見出し画像

人生を彩る忍苦と薔薇【祖父・三谷昭と新興俳句を巡る冒険】(五)

祖父の俳句を読み返すと、星と窓と花と酒の句が多いな、とふと思う。
その四つは、わたしもどれも好きで、わたしが知る祖父と祖母が暮らした杉並の家にも昔ながらの分厚い窓ガラスに縁取られた小さな庭があり、茶道の講師をしていた祖母は家に花を欠かすことがなかった。
祖父もあの窓辺で、花を飾ったテーブルで晩酌をしたのだろうし、そして、星を見上げたのだろう。

さあ、話を前回、わたしが小学館の編集者に会った頃に戻そう。

他に原稿はないかと聞かれ、「ひとつはあり、ひとつはパソコンがクラッシュして消えた」と答えたわたしは、取り急ぎ、消えていない原稿を編集者S原に送った。
その原稿、『Midnight Parade』が、実はわたしが一番最初に書いた長編小説だ。

この小説は山田詠美さんの小説『フリーク・ショー』に憧れて書き始めた。

赤坂のクラブ、ムゲンに集う人々が入れ替わり立ち替わり主人公となる連作短編的な長編小説で、初めて読んで30年近くたった今も登場人物たちをまるで懐かしい友達のように思い出す。

いつの時代も夜に集う人々の、憧れや期待や諦めや感傷は変わりなくて、それはわたしが10代の頃、渋谷や青山のクラブに通い詰めていた頃と同じだった。

きっと、今も同じように行き場のない子たちが、何かこれだけは本当だと思えるものを見つけたくて、夜を彷徨っているんだろう。

さて、話を18年前の11月に戻そう。S原に言われたとおり、すぐにほかの原稿を送った。
二週間後、またも唐突に、電話が来た。

「原稿を読みました。俺は忙しいから下の人間を君に付ける。会社に来てくれ」

相変わらず、鋭利な刃物ですぱっと切った野菜の断面のような有無を言わさぬ口調だった。わたしはその言葉の意味がよくわからないまま、予定を決めた。

今、思えばその時が、わたしに初めて担当編集者が付いた瞬間だった。

日本の出版業界は、世界的に見ても独特のシステムを持っているようで、出版社の社員である編集者が、見初めた作家の窓口になり、マネージャー的存在になり、同時にもちろん編集者として作品のブラッシュアップをしていく。

海外では国によってやり方は様々だが、文芸エージェントと呼ばれる存在が一般的だ。文芸エージェントは、日本で言えば個人で成果報酬制で活動する芸能マネージャーのようなものだろうか。自分がこれだ、と思った作家をあちこちの出版社に売り込み、印税などの交渉のすべてを担当し、著者の報酬から10%を受け取る。

日本の出版業界には取次と再版制度というものがあり、それもまた海外から見ると非常に独特のもののようだ。この日本独特の取次や再版制度がなぜ生まれたのかは、検索すれば詳しいので、興味がある方はGoogleかSiriに聞いてみてほしい。

さて、S原との二度目のアポイントは平日で、わたしはその日、初めて小学館に足を踏み入れた。受付の女性が慇懃に感じるほどに丁寧にわたしを応接室に案内して、「お飲み物は何になさいますか」と問う。コーヒー、紅茶、日本茶どころか何故かバナナジュースまでメニューにはあり、この会社の人々はちょっとした打ち合わせにも、当たり前のように受付嬢の案内と誰かが持ってくる飲み物が出てくる環境にあるんだな、と、体が全部倒れ込んでもまだ余裕がありそうなほど広くて柔らかいソファに座りながら思う。

わたしが今まで取引をした出版社はいわゆる零細で、打ち合わせは編集部の片隅のデスクで行われるのが常だった。ここまで丁重に扱われることは、わたしにとって人生で初の事態で、当時のわたしは「やっぱり有名な出版社はすごいなあ」と呑気に思っていた。

しかし、今思えば、その時からわたしは「仕事を請け負う」「選んでもらう」ライター業から、「ともに仕事をする相手を選ぶ」作家業に足を踏み入れていたのだと思う。

当時のわたしはそれに気づいていず、見慣れない広い応接室のあちこちを見回しながら、S原が現れるのを待っていた。

数分して現れたS原が連れてきたのはわたしと同世代ぐらいの、峰不二子のようなスタイルをした美女だった。

美女は緊張した顔つきで「O野と申します」と名乗った。

ちなみに、S原もすらりとしたいかにも仕事ができそうな美男で、小学館の文藝の編集者はみんなこんな風に格好いいのか、とわたしは不思議に思いながら、アイスコーヒーを飲み、S原の言葉を待った。

ばさっとテーブルに原稿を置き、S原は言った。

「これ、このままじゃ出せないけど。君には何かある、何かあるんだよ」

わが忍苦ともしき薔薇よ窓に咲け
Weblio辞書 現代俳句データベース(俳句) 三谷昭

そう、そこからわたしのそれこそ文章にまつわる数年に及ぶ忍苦の日々が始まるのだが、わたしには今でも鮮明に覚えている感情がある。

こんなに苦しいことをやり続けて、だけど、それでも、それを自分で選ぶなんて。

結局、どれだけわたしは生きることと文章を信じてるんだよ。

そんな、呆れ混じりに苦笑するような思い。

ねえ、人生はいつも薔薇が咲くようにドラマチックだね。

(六に続く)

この記事が参加している募集

#おじいちゃんおばあちゃんへ

2,683件

#編集の仕事

1,138件

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。