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銀河鉄道の夜|宮沢賢治

窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるような、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向こうへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、まもなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。それがまただんだん横に外れて、前のレンズの形を逆にくり返し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向こうへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、またちょうどさっきのようなふうになりました。

銀河鉄道の夜
九 ジョバンニの切符


アルビレオの観測所が一番美しい。
脳内で、青宝玉(サファイア)と黄玉(トパーズ)の大きな二つのすきとおった球が軽やかに自転しながら公転して交差する。
交差するときの、輪郭が重なってゆっくりずれて音もなく離れていく光景。
この光景を再現してくれる媒体がないものか、絵本やイラストや動画を探しに探したが、イメージに勝るアルビレオの観測所は残念ながら見つからない。
両面凸レンズ、がない。
花巻の宮沢賢治童話村にも、ない。
(ただただ楽しく自分がくるくるとまわっていました)

頭の中のこの光景を見たくて見たくて、ずっと引きずっていたのだが、ある日突然、小津夜景さんが教えてくれた。 

古典とは読んで理解するよりもまず浸るものであり、溺れるものであり、追いかけても追いかけても手が届かないといった距離の感覚に圧倒されるものです。 

なしのたわむれ∶古典と古楽をめぐる手紙
小津夜景 須藤岳史

銀河鉄道の夜を読んだその日から今なおずっと、浸って、溺れて、追いかけても追いかけてもまったく手が届かない。
そうだ私は、宮沢賢治に圧倒されているのだ。

溺れているときに手につかんだもの