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過去の体験が私を作るのではなく、記憶と反応が私を作っている

長いタイトルになりましたが、ピーター・A・ラヴィーン『トラウマと記憶』を読んで、自分の習い性について、全く違う視点で向き合うことができるかもしれないと思いました。

これまで私は、トラウマを克服するには、徹底的に親にされたことを思い出して自分は悪くなかったと擁護し、自信を取り戻すことが先決と思い込んでいたのですが、この本を読んで、それでは解決が難しいということに気づくことができました。
私の心の葛藤の経緯を以下にまとめてみます。
タイトルだけでなく、内容も長文になります。

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母の対応が、一般の親とはかなり違うものだったことに気づいたのは、もう20年以上前です。
当時私はひどいうつ病の只中にいて、同じくうつ病を患っていた人から、親との関係性について指摘されたことが始まりでした。
その人も、独特な両親に悩まされており、日々家庭内の暴力に苦しんでいました。
私は父からも母からも理不尽な暴力を受けたことはないし、むしろ教育熱心な母親だったので、その人の苦しみのようなものは味わっていない。だからその人に言われても「私の場合は少し違う」と半信半疑でした。
当時は、母の私に対する接し方は、親として当然のものであり、何か居心地の悪さは感じてきたものの、むしろ仲の良い親子の方が幻想で、どの家もウチと似たようなものなのだと思っていたのです。
自分の親しか知らないのですから、そのおかしさに気づくということがそもそも難しかったのでしょう。
私は、教えてくれた人に対して「ちょっと大げさに考えすぎなのでは?」と感じていました。
しかし同時に、母に問題があると意識するようになってから、子供の頃に自分が抱いていた不満は当たり前だったのかも?と思い始め、だんだんと母に対して怒りが湧いてくるのも感じました。
「あれはなかったのではないか?」
「なんて酷い扱いをされていたんだろう?」
と、ポツポツ腹立たしいエピソードが思い出されて、その度に母を恨むようになっていきました。

やがて、母のことを考えると、はらわたが煮えくりかえるような怒りが湧くようになりました。
そして実際に母と会うと必ず意見の食い違いが起き、それもまた腹立たしく、本当に酷い親なんだなという実感を強めていきました。

ある時、私の子どもたちに、私が幼い頃母にやられたことを話すと「酷い!」と言ったのです。
さらに「あの人(母)なら、やりそう」と。
孫は、母の性格を冷静に見抜いていて、子どもの頃に私がやられたことを純粋に、『酷い=自分だったら許せない』と判断したのです。
母が、孫に敢えて意地悪なことをしたことはありません。むしろ母なりに孫を可愛がっていた。しかしその可愛がり方に、孫たちは違和感を覚えていたのでしょう。
私が、何かわからないけれど母の接し方に違和感を感じてきたのは、私がおかしいのではなく、母がおかしかったんだと気づくキッカケになりました。

ちょうど同じ頃、母と私と知人で話している際に、知人から「老後は長女さんに見てもらうのが良いのよ」と言われたことに対して母は、私を前にして「私はこの人と一緒に暮らしたくないのよ」と言ったのです。
本当に一緒に暮らすとか暮らさないを話し合う前に、知人に対してそう言い切る母のデリカシーの無さ、思いやりの無さに愕然としました。
知人の方も言葉を失っていました。

母の毒気はそういう何気ない瞬間に現れる。そして対象者を完膚なきまでに叩きのめすような暴力性を持っているのです。
本人に悪気は無く、周りもなぜこんなにもショックなのかわからないのです。
私は一番付き合いの長い娘だからこそ気づけなかった。その上、幼少期に唯一頼らなくてはならない人だったからこそ、そこまで冷酷な扱いを受けていたと信じたくなかったのです。
言うなれば母は、直接人を傷つける行動や言葉を使わずに、知らず知らずのうちに相手がダメージを受ける遅効性の毒薬のような人だったのです。

うつ仲間に母の問題を指摘され、子どもたちが純粋に母を危険視していたことに気づき、母が面と向かって私を拒絶した経験から、母を徹底的に憎みました。
そこから、このnoteに書いてきたような深刻なエピソードがつらつらと思い出されてきたのです。
しかし、どんなに母の悪行を思い出しても、子どもの自分に同情しても、現在の日常の苦しさはなくなりません。

母と離れていても日常生活は上手くいかない。
すると、自分の方にこそ問題があったから母が冷酷になったのかもしれないと、逆転の発想をするようになってしまいました。
母は酷い人間だとしても、今現在の私の生活を邪魔しているわけではありません。生きにくいのは、私自身の問題でしかないのです。
今現在も焦りと孤独に苦しんでいるのは、自分の性格に難があることが原因なのに、『毒親のせい』と見当違いのところに怒っている自分が情けなくなってしまったのです。

そうやってさまざまな葛藤を抱えてきてふたたび自己否定に陥りそうな時、『ポリヴェーガル理論』というものに出会いました。
ポリヴェーガル理論とは、
人間の神経回路は、大きなショックに出会った時、『闘う』『逃げる』『凍り付く』のどれかを自動的に選択し、危機を脱するように出来ている。しかし受けたショックがあまりにも大きく、その反応によって問題が解決しないと、反応自体が残り続け、生活に影響するようになってしまうということを解いた理論です。
これは災害や戦争などの短期的なショックを受けた時も、虐待などの慢性的なショックを受け続けた時も同じく、いわゆるPTSDと呼ばれる状態によって、物理的には危機を抜け出しているにも関わらず反応だけが残っている状態になってしまうのだそうです。

ポリヴェーガル理論で、慢性的な虐待もPTSDの対象になり得ること、反応の中に『凍りつき』という思考も行動も停止するものがあることを知ったのは、大きな発想の転換になりました。
というのも、私が現在でも苦しんでいるのは、人から強く非難されたり敵視されたと感じた時に、何も反論する気力も行動する力もなくなる『脱力状態』になることが多いからです。
その非難が正しくても間違っていても、私は黙ってしまうので「批判を受け入れた。非難したことは正しかった」と相手に思わせてしまうのです。何も反論しないと、非難や批判はエスカレートします。そうやって抵抗しない私だけに無用な非難が集中していくわけです。
なぜ言い返したり弁明したりすることができないのか?
それが幼少期に繰り返し母から傷つけられてきて、どうやっても回避することが難しかったために『凍りつく』反応で生き延びてきた証なのです。

私が今でもこのような反応を繰り返しながら世の中を渡っていることに気づくと、やはり母の育て方の悪影響のせいで、いまだに社会で上手くいかないのだということが納得できました。
毒親と社会不適合は切っても切れない関係にあり、私の持っている性質のせいではないということがわかったのです。
これは大きな救いでした。

さて、だからどうすれば良いのか?というのが、一番重要なところです。

これまで母の悪行を思い起こし、私がどんなに悲惨な状況に置かれていたのかを振り返ることで、全て自分の問題と考えなくて良いということには気付けます。
しかしいつまでも母を恨んでいても、そこから先には進めず、むしろ恨みつらみの心が大きくなって人格にも影響してしまいそうです。
これでは本末転倒です。

そこでこの先どうすれば良いかを建設的に考えることができるのが、はじめに紹介した『トラウマと記憶』という本だったのです。
例えば、どうしようもない悲劇……災害や戦争に遭った人が、災害が悪かった、戦争が悪かったと言っても誰もどうすることもできない。
他人がどんなに大変だったねと同情して寄り添っても本人の辛さが軽減されることは無いのです。
それは避けようとして避けられるものでは無かったからです。
災害や戦争は一過性のもので、今はその状況から脱している。すると他人は「もう大丈夫じゃない?今はそんなことは起きていないのよ」と言う。でも本人はずっとずっと苦しい。そのうち同情していた人たちも「いつまでもクヨクヨと悩んでいないの!」と残酷に突き放したりするかもしれません。それがまた、二次被害となって本人を苦しめるのです。

本の著者ラヴィーン氏は、その記憶がいつまでも残り続けるのは、本人の顕在意識で固執しようとしているのではなく、被害を受けた当時、本人が生き残るために取った『戦略』が本人の中の『手続き記憶』となって残り続け、全く関係のない場面でその記憶を呼び起こして身体が反応してしまうために、不適切行動となってしまうことが問題なのだと言っています。
この戦略というのが、ポリヴェーガル理論で説かれている『闘う』『逃げる』『凍りつく』なのです。

戦場で爆撃を受けた兵士は、除隊されても日常生活の中で、爆撃で身を守った『手続き記憶』が発動し、全身をこわばらせ、攻撃的になってしまいます。
ラヴィーン氏は、平和な社会では爆撃から身を守る反応をしなくても済むことを、身体の反応の仕方を変えていくことで、身体に覚えさせていくというセッションをおこないます。
なぜ不随意的に体の緊張が起きるのか?それが戦地での記憶であったと紐解くことで、意識と体の両方から『もうその反応は必要ないんだよ』と覚え込ませていくのです。

翻って私の場合。
毒親の性格の影響で子ども時代の自分が辛い目に遭ったと、毒親を憎んでいても何も解決しなかったのは、親が毒親だったことによって、真っ当な育ち方ができなかったり生活に必要な学習をする機会を逃してしまったことや、毒親が頻繁に私を排除したために、「さびしい」「孤独がこわい」「無視されて悲しい」という感情が処理できなくなって、感覚を麻痺させる『凍りつき』反応が身に付いてしまったがために、現在の生活に大きな影響を及ぼしていることが原因だったと考えられます。
あまりにも孤独で寂しい子ども時代から身を守るために獲得した『凍りつき』反応を手放して、親から教えてもらえなかった社会の渡り方を、社会の荒波の中から学んでいく。
それこそが、本当の意味で毒親から解放されて自分の人生を作っていくことになるのだと気づいたのです。

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