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『冬うつ』を超えたら、人間も虫もそう変わらないことがわかった話

ようやく寒さが緩んできて、春を感じられるようになってきた。

ここ岐阜県恵那市は、雪が少ないかわりに冬の間平均の最低気温は氷点下を下回り、ときにマイナス10度前後まで冷え込む。

加えて断熱という概念のない古民家は底冷えがひどい。

石油ストーブではこの寒さに歯が立たないので、家の中でもダウンジャケットと、登山用の厚手靴下が欠かせない。

むろんエアコンなど冷風が吹いてくる始末で論外。

寝る時も布団は冷えに冷えて、温まるまでなかなか寝付けないが、ここでは「湯たんぽ」が重宝する。就寝前までに石油ストーブの上で沸かしたお湯を使う。

10年前まで温暖な横須賀で過ごしていた身には、この寒さはかなり身体に堪える。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して9年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。(内容は個人の見解に基づくものであり、岐阜県移住定住サポーターとしての公式見解ではありません。所要時間4分)

この冬訪れたメンタルの危機

身体に堪えるということは、気持ちの面にもとても影響が大きい、というのは、体感的によくわかる話だ。

近頃では「冬季うつ」なる言葉も出回っていて、冬場のメンタルケアの重要性が注目されつつある。

この冬は特にここ最近では一番寒く感じたこともあってか、気分の落ち込みがひどかった。

隠さず言えば、この2か月は最低限家事をしていたぐらいで、ほぼ稼業の仕事に手を付けられる状態でなかった。仕事をしようと思うと息苦しくなり、頭が混乱状態に陥っていた。

この状態を引き起こしたのは寒さのせいだけではなかろう。先の見えない感染症に振り回されているストレスや、商売上のストレス、子どもの夜泣きによる睡眠不足、突然の戦争、その他身近な人間関係に至るまで、落ち込むきっかけとなるものはいろいろと心当たりがある。

だからたまたま強く誘因される出来事がこの冬場に重なった、というだけかもしれない。
ただ、自分の日記を振り返るとここ数年、毎冬決まって滅入っている。

だから今年の冬こそは気を付けよう、と自分の状態を観察してはいたのだが、あれよあれよと負のスパイラルに気持ちが落ち込んでいくのに抗えなかった。

寒さが直接の原因というよりも、普段だったら受け流せるストレスが寒さによってブーストされているのかもしれない。

田舎に暮らせば健康な精神状態でいられそうなものだが、どこに住もうと、人とつながり、世界とつながり生きているのだから、あまり関係ないのかもしれない。

まあとにかく、寒さの中で抱えるどす黒い感情は、とにかくしんどいのだ。

人間も冬眠すべきか

もはやこの2か月何も手に付かない状況は「冬眠状態」と呼んでも差し支えないのではないだろう。

そういう自分を観察していると、一つの仮説にたどり着く。

人間も本来冬眠すべき生き物なのではないか。

冬眠とまで言わなくとも、活動量を抑えた方がフラットなメンタルで過ごせるのではないだろうか。その方が自然本来のリズムに沿って至って「自然」に過ごせる気がする。

何の根拠もないのだが、周りの自然はみんなちゃんと冬なりのあり方で過ごしているのだから、あながちいい加減とも言えまい。

自分で野菜を育ててみればよくわかる話で、この寒さの中で種を撒いても芽はでない。秋に植え付けて冬を越し春に収穫する玉ねぎやニンニクなどは、冬に入るとジッと耐えているかのように変化がない。

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植物も命を維持することだけで精一杯だ。

ここら辺に生息する動物たちも姿を見せない。
小動物やクマは冬眠している。
身体の大きなイノシシやカモシカは冬眠しないが、冬の間に多くの個体が命を落とす。生き残っている個体は自分の食べるものに探すのに精いっぱいだから、繁殖などはしない。春を待つ。

どちらにしろ活動量は大幅に低下する。

オレから言わせれば、現代人は、自然のサイクルなんて関係ない、なんて高をくくって活動し過ぎなのだ。

寒さと活動量の関係

そうはいっても、現代社会は季節を問わず活動を止めることなく動かなければ回らない(らしい)。

冬にガシガシ活動できる人もいる。でももしかしたらそういう人は休むべきときに休んでないから、どこかしらストレスが蓄積するのではなかろうか。

イヌイットは極寒の地でたくましく暮らす人々だが、短命な寿命でもある。寒さだけが原因ではないだろうが、気候と平均余命には有意な相関関係が認めらるとの研究もあり、そもそも人間が生きていくのに向いていない環境であることには違いない。

日照時間の少ない北欧ではそのイメージと裏腹に自死率が高いことで知られるが、ウィンターブルー、すなわち冬季うつに悩む人が多いことも無縁ではあるまい。

そういえば、出所を忘れたが、人間は産業革命以降、それまで日の出・日の入りや、季節ごとの自然の変化によってとらえていた「時間」の概念が機械的に一律に規定され、その通りに行動することを強いられるようになった、と聞いたことがある。

考えてみれば日の出の時間が季節によって変化しているのに、起床時間は同じ、ってのは人間の心身にとっては非合理な行動だろう。

そこまで現代文明を否定などしないが、今の暮らしの様式が「不自然」な状態で回っている、ということを覚えておくといいかもしれない。

こんな話を持ち出したところで、日本の社会は立ち止まってはくれない。冬だろうがなんだろうが稼がなければ暮らしていけない。

本当にそうか。誰も実証はしていないはずなのに。だが冬も働かないと社会で生き残れないという共通の認識がみんなにある限り、そのように生きるしかあるまい。

冬季は一斉に仕事や活動量を抑える「ウィンタータイム」みたいな制度でも作ってくれればいいが、そんなことは実現するまい。

ならば自分で自分をどうにか守っていくしかない。日光浴だの運動だの気持ちの書き出しだの、家事や掃除などは心を整えるのに良いからと辛くても継続し、果てはお笑いを見るといいとか、よさげなものは都度試しながら、しかしどうしようもなくどす黒く沈んでいく身体と心に苦しむことは、もはやこの先も避けられないのか。

寒さだけを原因と考えるのも尚早であり、もっと複合的な要因をひも解いていく必要もあるかもしれないが、次の冬に向けて早くも対策を講じる必要を感じている。

虫も人も自然の何かに動かされている

まあとにかくだ。今年も春は来てくれた。

暖かくなってきて少し身体と心が緩んできて、明らかに気の持ちようが違っている。油断すると三寒四温でふいにまた強いストレスを感じることもあるけど、なんとか日常に復帰できそうな感じはしている。

もはや解決策もまた冬眠する動物のように、ひたすら春を待つ、に尽きる。

この季節になると毎年感じることがある。

3月5日(年によって4日または6日)は暦の上で、「啓蟄」となっている。啓蟄を境に土の中の虫が春の気配に誘われて動き出すと言われている。

田舎暮らしをしていると、本当にこの日から虫の動きを目にするようになる。うそのようだが、オレにはそう感じる。

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驚くべきことに動き出すのは虫だけでない。近所の方々がのそのそと畑に繰り出し始めるのも、ピッタリ啓蟄からだ。

もちろんカレンダーの暦を見て「さてやるか」と動き出している可能性も排除できないが、自分自身が動きたくてそわそわしていることにも気が付くから、みんなの中の体内時計的なセンサーが働くのであろう。

この光景を見るたびに、人は自然物であることから逃れられない、と、ネガティブでなくポジティブにそれを受け止められるのである。

オレも自分の身体と心が自然に動くタイミングを待って、少しずつ活動し始めている。

薪割をした。田んぼをトラクターで起こした。畑を起こし畝を立て、子どもたちとジャガイモを植えた。集落の人たちと用水路の掃除をした。

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遠方から友人が訪ねにきてくれたり、子どもたちのつながりで親御さんにBBQに誘ってもらったり、いろんな人とのふれあいにも助けられた。

慌てず、落ち着いて、たかぶり過ぎないで、でも楽しさは素直に感じて。

滅入っているときに同じことをしても余計に辛くなるのだが、今は身体を動かせることの清々しさでいっぱいになる。

やっとこさ稼業の方も手が付けられるようになった。まる2か月の間、一緒に経営している妻に頼り切りだった。

妻への負担は大きく申し訳がなかったが、仕事できないときはしない、という選択ができたのも、衣食住に急に困らない、という田舎ぐらしで半農半自営していることの恩恵かもしれない。

全国民的に冬は活動量が自然に落ちるものだという当たり前のことが浸透し、冬はみんなゆっくりやろうよという気運が高まることを願いつつ、今はしばし自然物としての自分の心身の変化を味わって、春の喜びを感じていたい。

春の蠢きを感じたい方はぜひ我が家へ。

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