私たちは、幸せになるために頑張っています。 例えば、仕事で成功しようとしたり、 結婚して幸せな家庭を築こうとしたり、 健康でいたいと努力をしていたりします。 しかし、頑張っているうちに、目標が達成されても、幸せになれないと感じることがあります。その時、私たちは、「何かが足りない」と感じてしまうのです。 このような状況に陥った時には、自分自身が幸せかどうかを見極めることが大切です。 私たちは、幸せになるために頑張っているときは、その目標に向かって行動し、それが達成されたときに
自分を大切にしてくれる人はとても大事。 ありがたいし助かるし何より心強い。 ・助けてくれる。 ・いつも味方でいてくれる ・やさしく背中を押してくれる ・見方を変えてくれる。 ・自分のいやがることをしない。 ほかにもあると思うけど。 そんな心強い頼りになる人がいない場合。 それならば、自分が自分を大事にするしかないわけで。 誰かの助けを待っていても、恐らく誰も助けにはこない。 そうなると、やるべきことは 自身が快適に過ごすためにしなければいけないこと、した方がいいことを
自分の思いどおりに相手に動いてほしい。 そう思うときは誰でもあると思う。 仕事であるならば、 「誰かあれを気を遣ってやっといてくれないかなあ~」とか 同居している家族がいて、自分は疲れて家に戻るとき 「ゴミ出しを誰かしておいてくれないかな~洗濯物取り込んでたたんでおいてくれないかな~」とか。 ここでいう相手に自分の思いどおりに動いてほしいというのは 相手の察する能力に期待することだ。 言わずとも相手が自分の思いどおりに動いてほしいと願う。 願うことは自由だが、それを相手に
世の中に神様がいるとしたのなら、 世の中で起きている理不尽な出来事について どのようにお話をするのか。 乗り越えられない試練は与えないとか かわいい子には旅をさせよとか そんな言葉が気休めにもならない理不尽な出来事は世の中にある。 例えば今のウクライナとロシアの状況であったり 干ばつで苦しむアフリカ。 国内の豪雨災害もそうだし、パキスタンの洪水も。 そしてそういった理不尽な出来事に遭遇してしまう人もいるし、 死ぬまでそういった出来事に遭遇しない人もいるという事実。 災
無意識が悪いことなのかというと、そんなことはない。 無意識は便利。 例えば、朝目覚めて起きなきゃと思うとき、 心の中で「横向きの体を仰向けにして、体を起こして布団をめくって、そして立ち上がる」なんて思わなくても、「起きなきゃ」と思うだけで起き上がることができる人が多いと思う。 行動しようとするたびにいちいち次は右手をあげて指をうごかしてとか 考えて行動していたら、それこそ大変。 ルーチンになっていることは無意識がこなしてくれる。 こなしてくれるのは、行動だけでない。考え方も
現状が満足のいかない状況であっても、 例えば、仕事がうまくいかない、収入がもっとあったらいいのいのに、 家族と折り合いが悪い、好きな人とうまくいかない、などなど。 現実問題と感じる幸せは別。 幸せを感じるときと現実問題は実はリンクしない。 幸せは、現実がこうこうこうだから幸せを感じるというものではなく、 本人の価値観で決まる。 もちろん、彼氏ができたとか仕事が決まったという うれしい出来事を幸せと感じることは否定しないが、 これは幸せと言うよりは喜び。 優しい彼氏がいること
間違いは認めたくないものだ。 認めたくないと思っていると言うことは間違いをしたと自覚している。 間違った自分にたいして、充分に心は傷ついているし苦しんでいる。 その傷ついた心を何とかしようとして 間違いを正当化する、要するに嘘をついてごまかそうとしてしまいそうなとき。 嘘をついてごまかすことができたとして、 自分は嘘をついたことを知っている。 意識していなくても心にそれは残り続ける。 嘘でごまかされた間違いも、間違いとして残る。 ばれないかもしれないし、いつかばれるかもしれ
日々、生活していれば、これどうしようと思うことはあると思う。 即決即断ができることばかりではないはず。 タイトルの話 例えば、キャリアのことでの悩み。 資格を取ろうと思っていて、二つの資格のどちらにしようか悩んでいる。 一つは、合格率が低くて試験のための勉強も大変。今、仕事が忙しくて勉強のための時間を作ることができるか不安。でも資格を取れば、うまくいけば独立の可能性もある。 もう一つは、今までの経験で試験はすんなり通過しそう。ただ、この資格を持っているだけではあまり役に
私は言わなければいけない場面で、言いたいことが上手に言えない。 昔よりはましになったけれど、 今でも途中で説明することを諦めて、 あとからあれも言えば良かった、これはこういう言い方をすれば良かったと後悔している時がある。 ある本によるとこれは脳の伝達力の低下、考える力が低下しているからだと書かれていた。 そうなのだろうけど、私が思うに、その原因は意識に近いエリアの無意識のせい。 無意識に近いところで、それはああだよな~と漠然と思っていることの言語化が下手くそ。 なんか嫌
タロットカードには悪魔というカードがある。 意味は簡単にいってしまえば欲望、善と悪で判断するなら悪、 わるいとわかっているのにやめられない そんな意味のカード。 カードを引いてこのカードが出てくると身構える。 人様の占いで出てきたときにどう伝えたらわかっていただけるのかを考える。 決して怖いカードではない。悪いことが起きるとかでもない。 本人が悪いわけではないのに悪い出来事が重なる人、 そういう方に悪魔のカードが出て 私の先生は業が深いというか・・・という表現をした事
タロットの説明をするときに、エゴとか自我とかそんな言葉が出てくる。 エゴとか自我とか普段の生活に頻繁に出てくる言葉ではない。 なんとなく理解したつもりでいる言葉。 エゴとはウィキペディアによると日本語の自我であって 自己を対象とする認識作用、哲学および精神分析学における概念とある。 自分は自分であるという気持ちを支える意識の中心という説明を昔聞いたことがある。 我思う故に我あり。 哲学者のデカルトの言葉と記憶している。 初めてこの言葉だけを聞いたときは諺か?と思ったの
占いに興味を持ったのは、 投資をしている人で、占星術や易を見ている人がいたから。 自分のお金を占いに託すの? とっても不思議だった。 当たるも八卦当たらぬも八卦というし、 当たるか当たらないかだけで言ったら1/2の確率じゃないかと。 実際にみてみると、相場がそう動くときもあるし、動かないときもある。 1/2の確率なのか1/3なのか2/3なのかは検証していないのでわからないが。 なぜそうなるかを考えると、 占いを参考にしている人が動くその占いを参考にしている人が動くだろ
過去のやりのこしたことや、後悔していること、反省していることみたいな 昔の忘れ物を拾いに行く作業をしております。