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エゴとか自我とか自己とか

タロットの説明をするときに、エゴとか自我とかそんな言葉が出てくる。
エゴとか自我とか普段の生活に頻繁に出てくる言葉ではない。
なんとなく理解したつもりでいる言葉。

エゴとはウィキペディアによると日本語の自我であって
自己を対象とする認識作用、哲学および精神分析学における概念とある。

自分は自分であるという気持ちを支える意識の中心という説明を昔聞いたことがある。

我思う故に我あり。

哲学者のデカルトの言葉と記憶している。
初めてこの言葉だけを聞いたときは諺か?と思ったのだが、
そうではなく、文字通り、
自分が考えている自分だけは間違いなくここに存在している、この存在している自分だけは疑いようがなく存在している。そんな意味。
なんのこっちゃという感じだが、自我のイメージとしてはこんな感じと思っている。

意識に自我は存在していて無意識には存在していない。
自我は意識の一部。

それでもって自己とは何かというと、意識と無意識の合わさった心といわれれるところ。


心が満たされなかったり物足りなさやむなしさを感じるときは
自我の願いを叶えている最中に、無意識の願いを無視している時。
この状態で無理に自我の願いを叶えていくと心にひずみが生まれる。

働かなければいけない。勉強をしなければいけない。優先順位の通りにしないと。あの人を好きになってはいけない。こうしなければいけない。などなど。

心の思うままに生きることで心は幸せだが、世の中、そんな簡単な話でもなく。



私だけかもしれないが、自分の自我ってわかりにくい。
私はそんなに私が私がという性格ではないし、
こうありたいと強く思うところもなく。
全くないとは言わないけれど。
人様に迷惑をかけないように、人とあまり違ったことをしないように。
そんなふうに言われたこともある。

それは日本人だかららしいのだが、
他との一体感、集団からはみ出ないこと、村落共同体、自然との共生。
そんな生き方が江戸時代までの日本人だったらしい。
自我という考えは明治以降海外から輸入されてきたとされるが、
明治時代というと150年前、何世代前?ひいひいじいちゃん?もっと前?の頃のこととなる。
共生して生きるなんて考えは、
現代においてもっと薄まっても良さそうな気もするがそうではない。
出る杭は打たれる。

そんなんでも、自分はこうありたいとか、こうでなきゃというのはある。

無意識も意識も自我も自己もどれもが同じ欲望であって、
その願いが叶っていれば、その人は幸せなんだろう。
きっとそれは思い通りの人生だから。

そうでない時に悩むのよ。


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