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戦争反対に揺れる心

安全保障関連法が施行された日、国会前では多くの人たちが終結し、声高に戦争反対を訴えていた。

そこに集まっている人たちはみな安保法案に疑問を感じて行動を起こした人たちで、戦争反対を訴える人たちでもある。

かつては私も安保法に反対する彼らのことを喜ばしく思っていた。

「憲法を変えることは日本を紛争に巻き込むことにつながる」

「戦争へとつながる行為は断じて許してはいけない」

そう信じて疑うことはなかった。


しかし今、私の心は大きく揺らいでいる。

ベルギー起こった連続テロ事件。そしてヨーロッパや中東などで頻発している爆弾テロ。

日本ではただ単に出来事だけが報道されるが、記事に目を通せばその惨さがひしひしと伝わってくる。

目の前で遊んでいたわが子を失った親の話。拉致された少女が人間爆弾として使われていたかもしれないという話。

何の罪もない多くの人たちが、連日のように争いに巻き込まれて命を落としている。


その一方で、過激な挑発行動をとり続ける北朝鮮の存在もある。

現在の北朝鮮の行動は、日本や韓国、アメリカといった同盟国の制裁に対抗するために、より過激なものになっている。

かつては中国が仲裁する立場をとり、一定の抑止力が働いていたが、今はそれも無力化している。

制裁とそれに反発して続く挑発行動は繰り返され、いずれ本格的な争いへと発展していく可能性は十分にあり得る。


世界は刻々と変化している。日本人がそれを受け入れようとしなくても、それでも世界は確実に変化し続けている。


「誰かが犠牲になったり、戦争になったりするのは嫌。」
「自衛隊の人が海外で犠牲になるのも嫌だし、ほかの国の人も犠牲になってほしくない。」(※若者(18歳)の言葉 朝日新聞の記事より引用)


この言葉に疑問を感じるのは、まるで「争い」が起こっていないかのように語られているところだ。

テロで悲惨な事件が頻繁に起こっているのは、遠く遠く離れた海外の話。日本は今、安全で平和だ。

そこでは、日本が「世界」から完全に切り離したものとしてとらえられている。


安保法案に賛成する立場と反対する立場を生じさせているのは、まさにこのとらえ方の違いだろう。

前者は日本を世界の一部と考えるのに対し、後者は世界の影響を受けない隔絶した場所に日本があるととらえている。

たしかに地理的、物理的な面でとらえれば、後者の考えは何ら不自然なものではない。

グローバル化という世界的な規模の変革が起こっていなかった時代では正しい認識だったかもしれない。

だが、今私たちの社会は世界規模での経済に影響を受けないわけにはいかない。

ひとたび、それが破綻すれば、私たちがふだん何気なく口にしているものの多くを失ってしまう。

食料が不足するだけでなく、多くの失業者を抱え、人々の生活に深刻な影響を及ぼすことになるだろう。

地理的、物理的に隔絶しているように感じられても、日本は世界と一部であり、その影響を受けざるを得ない。


日本を世界の一部としてとらえたとき、目の前にあるのはすでに「争い」が始まっているという事実だ。

憎しみと報復の連鎖がまるで大火のように燃え広がり、それを消し止めたくても止められずにいる。

そして、そこではすでに誰かが犠牲になり、今まさにそのそばいる誰かが犠牲になろうとしている。


安保法案に反対することも、戦争反対を訴えることも間違いではない。時には政府に自らの考えを行動で示すことも必要だ。

ただ、あそこで声高に叫んでいる人たちの中で、いったいどれだけの人が「世界の中の日本」について考えを巡らせていたのかが気にかかる。


今、私たちがやらなければならないことは、国会の前で安保法案や戦争に反対することなのだろうか。


すでに争いが始まっているこの世界の中で、本当にやるべきこととは?

私の心は今なお大きく揺れ続けている。





テロのニュース

http://www.asahi.com/articles/ASJ3Y5Q9WJ3YUTIL03K.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/28/suicide-bomb-girls_n_9557434.html

http://www.nikkei.com/article/DGXLZO98942060Y6A320C1CC0000/

若者(18歳)へのインタビュー記事  朝日新聞

http://www.asahi.com/articles/ASJ3X42P9J3XUTIL01J.html



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