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合う場所がないのか?合わない場所にしてしまうのか?

次に向けてスッキリと過去を割り切ったかと思えば、途端に嫌な過去にまつわる風景がフラッシュバックして心がきつくなります。
突然、以前の職場の通勤路の風景が思い浮かんできたり。
嫌な思いをした瞬間ではなく、嫌な記憶にまつわる何気ない風景が唐突に鮮明に頭に浮かんでくるのです。

思えば子どもの頃から、自分が辛い思いをしてしばらくあと、その体験にまつわる風景が突然フラッシュバックすることがよくありました。

いちばん古い記憶だと、幼児期に風邪をひいて寝かされていた離れの暗い部屋の風景です。
いつも閉められている雨戸が南側だけ開けられているのですが、それも障子が閉められているので、全体的に暗い。
あるいは、真っ暗な部屋の高いところにテレビが置かれていて、その明かりだけが部屋を照らしているとか。

そこにはピアノが置かれていて、カバーが掛けてあったのですが、熱を出して療養のためにその横に寝ていると、ピアノのカバーがスッと開き、カバーの奥から光る二つの目が覗いていたという恐怖の記憶があります。
夢だったのか?霊現象だったのか?

そういえばこのピアノも、私のために買って『くれた』もので、音がうるさいからと、みんなの居る部屋ではなく暗い離れの部屋に置かれていたのでした。
ピアノの足元に何か居る『夢』を見てから、ピアノの練習は恐怖でしかなかったのです。

恐怖の『療養室』の記憶は強烈です。
その部屋は、ただの部屋でしか無いのに、私にとっては『監獄』だったのでしょう。
体が丈夫になって、さらに家を建て直して、監獄部屋に入れられることが無くなっても、私の中には恐怖の気持ちとともに、その部屋の何気ない風景が思い出されるのです。

楽しい思い出とともにある記憶よりも、辛く悲しい、あるいは恐怖とともにある記憶の方が強烈です。その辛い出来事のピンポイントの場面を思い出すのはあまりにも辛いので、その周辺の記憶が蘇ってくるのかもしれません。
幼児期からすでに、恐怖と寂しさの連続だったので、どうしても嫌な出来事にまつわる風景がフラッシュバックし、何とかその中にも希望があったのではないかと潜在意識が探ろうとしているのかもしれません。
しかし私の中では嫌な記憶の方が強烈なので、実際には良かったこともあったかもしれないけれど、それを記憶の中に探ることは不可能なのです。
だからこそ、嫌な出来事のあった場所の、何事も起きていない穏やかな光景が思い出されるのかもしれません。

そうやってフラッシュバックする『嫌なことにまつわる風景』以上に、良いことや楽しいことも実際にはあったのではないかと思います。
そういえば、『楽しかった光景』が繰り返し思い返されることもありました。それは何故かというと、その『楽しかった光景』を手放さなければならなかった私の悲劇に浸かるためです。
思い出すたびに、もう二度と戻れないと涙していたのです。

あれ?
この心の動きは、とても矛盾しているのですが、目的は一致しているような気がします。
つまりどちらも、自分の心の傷をえぐるための方法なのです。
手足に出来たかさぶたが、鈍い痛みやかゆみが不快で剥がしてしまい、結局また血が吹き出す。それをある部分で快感に感じている自分が居る。
そんなことって、あると思います。
深く傷ついた体験に、心はかさぶたをする。
しかし鈍い痛みはずっと続く。
えぐり出したくなる衝動に駆られる。
その上にどんどん新たな傷が重なっていく。
過ぎた過去の風景のフラッシュバックは、何度も何度も心が折れてきて、もう治ることも剥がすこともできないかさぶたを、表面的になぞっている状態なのかもしれません。

というか、フラッシュバックにつながるような体験を、なぜ何度も繰り返してしまうのでしょうか?
傷の上にまた傷を作ってはいけない。
それなのに同じような傷を作るような経験ばかりする。
前の記事で、『適材適所』ということを書きましたが、明らかに『不適所』ばかりに飛び込んできたわけです。

その場は、本当に私に『合わない』場所だったのか?
それともすでに大きなかさぶたを持っているので、傷を回避すれば良いものを、わざわざ傷に触れさせるような動きをしてしまい、またかさぶたを作るように仕向けているのか?
もし後者だった場合、どこに行っても同じことの繰り返しなのでしょう。
切ない思い出とともに、かさぶただらけの醜い自分を「可哀想ね」と慰めてあげるために……。

フラッシュバックに浸るな!
未来は過去の経験とは違う。
そして自分が『心地よい』と感じることだけを追い求めていけ!

そう自分に言い聞かせていくのが先決なのでしょう。

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