして、また、真弓の顔を見て少し笑った。真弓は足を早め、美春の隣へ急いだ。

「聞かないんだ、これの事」

 横に並んだ真弓に、美春が自分の頬を指して言った。真弓は、美春のその何も気にしていないような様子に驚き、目を瞠った。美春が天気の話をするかのような呑気な口調で言葉を続けた。

「別に大した事じゃないよ。自分のせいだし。すぐに治るよ」

 あからさまにあんたには関係ない、と言うような調子だった。真弓はそれに苛立ちながら聞き返した。

「なんで」

 美春が真弓をちらりと見て肩をすくめた。困った子供を見るような苦笑を小さく漏らす。目をそらして端的に言った。

「男にやられた。でも、私が悪いんだよ」
「そうじゃなくて」

 真弓の声には苛立ちの調子が色濃く混じっていた。今度は、美春が目を丸くした。きょとんとした顔で真弓を見返してくる。真弓は腕を組み、吐き捨てるように言った。

「なんで、そんな大した事じゃないとか言う訳?」
「なんで、一度も話した事ないのに、そんな風に言ってくれる訳?」

 すぐさま小憎たらしい顔でそう言い返してきた美春に、真弓は大きく舌打ちをした。美春が、それを見て、しゅんとした様子で俯いた。

「ごめん」
「いいけど、別に。あんたが私に義理とか感じる必要ないし」
「ごめん」

 そう繰り返すと、美春は、ぽつりと言った。

「いつも、私、こんな事ばっかりしてるような気がするよ。馬鹿だよね」

 美春は、一度、言葉を切り、独り言のように呟いた。

「ただ、ありがとう、って言えばいいのにね」

 真弓は、美春のその言葉の意味がわからず、瞬きをした。美春と一瞬、目があった。美春の瞳には真弓の姿があった。グレーがかかった虹彩の中、真弓の全身が丸みを帯びて映っている。
 真弓の姿を映した瞳が一瞬揺れた。それを見透かされたくないというかのように、美春が、目を伏せて呟いた。

「でも、そういうのが、一番難しいんだよね」

 ため息を吐くようにそう言った美春は、目を伏せたまま、そっと痣を撫でた。

 美春を駅まで見送った後、真弓は学校に戻る事にした。かばんを教室に置いたままだったのだ。あれだけ劇的に去っておいてのこのこ戻るのは情けなかったが、財布も携帯もなければ何処にも行けなかった。一時間目と二時間目の間の休み時間を見計らい、真弓は校門をくぐった。誰もいない昇降口でそっと上履きに履き替え、階段を急いで上る。廊下を早足で歩き、意識して無表情を装い、教室のドアを開けた。

 一斉に視線が自分に集まってきた。けれど、それに真弓はもう怯むような気持ちを覚えなかった。もういいや、と思った。何故だかはわからないけれど、肩の荷を下ろしたような気分だった。真弓は、背筋を伸ばし、遠くを見て、顎を上げ、すたすたと大股で自分の机へと向かった。

 すると、グループの女達がこちらに駆け寄って来た。ここ最近、ずっと自分を無視していた彼女達の目線が、自分に一直線に向かっている事に驚き、真弓はその場に立ち止まった。呆けている真弓に、グループの代表格が言った。

「真弓、あいつどうしたの?」

 口が間抜けなくらいにぽかんと空くのが押さえられなかった。今、自分が耳にした事が信じられなかった。

「何があったのか超知りたい」
「やっぱ男?」
「うわ、マジやばそう。何したのあいつ」

 今までの事など何もなかったかのように、真弓がその事を自分達に話すのが当然であるかのように、彼女達は口々に言った。真弓は唖然としてその言葉を聞いていた。余りの事に声も出せなかった。

「ねぇ、真弓。教えてよー」

 グループの代表格が真弓の肩を叩き、親しげに言った。瞬間、頭の中で何かが弾けて、目の前が真っ赤に染まった。ぎりぎりとこめかみのあたりが鳴った。自分が歯を食いしばる音だった。

 真弓は、代表格の手を振り払い、彼女に掴みかかった。

「あんた、自分が何言ってるかわかってんの?」

 制服を引きちぎる勢いで首根っこを掴む。シャツを捻りあげ、首を絞めた。代表格は、口をぱくぱくと空けてもがいていた。あたりが騒然とした。人混みを抜け、理奈が走り寄ってきた。

 理奈が真弓の腕を掴んで、叫んだ。

「やめて。真弓。やめて。ごめん。ごめん。真弓。ごめん」

 真弓は、理奈の腕をすぐさま振り払った。理奈が真弓をすがるように見ていた。あのキャバクラにいる時と同じ表情だった。真弓は、唇を噛み、理奈を睨みつけ、言った。

「謝るくらいなら、こんな所にいるなよ」

 理奈が押し黙り、そして、すぐに床に泣き崩れた。悲鳴のような泣き声が教室内に響き渡った。騒ぎ立てていた野次馬がしんとなり、あたりは静まり返っていた。理奈の泣き声だけが教室内に響いている。

 真弓は理奈から視線を外し、もがきながら喘いでいる代表格の女と目を合わせた。

「私があんたなら、自分が恥ずかしくて死んでるね」

 彼女を突き飛ばし、今度こそかばんを持って、真弓は教室から出た。
 
 このまま真っ直ぐ帰る気になれず、真弓は、駅までの最短距離の道ではなく、住宅街の細道を歩いた。午前中の住宅街は相変わらず人気がなかった。真弓はぶらぶらと気の向く方向へ足を進めた。

 周囲はこの家に誰かが住んでいるとは思えない程に静かだった。さっきまでの事が全て嘘のようだった。

 何故、美春を追いかけたのかは、相変わらず真弓自身にもわからなかった。そんなお節介なやり方を美春は嫌うだろう、と真弓は思っていた。けれども、追いかけて来た真弓に気付いた時の美春は、そうではないように見えた。

 結局、私は、一人で空回りしていただけなのかもしれないな。

 真弓は小さく連なる屋根の間から見える空を見上げて、そう思った。

 「ただ、ありがとう、って言えばいいのにね」。美春はそう言った。そして、その後、こうも言った。「でも、そういうのが一番難しいんだよね」。そう、難しい。適当に笑って、合わせて、誤魔化して、そんなやり方ばかりを身につけている私達には、素直になる事は、とても難しい。
真弓は、そこまで思うと、一人、息をついた。
 
 くだらない。そのやり方だけで、上手くやる事なんて、本当にくだらない。くだらないと言う事すら出来なかったなんて、本当、心底、くだらない。
 
 一時間程ぶらぶらしてから、真弓は駅へと向かった。通りがかった人々に不審な目で見られて、午前中の住宅街に制服姿の高校生がいるのはおかしいと気付いたのだ。繁華街に出れば、問題なく時間を潰せるだろう。電車に乗り込み、渋谷に向かった。

 改札から出た瞬間、携帯が鳴った。着信は見知らぬ番号からだった。訝しく思いながらも、電話を取った。

「もしもし、真弓ちゃん?」

 受話器から流れてきたのは、田嶋の声だった。真弓は思わず息を呑んだ。

「俺、田嶋です。いきなりごめん」
「何ですか? もう」

 放って置いて下さい、と言おうとした。しかし、その言葉を遮り、田嶋は言った。

「違うよ。無理に店に連れ戻すなんてしないよ。ただ、時計、返してこいって店長に言われて」
「だって、罰金は?」
「罰金はもういいってさ。真弓ちゃん、ちょっとしかいなかったし」
「でも」

 また真弓の言葉を遮り、田嶋が、笑いながら言う。

「そこまでうちの店も鬼じゃないよ」

 いつならば会えるかと聞かれ、真弓は今日でもいいと答えた。ならば今からそちらへ向かうと田嶋が言った。三十分後、駅で。そう約束して、電話を切った。

 あたりをぶらぶらして時間を潰し、待ち合わせ場所に行くと、田島が既にいた。いつもの黒服姿ではなく、モッズコートとデニムを身につけていた。長い髪は後ろで適当に縛ってある。その姿は夜に見るよりもずっと幼く見えた。 

 田嶋が真弓に気付き、顔を上げた。その瞬間、田嶋の目が驚きに見開かれた。

「制服?」

 しまった。歳、誤魔化してたんだった。真弓は、自分の格好を見下ろし、今更ながら慌てた。

「嘘、高校生? うわー、見えねぇー」

 田嶋は口を大きく開けてそう言いながらひたすらこちらを眺めている。あまりにじろじろ見るので、真弓は気恥ずかしい気分になった。スカートの裾を少し引っ張るがそれでどうにかなるわけでもない。真弓は諦めて田嶋に謝った。

「ごめんなさい。店長には内緒にしてもらえますか」
「あぁ、もう辞めてるんだし、それはいいけど。しかし、やばかったな。未成年使ってるなんて一発で営業停止だよ。あ、ちょっと待って。まさか友達も」

 どうにも言い逃れる方法が浮かばず、真弓は無言で俯いた。それで田嶋は全てを察したようだった。

「うわ、騙されたー」

 田嶋がそう言って、上を向いて笑い出した。

「あの子達も首になっちゃう?」

 真弓は田嶋に恐る恐る聞いた。

「うーん。とりあえず、店長に言うかどうかはちょっと考えてみるよ。ま、どっちにしろあの子達、すぐに辞めそうな気もするしね」
「すいません、本当」
「本当だよ」

 田嶋はそう言ってまた笑い、それから当たり前のように、お茶でもしようよと言って歩き出した。時計を渡され、少々小言を言われるだけで終わると思っていた真弓は、田嶋のその言葉に面食らった。しかし、まだ肝心の用件が済んでいない。真弓は仕方なく田嶋について行った。

「何か制服デートって感じ。援助交際にはまる親父の気持ちがちょっとわかるな」

 田嶋が妙に上機嫌な様子でそんな事を言い出してくる。真弓はその発言に閉口して、冷たく答えた。

「何言ってるんですか。田嶋さんもついこの前まで高校生だったでしょ」
「俺、高校一年で中退してんの。だから、制服着てたの随分前なんだよね。あ、ねぇ、せっかくだからカフェとか入るより、代々木公園でたこ焼きでも食わない? 今日晴れてるしさ」

 そう言って、田嶋は、ずんずんと公園通りを上り出した。
 
 代々木公園内に行くまでの遊歩道にもたこ焼き屋とベンチがあった。歩くの面倒だし、ここでいいか。田嶋はそう言うと、真弓にそこに座るように言ってたこ焼きを買いに走った。ベンチは太陽の光で随分と暖められていた。短いスカートから出た膝を心許ない気分で撫でながら、真弓は走る田嶋の後姿を見た。何だか飼い主に向かって走る犬のようだった。訳のわからない奴だ。そう思いながら、真弓は背もたれに体をもたせかけた。

 たこ焼き屋から、田嶋がまた走って戻ってきた。真弓にたこ焼きを二パック手渡す。すると、また、田嶋はちょっと待ってと自販機へと走って行った。今度は、緑茶とウーロン茶を持ち、戻って来た。

 真弓の目の前に立ち、田嶋はどちらがいいかと聞いてきた。真弓は無言でウーロン茶を田嶋の手から取った。すると、田嶋がそれを奪い返した。

「何? ウーロン茶がいいなら」

 そう言い掛けたら、プルリングを開けたウーロン茶が渡された。

「はい」

 満面の笑みでそう言われ、真弓は唖然とした気分になった。何だか、全部に負けたような気持ちだった。時計を返して貰うだけのつもりだったのに、こんな事をしている自分が嫌だった。真弓は苛立ちに任せて言った。

「田嶋さんのやってる事、全然、意味わからないです。時計、早く返して下さい。こういうの面倒臭いじゃないですか。さっさとしましょうよ」

 一息に言った真弓のその言葉にも、田嶋は何も感じていないようにへらへらと笑っていた。

「いいじゃん、別に。俺、暇だし、真弓ちゃんも学校さぼってるんだから暇でしょ。暇人同士、お茶ぐらいしたっていいじゃん」

 田嶋が、おどけた調子でそう言って、真弓の顔を覗き込んできた。真弓は、道路を見詰めたまま、田嶋を無視した。まだ残っていた枯葉が風でさらさらと音を立てていた。田嶋が、ふぅとひとつ息をついた。

「真弓ちゃんさ、そんなに俺、っていうか、俺だけじゃなくてさ。周りの全部が嫌?」

 なんでそんな事、あんたに言われなくちゃいけないのよ。口に出かかった言葉を、真弓は何とか飲み込んだ。そういう事がまさに嫌なのだ。真弓は、怒りを抑え込み答えた。

「そんな余計なお世話しなくていいです。私は大丈夫なんで」

 田嶋が、顔を上げ、こちらを見据えた。真弓はそれに気付かない振りをして、前方に視線を固めた。
 田嶋が、またも大きくため息をついた。真弓はそれも無視した。膝の上に置いたたこ焼きの熱さすら鬱陶しく感じられた。田嶋が、情けない調子でお手上げという素振りを作り、言った。

「答えたくないなら答えなくてもいいけどさー。でも、真弓ちゃん、なんで、そんな頑ななの? そうやって、自分一人で自分を追い詰めて何が楽しい? 俺、確かに真弓ちゃんが思ってるように馬鹿だよ。でもさ」

 言葉を一度切ると、田嶋は「何言いたいのかわかんなくなっちゃった」と言って、頭を掻いた。真弓は、顔を上げ、田嶋の顔を見詰めた。驚いていた。田嶋の「俺、確かに真弓ちゃんが思ってるように馬鹿だよ」という一言に。

「私」

 沈黙を破り、真弓は口を開いた。

「私、そんなにばればれですか? 田嶋さんの事、馬鹿だと思ってるって」
「気付いてても、そういうの、直に言われるとショックなんだけど」

 あ、と声が漏れた。隠しきれずに気まずい顔をしているのが自分でもわかった。田嶋が、こちらを見て、苦笑していた。

「まぁ、ねぇ。一応、俺も一年あそこでウエイターやってるし、人、見る目はそこそこあるつもりだし。でも、俺、別にそう思われるの嫌じゃないから別にいいよ」
「なんで嫌じゃないの? 馬鹿にされるの誰だって嫌でしょ?」

 真弓は思わず勢い込んで聞いた。

「あ、敬語じゃなくなった。ちょっとは俺と仲良くする気になってくれた? やったねー」

 田嶋がそう言って、にこにことこちらを覗き込んできた。真弓は、田嶋をさっさと話せという気持ちを込めて睨みつけた。犬の散歩をする老人がてくてくと二人の前を通り過ぎていった。田嶋は、あ、トイプードルじゃん、と言って犬に手を振る。真弓は、田嶋を更に睨み付けた。

 田嶋はその視線に軽く肩をすくめた後、また、話し出した。

「俺さ、さっき、高校中退したって言ったじゃん。それって、親父がいきなり失踪しちゃったからなんだよね」

 軽く、何気ない口調でそう言われ、真弓は息を詰まらせた。真弓の周りには今まで、両親がいるのが当たり前で、しかも、それを鬱陶しく思っているような友達しかいなかった。いきなり、こんな話をされて何を言えばいいのか全くわからなかった。

 真弓の動揺した様子を、田嶋は笑いながら見ていた。そんな申し訳なさそうな顔しなくていいよ。田嶋はそう言うと、話を続けた。

「で、学費どころか生活費もないしで、中退したんだけど。ま、俺、元々、頭悪かったし、勉強好きじゃなかったから、別にいいんだけどさ。でも、まぁ、色々言ってくる奴もいて」

 そう言うと田嶋は煙草を取り出した。火をつけ、一口吸い込む。

「でも、いいかなって。何も知らない奴に馬鹿にされても、なんて事ないじゃん」

 照れたように笑って、田嶋がそう言った。真弓は、穴があったら入りたいような気持ちで俯いた。冷め始めている膝に置いたたこ焼きと自分の足、そして、田嶋の大きなスニーカーが見えた。真弓は、謝ろうと口を開いた。しかし、それを遮り、田嶋がまた話し出した。

「あ、でも、これは一般論ね。真弓ちゃんに馬鹿にされてたのが、何で気にならなかったのかはちょっと別でさ。これ言うとまた気を悪くするかもしれないけど、真弓ちゃん、可愛いんだよね」

 可愛い? 今までの会話からすると全く脈絡がないように思えたその単語に、真弓は首を傾げた。その様子を見て、田嶋が、また笑った。

「何か、真弓ちゃんてさ、無闇やたらにぴりぴりしてて、そういうの見てるとすっげぇ純粋な子だなぁって思う。純粋だから、どうしていいかわかんねぇんだろうなぁって。これ、口説き文句じゃないよ。正直な気持ち」

 田嶋は、そう言うと、小さく笑った。

「だから、俺みたいな奴、汚いって思うんだろうなって思ってた。実際、俺、汚いしさ」

 その後、田嶋は、歯を見せ、大きく笑った。何かいきなり身の上語っちゃってごめん。田嶋は、そう続けた。

 真弓は大きく頭を横に振った。何度も何度も、振った。
 
 この人は本当に強い人だ。そして、私は馬鹿だ。真弓は今心からそう思っていた。誰かと一緒にいながら、いつもその誰かを馬鹿にしきっていた自分。美春の事を眺めながら、話しかける事すら出来ずに、ただ彼女を疎ましく思っていた自分。田嶋とほとんど話した事もないのに、彼をこき下ろしていた自分が、心底恥ずかしかった。

 何も知らない癖に。何もわからない癖に。いつもそんな風に思っていた。他の誰かはお気楽に生きていて、私だけがいつも苦しい。いつもそう思っていた。周りを全部汚いという事にして、自分だけは綺麗だと思っていた。

 そういう自分が、誰より、汚い。 

 真弓は今、心からそう思った。

「これ、返すね」

 田嶋が、真弓の膝に、あの日、彼に投げつけたロレックスを置いた。

「裏にイニシャルが入ってるけど、真弓ちゃんのじゃないよね。家族のなんでしょ。大事にしなよ」

 真弓は、田嶋のその言葉を聞いて、泣き出した。

「田嶋さん、汚くなんかないよ」

 しゃくりあげながら言った。田嶋は、いきなりの真弓の涙に少々引いている様子だ。それを感じながらも、真弓は涙を止められなかった。田嶋が、苦笑しながら言った。

「いやぁ、そうでもないよ。こういう仕事してると汚くならざるを得ない事っていっぱいあるし。俺、真面目に生きてきたとはとても言えないような人生送ってきてるし。普通から見たら、きっと汚いよ」
「普通なんて知らないよ。どうでもいいよ、そんなの。誰が決めたのよ。大体、田嶋さんだって自分の事、汚いなんて本当は思ってない癖に」

 真弓はそう一息に言った。何故か必死な気持ちだった。その剣幕を見て、いきなり、田嶋がげらげらと笑い出した。

 響く笑い声に真弓は憮然とした気持ちで呟く。

「……何なのよ。笑う所じゃないでしょ」

 そう言って俯いた真弓の頭にぽんと手の感触がした。そのまま真弓の体は左に傾く。田嶋が、真弓の頭を胸に掻き抱き、言った。

「やっぱり、真弓ちゃん、いい子だね。ありがとう」

 お礼は、こっちが言いたいよ。そう思いながら、真弓はまたこれまでとは違う種類の涙がこみ上げてくるのを感じていた。それは百万年前から地球に届く事が決まっていた遠い星の光のように、ずっとここにあったものだった。一番暖かくて柔らかい部分をぎゅうっと絞って出てきた涙だった。嫌いなものだけで形作られてきた今までの自分が、求めていたものをようやく見つけたような気がした。静かに甘く目の縁から頬へと流れる涙を感じながら、真弓は、言った。

「充分、口説き文句だよ」

 その言葉で、田嶋が、不意打ちを食らったように驚いた。その表情を見て、真弓はくすりと笑った。


はい、今回の曲はこちら!

意外と知られていないがYouTubeのコメント欄には若い方がこの曲を知ってよかったとコメントしていて、わたしも同感だわ。ゲストボーカルのDEJJAさんの気怠くセクシーな声が大好きです。

歌詞もすごくいいんだけど、ネット上じゃ出てこないんだよね。耳を澄ませて聞いてみてください。

さて、この回。本作の高校ターンは日本橋ヨヲコさんの『プラスチック解体高校』を思い出すなあ。

ちなみにわたしはこの作品が大好きで、ヤンマガ連載時から夢中になって読んでいて、打ち切りになった時は大ショックだったけど、それからヨヲコ先生が『G戦場ヘヴンズドア』や『少女ファイト』などヒットを飛ばしていて嬉しかったものです。

ちなみにこの『MIDNIGHT PARADE』でのデビューがなくなった時は、商業漫画の世界でデビューする、しないなどの話も出てくる『G戦場ヘヴンズドア』に励まされました。ちなみに漫画に出てくる編集者・阿久田鉄人に、わたしのデビュー作を出してくれた小学館の編集者が激似でした、まじで。

こちらも今は更新停止していますが、この『MIDNIGHT PARADE』の更新が終わったら、また書いていきたいと思っています。

現在、東京滞在中ですが、『MIDNIGHT PARADE』も、祖父の話も『腹黒い11人の女』のその後もいろいろ動き出していてとても嬉しいです。

『MIDNIGHT PARADE』(略してミッパレ)もあと少し。
引き続きご感想いただけたら嬉しいです。

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作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。