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【エッセイ】甲子園、夏、髪

100年以上の歴史をもつ全国高等学校野球選手権大会(以下高校野球と称する)

この高校野球に私はこどもの頃から掴みどころのない不思議を感じていた。
それは、高校生の部活動で高校野球だけは違う世界軸にいる気がしていたことだ。別格よりも異世界感。

サッカーやバスケや他のスポーツの全国大会とは別の世界線で歴史を刻んできた感覚。

甲子園という神話。

なんなら高校球児たちは一般の高校生ではなく、甲子園出場だけを目的とした特別なスポーツ選手集団とさえ漠然とだが思っていたくらいだ。
もちろんそんなわけがない。
高校球児たちも当たり前だが高校生なのだ。
なのになぜ、そんなにも異世界に捉えてしまっていたのだろう。

野球自体詳しくない私が偉そうなことは何も言えないのだが、詳しくない素人の視点だからこそ言えることもある。(というわけでご容赦願いたい)

年々歳を重ねる毎に高校野球の中継に興味がわくようになり、泣くとこじゃないマウンド全体を映した画だけでグッときてしまう体になってしまっていた。
敗退した学校の選手たちが砂をかき集める姿を目にしたらもう涙を止めることは不可能である。
勝って校歌を歌いたかったよね…と、震えながらテレビに釘付けとなる。

野球に疎いこんな私だが、ルールなんかも観ているうちに覚えていくもので、野球のゲームそのものを楽しむことも出来るようには少しずつだがなってきた。実に面白い。

そこで、色々疑問も浮かんでくるというのも自然な流れである。

まず、高校球児たちはなぜみんな坊主なのか問題だった。

これは昔から漠然と不思議だなーと感じていたことだった。

最近の多様性云々の時代背景でくっきり浮き彫りになったことも深追いするきっかけとなった。

なんでも諸説あるようだが、一番腑に落ちた…というより、そうなのかもなぁ…と有力に思えた意見は、坊主にすることで連帯感や結束力が強まるというものだった。

まぁ、なるほどであったが、もうひとつ気になったのは高校野球が今より比べ物にならないくらい人気があったはるか昔のモノクロ映像の時代、部員が100人以上当たり前という中で選手選抜の要素として坊主で気概、本気度を見ていた(試していた)という話だった。

この説には坊主になることが踏み絵的な儀礼のようなものになっていたように思えて少し違和感を覚えた。なんか嫌だった。

とはいえ令和の今も整列した高校球児たちを目で追えば丸坊主が多い。

丸坊主にしないとダメなら入部しないという野球離れを食い止める為に、野球部に入って欲しいがために髪型は自由とする学校も増えてきたらしい。
そんな理由で髪型改革はなんだかモヤッとする。
多様性とは関係ない話である。

純粋に、野球部だから丸坊主という「なんで?」を解消する自然な流れじゃないのが残念だった。

今年特に目立ったのが、坊主じゃなくてもいい学校が全員坊主の学校に負けた時、SNSで心ない言葉が飛び交っていたことだ。

「ちゃらついて気概が足りないからだ」とか
「坊主をなめるなよ」とか

関係ないじゃん…そんなこと。
いちゃもん以外のなにものでもない。

きっと勝っていたら手のひら返すんだろうか。
はたまたそれでも嫌味を草の根わけても探してまで言うだろうか。

制服の多様化や公衆トイレの多様化、君(くん)づけ、ちゃんづけではなく、全員さんづけの呼び名の多様化…
ありとあらゆるものの多様化をニュースで目にする。

え?そんなとこまで?というとこも。

だったらなぜこんなにわかりやすく毎年夏には日本中が熱くなる高校野球の球児たちの髪型に寛容にならないのだろうか。

どうして坊主じゃないから負けるんだなんて酷いことを容易く言えちゃうのだろうか。

結局、結果を残せればある程度清潔感がある髪型ならいいんじゃないですかというシニア世代のインタビューが尾を引いた。

結果残さないと認めてもらえない髪型って、本音は……そういうこと?ってなる。

これは丸坊主でない学校が優勝しないと変わらないのだろうか。
きっとそうなったら坊主じゃない生徒の個性を尊重した監督の云々やらなにやらと何でもかんでも結びつけて報道するんだろうな。(しらんけど)


試しに丸坊主だからこその立場で考えてみた。

もし自分が選手として試合に出られるとして、外野で守っていてチームメイトを見渡せる位置にいたとする。
みんな帽子を被ってはいるがこう思うだろう。
「あぁ、俺もこのチームの仲間のひとりなんだ」と…。

辛い練習で挫けそうな時も全員自分と同じ坊主頭だったら無条件に連帯意識や絆なんてものを感じちゃって負けるもんかってなるんだろうか。
なっちゃいそうだ。

そういう意味ではみんなおんなじ坊主頭は精神的にプラスかもしれない。チーム強化の点でも。

野球漬けの3年間に、色気づいてちゃらついたオシャレは御法度だ…なんて表現は悪いが、脇目も振らず野球だけに集中するにはそれも納得できなくはない。そこまでしないと勝てないものなら。

ここまで考えてもどっちがいいかわからない。

だったらそれでもこのチーム強いよねと些細なこともつっこまれる余地もないとこまでたどり着くしかないか。

いつか、髪型に「だから〇〇なんだ」とか、そんな発想自体生まれなくなる価値観の世界になるまで、無理に改革しなくてもいいわけで、自然と気づけばこうなっていたという時代がいずれ来るまで…
の、お話なのかもしれない。

なんか無理やり丸め込んだ感が否めない。
丸刈りなだけに…。←これ余計

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