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事なかれ主義の末路

『ようはなんでもいい。』さんの記事からの引用です。

事なかれ主義の末路

・事なかれ主義は他から干渉されず、巻き込まれず、めんどうをなくし、個人で在る方法

・自己利益を護り、安泰を確保し、損害回避し、自己保持する作用

・メリットはありながら、デメリットが多いために割に合わない

・他(社会や地球などの環境)から貰った利益や安泰が前提であるため、「自分のため」に事なかれすると矛盾になる思想

・矛盾になる結果、空想を生きることとなり、自己世界と外界(他)との現実にギャップができる

・嫌なことに対する諦めや妥協や誤魔化しが増え、選択を自ら狭めながら気づかなくなる

・難を逃れて曖昧にし続けることで、自らの意志や自我も曖昧になる

・当たり障りなくする結果、当たり障りなくされて存在が希薄化

・個を防衛する結果、個をなくし、影響力がなくなる

・不変が起こり、成長や向上のための行動がなくなる

・事なかれ主義の末路は、良いも悪いも何もない無影響

nandemoii.com さんより

私の苦しみや虚しさの原因が、これだ!と思いました。
うすうす気づいてはいたのですが、相当重症な事なかれ主義だなと、改めて思いました。

毒親そだちのこころの記事で書いたとおり、私は自分のやっていることや、ふるまい方に自信がありません。
自信がないというのは、少しニュアンスが違うかもしれませんが、要するに、自分がどう行動するべきかの指針が自分の中にないのです。
そうすると、周りの反応によって、行動や意見を変えてしまう。そもそも変える前に、周りの意見や雰囲気から行動を決めているところがあります。
明らかに自分のペースでは無いことも、周りの人が良いと言ったら、やらざるをえなくなってしまうのです。
1人だけ「私にはできません」と言う勇気がないのです。
つまり自分自身の意思で行動しているのではなく、周りに合わせて行動しているだけなんですよね。

よく自分が、風に飛ばされてあちこち舞い飛んでいる紙みたいだなと思うことがあります。
これは行動だけじゃなくて、SNSの記事を読んで、コロコロと考え方が変わったりすることも含まれます。

草食動物は、集団の行動に合わせて動かないと、命が危ういです。
美味しい草を食べていても、周りが逃げたら、すぐに逃げないと、自分が食われてしまいます。
そんな感覚に似ているのかもしれません。

多くは毒親の育て方に原因があると思うのですが、もともと自分の性質(敢えて性格ではなく性質とします)も、草食動物的だったのかもしれません。

思い起こすと、小さい頃、周りが何にも見えていなくて、ポカンとしていました。ボーッとしていて、口をポカンと開けていることが多かったので、よく祖母から「お口をちゃんと閉めなさい」と叱られました。
あの時祖母に躾けられなければ、私は小学校に入っても、口をポカンと開けていて、ちびまる子ちゃんに出てくるボーちゃんみたいな子だったかもしれません。

自分では何をして良いのかわからないので、周りの子の後をくっついて歩いていました。
多くの子が楽しいと思うことに興味が無かったんですね。
ところが恐怖心は人一倍強く、熱が出て寝ていたらお化けが見えたとか、狭いトンネルの中を歩いている時に、車が走ってきて、トンネルの中に走行音が響き渡ると震えるほど怖かった、なんてエピソードが思い出されます。

自分の状況を把握する力は弱いけど、感覚は敏感で、恐怖の対象がたくさんある子どもでした。
周りの状況がわからないから、周りの人の動きに合わせるしかない。
自分の怖いと思うものが、周りの人には怖くないようだから、怖くないと思わなくちゃいけない。
そんな風にして、周りの人の反応を見て行動するくせがついていったんじゃないかな?
そんな私を見て、気の強い母は、やきもきして、何でも先回りしてやっていたんじゃないかと思われます。

発達障害という言葉でくくるのは好きではありませんが、明らかに発達の遅れがあったのだと思います。
でも、こうした認知面の遅れや感覚の鋭さは、成長とともに克服できるもの。それが『発達』なんだと思います。
成長とともに、自力で克服していけば、大人になって、恐れずに自分を信じ、自分の意見を主張できるようになります。

若いうちの苦労は買ってでもしろ
可愛い子には旅をさせよ

このことわざには、未熟な子どもが成長する過程を大切にしなさい。という意味が込められているんじゃないかと思います。

例えば江戸から明治のあたりでは、親が四六時中子どものそばで子どもを見つめていることはありませんでした。
親は一日中働いていて、残された子どもは自分でその日何をするのかを決めて過ごしていました。
子どもも、ぼんやりしている暇がなく、自分のやるべきことを常に考えていた。
発達に遅れがあったとしても、それなりの生活力を身につけていけなければならなかった。
よって自然と、生活に関する思考力が発達していったわけです。

毒親が生まれた背景には、戦後、豊かな生活を手に入れたがために、親にも子にも『暇な時間』が出来てしまい、生活に追われることもなく、親の頭の中で『子どもの成長』を想定して、アレコレ手を焼くようになったからではないでしょうか?

子どもの成長を、親が、全部個人の責任で請け負おうとして、失敗し(人間の浅知恵で人間の成長範囲を想定するなんて、とても無理なので、必ず失敗します)、焦りのあまり、ひどい時には虐待に走ってしまう。

すべてが毒親のせいではないのですが、不幸な巡り合わせで、本来成長できる時に成長できなかった結果の、『事なかれ主義』なのかもしれません。

ボーちゃんは、そろそろ自分で物事を考え、動くクセをつけなければいけません。


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