余計な言葉をかけてくれる人。
「余計な」と聞いて、どんなイメージをもっただろうか。おそらく、マイナスなイメージだった人が結構多いのではないだろうか。
僕もその一人だ。でも昨日、大切な友達と会っていて、ふと言われたことが、もんもんと頭の中をさまよっている。それが以下の一言だ。
いい意味で。。?
余計な言葉にいい意味などあるのだろうか。でも僕は、友達が放ったその一言を「とても良い」と思ってしまった。あわよくば余計な言葉をかける人になってみたいものだと思った。
だから、このnoteで自分なりに余計な言葉をかけてくれる人とはどういう人なのか、どんな言葉をかけているのか、自分なりに考えたいと思う。
この文章が、人間関係で悩む人たちにとって、何か余計なヒントになれるようなきっかけになれば、幸いです。。。いい意味で。
余計な言葉をかけてくれる人。
まず、「余計な言葉」とは。
「余計な言葉」という言葉は、僕は会話の中でよく聞くような気がする。会話の中で、そこまで言わなくてもいいのに、もう一歩踏み込んで、一言付け足す。
その結果、余計な言葉というものが生まれる。
辞書で「余計」という言葉を調べてみた。すると、大枠3つの意味が検索にヒットした。
僕が今まで「余計」という言葉にもっていた印象は③の意味だ。「余計なことまで言うやん」とか「そこまで言わんでええのに」って思う時に、『余計な言葉』を使っているような気がする。
でも、辞書的な意味は、辞書的な意味にしか過ぎない。
「言葉」とは、辞書的な意味を超えていけると思っているし、plus ultra精神で、超えるために自分の頭は存在すると思っている。
今回、僕が大切な友達から言われた一言は、完全に「余計」という言葉の範疇を超えている。もしかしたら収まっているのかもしれないが、僕からしたら、「余計」という言葉に新しい意味が生まれたと思っている。
なんだかうまく言葉に表せないけど、「余計」という言葉に『やさしさ』のエッセンスが加わった感じ。
そのふりかけのようなやさしいエッセンスは、僕にとって新たな思考のスパイスとなった。(もはや、何を言ってるのかわからん。)
では、やさしい「余計な言葉」をかけてくれる人とはどんな人のことだろうか。人間関係をプライベートとビジネスシーンに分けて、考えていきたい。
プライベートで、余計な言葉をかけてくれる人?
まずは、プライベートからだ。まず、勝手な偏見丸出しでいくのだが、男女関係なくプライベートで、やさしい「余計な言葉」を言える人は、たぶんモテる。男女問わず、モテる。
ただ、いつも余計な言葉を言われ続けるのはしんどいし、誰にでもそうやって言ってるんじゃないかと疑ってしまう。
では、どんなことを言われたら、言われる側は嬉しいのだろうか。
ここでキーワードになるのはおそらく2つで、1つ目が「誰に言われるのか」ということ。2つ目が「見てくれている感覚」である。この順序もとても大切で、1つ1つ考えていく。
まず、「誰に言われるのか」だ。
これは当たり前と言えば当たり前の話で、「関係性」の話である。尊敬している人や身近な人に言われる「がんばったね」と、全く知らない人からもらう「がんばったね」では、心にささる深さが異なる。
それはある意味、関わる・捧げる時間が関係しているかもしれないし、場面や状況によっても大きく変わる。
いくら身近な人だったとしても、「仕事で頑張ったことはやっぱり上司に言われる「がんばったね」が一番響く」などが例になると思う。
とにかく、誰に言われるかがまず大事だなと感じた中で、次に大切だと思うのは、「見てくれている感覚」である。
これは”視野の広さ”と”ワードセンス”が問われる。
あの人が自分のことを「ここまで」見てくれている。それを”わざわざ”言葉にしてくれている。そんなにしなくていいのに、でも嬉しいな。
このような感情に紐づくのが、やさしい「余計な言葉」である。
言い方のセンスと、あなたの日々の頑張りをどこまで見えているか。
これを一歩間違うと、少しストーカーちっくになるので、「誰が言うのか」はやはり大事だ。おっと、ちょっと文章も長くなってきたので、ビジネスシーンは簡単にまとめていきたい。
ビジネスシーンは、努力をほめる。でも、人による?
小見出しに「ビジネスシーンは、努力をほめる」と書いてあるが、これもどこをほめるかによって捉え方は大きく変わってくる。
どんな過程(努力)を見てくれているのか。
これは「余計」な部分が大切になってくれると思う。
これは上司でも部下でも、同僚にでも言えることで、「この人はここまで見てくれている。もう一歩、言葉にして表してくれる。あんなに忙しいのに、私に対してこんなに向き合ってくれるんだ」という感覚は、年齢・役職関係なく、相手への尊敬につながると思う。
そして、それが「お互い様」にできる組織は、やっぱりつよい。
まとめにきました、いい意味で。
ここまで、やさしい「余計な言葉」とは?についてもんもんと書き連ねてきた。どうだっただろうか。何か余計なヒントはあっただろうか。
僕はこの「余計な言葉」は直接言えるならそれが良いし、それが恥ずかしいのなら文面でメッセージを送るのでも全然良いと思う。
そして、ここまで考えてきた中で、最後に僕が大切だなと思うことを付け足して、終わりにしたい。
それは、「余計な言葉」を伝えた後の、相手側のアクションを期待しないことだ。こんなに良いことを言ったのだから、なんか言ってよ、と思うかもしれないが、それこそが「余計」である。
「余計」なことを言っているのは、相手のためではなく、自分のために言う行為であると思っている。
自分が思っていることや気づいたことを、いちいち言葉にするのは億劫だけど、それを言葉にできるひとはつよい。尊敬する。
そんな人間になりたいから、自分のために行う習慣なのだと思っている。
忙しい時こそ、人の本音は出やすいと誰かが言った。
その通りだと思う。
だから、忙しい時こそ言葉に表せれるように、やさしい「余計な言葉」をかけられる人でありたい。
あなたの周りには、嬉しい「余計な言葉」をかけてくれる人はいますか?
いたら、ぜひ教えてください。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!
では、また✌️
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