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移住10周年。揺らぎながら辿り着いた現在地と、これから。

0からの移住生活が10年続いた

岐阜県恵那市に移住してから丸10年が経った。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。

移住前まで音楽活動に執着し、社会的な役割や責任から遠ざかったままに30歳を超えてしまった、いわばドロップアウト寸前のオレが、自分のルーツである横須賀や横浜とは質感の異なる土地と人のあいだで過ごした10年。

恵那市ふるさと活性化協力隊(地域おこし協力隊に準じた恵那市独自制度)への転職(?)をきっかけとし、結婚、2児の誕生、起業、などなど、移住前には想像もしなかったことが次々に訪れた。

地域おこし協力隊での活動では、移住前まで気にもかけなかった社会的課題を知り、学び、解決しようと動き、試行錯誤し、失敗し、挫折・・・

生活の中に人との関わりが増え、移住前には考えたこともなかった価値観の違い、習慣の違い、言葉の違いに向かい合い、悩み、乗り越えようとしてきた日々・・・

街にはなかった自然に癒され、自然に打ちのめされ、自らの手で作物を育て食べる喜びに出会い、森に向き合い、人が心豊かに生きながらえていくためにできることは何か、思案に暮れ、何ひとつできない自分を知り・・・

こんな自分の姿を10年前の自分には想像できていなかった。
経験も知識もスキルも文字通り0からの状態で移住して10年間田舎で暮らした、というのは一つ誇ってもいいかもしれない。

当然そこには妻をはじめとした家族、移住して出会ったたくさんの人たち、それに移住前からの友人たちの助けと応援の支えあってこそのことで、迷惑をかけたり不義理を働いてしまったことばかりだが、それも含めて感謝に尽きない

移住による田舎暮らしは、自分を変えるチャンスだった。自分で選んだことではあるけど、喜びだけでなく困難も少なくなかった。だけど、すべてが自分の貴重な学びになってきた。
毎日移住前の「当たり前」と異なるものに出くわすたびに、自分の価値観と照らし合わせながら頭をフル稼働させて考え悩んできた。「自分と違うものとの対峙による自分の再発見」してきた10年間とも言え、自分ととことん向き合い続けてきたことに後悔はない。

さらにコロナ禍の3年が移住してからの30%を占めているのにも驚きだ。このまま外の世界と隔てられ閉じ込められてしまうかもしれないというパンデミックの恐怖感は、これからどう生きていけばいいのかを考えるのにとても大きな出来事だった。

このように移住する前と10年が過ぎた今とで、変わったことあるいは変わらなかったことは枚挙にいとまがない。これまでもこのnoteにも書き連ねてきたし、これからもたびたび振り返ることになるだろう。

では、10年経ってすっかり田舎暮らしに馴染んだか、と問われればそれはどうだろう。

田舎でも都会でもなく。揺らぎ続ける自分と自然と社会との関係

自然の恵みと厳しさが同居する生活、人と人との絆が深くて強い生活。そんな生活をベースにした人々の思考や行動に、オレはいつも心を揺さぶられてしまう。現実に向き合うたびに、未だ戸惑ってばかり。
まあそもそも田舎暮らしに向いてないのだ。

かといってたまに帰省すればしたで街での自分の挙動がぎこちなくなっていることを感じる。どこもかしこも緊迫した空気感におののいて、もはやここに住むことはできまい、という思いもよぎる。

でもそれさえオレの思い過ごしかもしれない。
案外すぐに街のクールな風通しの中で匿名的かつオートマティックに過ごせる街の暮らしにすぐまたなじんでしまうのかもしれない。

かくして10年をかけてきわめて中途半端な存在、どちらでもない自分になったのだ。

これは、所属や偏向を好まない気質だったことからも当然の帰結である。

偏ることは疑問を捨てることである。オレは好んで、どこにも所属せず間で「揺らぐ」ことをいつも選択してきた。

偏ってしまえば楽になる。いつも疑問を持っているのは苦しい。

けれど疑問を持って揺らいでいることで、いろんな立場の人の目で世界を見ることができる。そうするとあっちは良くない、こっちは優れているなんて思いが消える。

すると世界の成り立ちをいろんな視点で見られるようになって、知らないことを知る喜びが生まれる。
自分と違うことがあることを知れば、誰かを傷つけることに対して平気な顔でいられなくなる。

反面、自分の揺らぎを口にすることはためらうことが多い。

なんでそれが当たり前なのか、なんでそれが善なり悪なり決まっているのか。「ずっとそうだったから」という声が大きい中では、自分の疑問を声に出せなくなってしまう。自分にとっては疑問とは対話の糸口であって否定ではないのだが、そう受け止められてしまったりもする。

オレはここでの暮らしが10年経って、ますます揺らぐようになった。都会の価値観と田舎の価値観。どちらの「当たり前」も歴史上の偶然の産物の積み重ねに過ぎない。
ならばこれからどこに進むことが多様な人々にとって最適解なのか。はざまで揺らぐことで「ちょうど良い」程合いを探り当てようとしている。

だから本当は対話を欲している。どんな意見だろうと自分の思いを心から安心して口にできれば、多様な人々が「ちょうど良い」と思えるバランスが見つかるはずだ。そんな世の中だったら、と願っている。

揺らぐことは楽ではない。時には外部の強い力によって支点から振り落とされそうになるぐらい揺さぶられる。自分の中でバランスをとろうともがいているときが一番きつい。これはもう自分の性分として一生揺らぎ続けるのだろうなと観念せざるを得ない。

揺らぎが自分だけのことであればそれでいいだろう。

田舎暮らしを選んだ”責任”だと思っているのかもしれない

だが、ただ暮らしているだけでも、身近な地域や暮らしの課題が否応なくふりかかってくる。10年前と違い、守るべき家族もいる。

今までの当たり前と異なる10年間では、”構造的に見る目”の解像度を自然と養っていた。少子高齢化や過疎化、教育の在り方、持続可能性など、自分や子どもたちが暮らす上で切実な問題が山積みなのだ。それらに取り組もうとすると必然的に”社会”という抽象度の高い概念で考えなければならない。

自分だけの力で大きな社会を変えられるとは思わない。
だが、せめて自分が選んだこの場所を少しでも良くして、自分の子供たちを含む次の世代にバトンを渡したいと思うのは、ここを選んだからこその”責任”だと自分で思ってるのかもしれない。

少しずつでも自分のできる範囲で、やったほうがいいだろうと思ったことをやってみる。それが精いっぱいだが、やらないよりは自分の気持ちには応えられる。

実際この10年の間も、いろんなことにチャレンジをしてきた。協力隊でのまちづくり活動を皮切りに、有機農業、EC事業など仕事としてのものもあれば、ジャズイベントの立ち上げや、田舎暮らしワークショップ的なこと、コミュニティ活動に関連したことや動画配信にも挑戦した。また自給用のコメ作りや間伐、薪づくりなどは暮らしにかかわるチャレンジもしてきた。

それこそほとんどが長続きできずに終わっていくので、ちっとも誇れるものではない。まさに中途半端。

でもやってみてなるほどと納得のいく経験はしてこれた。

そのどれもが曲がりなりにも社会や環境に対して働きかけようとする試みであった。移住前には自分のためだけに生きていたオレが社会のために働きかけようなんて考え行動するようになったのは、協力隊での地域とかかわる活動で気づかされてきたからだろう。その点で協力隊の任地だった岩村町の方々からはたくさんのことを学ばせてもらって、感謝に尽きない。

10年前と明らかに違うのは、恵那で暮らした10年分の蓄積があること。10年前はここに何があって何がなくて、どんな可能性があるのか何もわからない状態だった。もっと言えば自分がどんな田舎暮らしをしたいのかさえ定まらないままに、恵那暮らしは始まっていたのだった。

これからの10年は、この10年の経験の中からより具体的なビジョンを描くことができる。移住しなければ出会えなかった人たちもたくさんいる。それもオレの財産だ。そしてこれからも新しい出会いが必ずある。思いをともにできる人達とつながること、それこそが新しい地で暮らすことの最も大きな価値の一つだ。

これからの10年

次の10年、というとオレは56歳になる歳だ。
子どもたちもだいぶ成長しているころである。

正直なところ、綱渡りの稼業をがんばりながら子どもたちを無事に社会に送り出せたら、もうそれだけでオレの人生は成功と言えるはずで、それが最優先であるという前提は今後も変わらない。

子どもたちが成長すればするほど、あらためて親として子どもを育てる、家庭を維持するというのは並々ならぬことを痛感している。毎日が戦いのようなものだ。

人類はずーっとこんな苦労を積み重ねてきたのだろうか。それだけで感動するし、今この瞬間にも子どもと向き合いながら、喜びも苦しみも味わっている全ての親御さんたちに敬意を表してやまない。

もうこれさえ達成できれば、田舎だろうが都会だろうとどんなライフスタイルだろうとなんだろうと、なんでもいい気さえしている。子育てそのものが次世代につなぐ営みなんだし。
その意味でいえば、田舎で小さな商売で暮らしているだけだって十分に実践的なはずだ。

現実問題として、それ以上に何かできる余力がない。時間的にも経済的に経済的にも。
でもどうにかそれにプラスできることにまた取り組みたいと思っている。住めば住むほど、切迫感が高まってくる。

このnoteに一番最初に書いたのも同じようなことだった。

コロナ禍の切迫感に煽られて勇んで書いていたが、何もできていない現状はこの時と何も変わっていない。世の動向に左右されやすい故、商売もずーーっと低調。ちょっとした寄付くらいしかできてない。

でも想いは変わらない。
もどかしいけど、できていないからこそ準備を続けている。自分がまさに経験している暮らしや商売の中にも心豊かな世界のためのヒントが隠されている。それを探すために試行錯誤している。
経験的なことだけだと偏りが生じるから、学術的な見識からも学ぶ。そこからは揺らぎの元や意味が何なのかを学ぶことができ、俯瞰的な視点を得るのに欠かせない。

10年のリソースと学ぶ姿勢があれば、次の10年で何か成果がだせる。

ただまだ足りてないことがたくさんある。オレは誰かと一緒に何かをやるのがとても苦手だ。世に切り込んでいく勇気もない。自然と向き合う上で必要な体力もない。

だけど一人ではない。どこかで揺らぎを抱えている人たちと一緒に考えたり、話を聞かせてもらえたら、大きな助けになる。

そのための場を我が家で整えることを今一番目標にしている。
積年の願いである屋根替えやリノベなど、決して簡単ではないが、その過程をまた皆さんには見守ってほしいし、ぜひ我が家を訪れてもらいたい。
揺らぎに満ちた自然の中で、みんなで大いに揺らごう。

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