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Noism金森穣著「闘う舞踊団」書評です!

本の概要

この本は、日本でも新潟に拠点を置いて創設された公立舞踊団 Noismの現在に至るまでの軌跡を書いたものです。著者はNoism芸術総監督の金森穣さん。2004年のNoismが創設して以来、著者が芸術監督として、舞踊の創作面と運営面に携わり、日本のそれまでの慣習に疑問を投げかけています。
例えば、お稽古事としてのダンス、バレエをしてきたダンサーたちに物足りなさを感じたり、箱としてしか存在しない劇場体制を疑問視したりなどです。これらの点に関しては、私も共感しました。そこで次から、私の英国での経験を交えてそれらについて書いてみたいと思います。

お稽古事としてのダンス、バレエ

自分の周りでもそうであったが、大体ダンスやバレエをする人は家が裕福で、お金に困っていない人が多いです。そのためか、Noismのオーディションに受かって、シーズン契約しても嫌になって辞めていってしまう人が多いということを著者は本書で嘆いています。欧米では、逆にお金のために仕事だから踊るという人が多いのも現状です。それでも、嫌だからというだけで辞めてしまうというのは、プロの舞踊団を形成しようとしている金森さんから考えれば、信じられない🤷!と思ったのは当然でしょう。ダンスで食っていこう!生計を立てていこう!とオーディションに挑戦してくる欧米のダンサーたちは気構えが違います。
お稽古事として、文化芸術に触れていきたいというのならそれも良いことだと思いますが、プロの振付師なら、誰でも本格的に舞台芸術に携わっていこうという本気度のあるダンサーと仕事がしたいと思うでしょう。

日本の劇場はただのハコ

著書の中でも、日本の劇場の問題点をいくつか挙げていますが、劇場が舞台芸術を発信する人たちの常駐する場所でも、舞台芸術愛好家が集う場所でもない、ただのハコになってしまっていることを指摘しています。

日本の劇場で、芸術監督がいる劇場はまだまだ少ないのが現状です。ヨーロッパでは、劇場専属の芸術監督もいれば、契約期間が切れると次の劇場に行く芸術監督もいます。両者とも常に、劇場に芸術監督がいて公演のための創作をしたり、ワークショップを開いたりなど劇場の運営をします。
ですが、日本は、劇場と言っても、基本的にホールやスタジオを民間に貸し出すという体制です。そのため、公演団体が、その劇場のホールを借りて公演をし、終わったらそのまま帰ってしまいます。そこには、劇場内での交流もないのです。また、ヨーロッパの劇場のようにその劇場や芸術監督の特色のある演目やイベントを見ることもできません。
さらに、ほとんどの欧米の劇場では劇場付きの照明、音響、舞台監督がいるのですが、日本の劇場ではそのような人は劇場付きではないため、主催者側が外部に依頼しないといけません。そうすると海外で公演するよりも経費がかかってしまうのです。

舞台芸術を楽しめ、人との交流もできる劇場

この本の中で、著書は専属舞踊団のある劇場の必要性を言ってますが、私自身は、専属舞踊団なでなくても、芸術監督がしっかり運営できる劇場はあった方がいいと思っています。
書評からちょっとそれますが、私が滞在していた英国では、小さい劇場が小さな街に一つはありました。ロンドンならもっと多くの劇場が活動していました。特に小さな町の劇場では、地域の人の発表会もありましたが、ツアーをしてしているプロの劇団の公演もあり、ほかに演劇、ダンス、マジックなどさまざまな演目が上演されていました。芸術監督は、自分の作品を作るだけでなく、自分の劇場で上演するための何か面白い公演やイベントなどを常に探し回っていたようです。
また、それらの劇場には、バー、レストラン、カフェなど公演の休憩時間や公演後にちょっと一息入れて友人と話したり、来た人たち(ファンの人たち)と気軽に話す場所もあり、地域の人や愛好家の人たちとの交流の場にもなっていました。

舞台人であること

最後に、本書の中で舞台人としての金森さんの言葉を引用します。

「恐れを抱き、恥じらい、それでも踊ることでしか生きていけない。そんな矛盾を抱える人が、まるで太陽光を受けた月が発光するかのように、眼差しという光を受けて輝く。それが舞台という場なのだ。」

「闘う舞踊団」より

このように言えるのは、Noismを率いてきた金森さんだからこそなんだなあと思いました。まず、劇場は、見る人に感動を与える舞台人と舞台を見る人との交流の場なのだということをリマインドさせるメッセージでした。


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