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怒り

怒り心頭なので、あえて爽やかな画像を(笑)

毒親への怒りを、ここにずっと綴ってきました。
私の自信のなさ、自己有用感の低さ、人と接する時の恐怖、罪悪感……
生きにくさの根本原因は、生まれてから3歳ごろまでの親の接し方に端を発している事は間違いないです。
しかし、親の洗脳は、学校にあがり先生や友達を知って、いろいろな人が居ていろいろな家庭があることを知れば、ある程度解けていくものだと思います。
思春期にはむしろ、学校や友達と過ごすことの方が大半だったのだから、「なんかウチの家、変だな」と気づくはずです。
また実家を出て、別のところに暮らし、ほとんど親と接する機会が無くなれば、現在の生活の中で、私を悪く言うのは親だけだったと気づいて冷静になれたはずです。
親から離れてもう四半世紀。
父は亡くなり、母とは年に数回しか顔を合わせない。
なのになぜ、いつまでも私は自分に不信感を抱いたままなのでしょうか?

発達障害?私の生きづらさ
という記事を書きました。
要するに、私の行動そのものが社会から『異物』と捉えられることが多く、それはあくまで『印象』であるから、何をどう直せばいいのか、私にもわからないし、周りにもわからない。
でも何だか私の行動にイラつくし、私の行動が他人の行動の邪魔をする。
そういう隔たりが現実にあるということなのです。

親が私をそのようにコントロールしてきた面もあるのでしょうが、私の持って生まれた特性の影響の方が大きいのだと思います。
もしかしたら、親が私に不信感を抱いたのも、私の特性が理解できなかったので、段々と混乱してしまったということもあるでしょう。
この隔たりは、社会の価値観を丸ごと変えないと解決しません。

海水の中に淡水魚を入れたら死んでしまいます。
海水魚はなぜ淡水魚が死んでしまうのか理解できません。
そもそも海水魚は同じ魚の仲間で海水の中では生きられない魚がいることを知らないのです。

人間はそんな単純な生き物ではなく、世の中に多様な動植物がいて、多様な人種がいることを『知って』います。
なのにやっていることは、弱っている淡水魚を理解しようとせず、「弱い魚だなぁ」と死にゆく魚を眺めながら嘲笑っているようなことなのです。

さて、私が怒り心頭なのは、本来なら魚には様々な種類があって、淡水でしか生きられない魚が居ることを知っていて、淡水魚の特性を理解し、淡水魚が生きられるような環境も用意してあげようという立場であるはずの『医者』が、かつて偏見と排除の先鋒に立っていたということに気づいたからなのです。

きっかけはネット上で、過去に発達障害と診断した精神科医から
「あなたの症状は治らない。私にやれる事はない」
というような趣旨の発言をされたという書き込みを見たことでした。

20年ほど前、私が重度のうつを患っていたことは、ここでもよく書いてきました。
日中は身動きができず、少し動いてもめまいがしたり、過呼吸になったり。
夜になると目が冴えて眠れず、希死念慮と悪夢の繰り返し。朝になるまでが恐怖の時間でした。
幸いネットで同じ症状に苦しむ人と繋がることができ、お互いに苦しさを伝え合うことで、何とかその日その日の苦しさをしのいでいたのです。

私にとっては『最重度』の状態だったと思うのですが、医者は症状をどんなに訴えても『軽度』としか診断しませんでした。
仕事上のストレスで、気分が落ち込み、食欲が落ち、疲れやすくなった人と、同じレベルだと考えられていたのです。

私が訴えるたびに、さまざまな心理検査をこころみたり、薬の量を増やしたり、種類を変えてみたり……。
同じ病院でカウンセリングを受けていたのですが、カウンセラーはただただ私の話を聞いているだけ。いわゆる『傾聴』を徹底的に貫きました。
2時間でも3時間でも、どんなに長く話しても結論は出ませんし、気持ちも落ち着きません。落ち着くどころか、話せば話すほど自己嫌悪に陥っていきます。
さらに、私が原因だと思っている夫との関係をどうにかしたいと思い、夫婦カウンセリングを申し込むと、「いくら夫婦でも守秘義務がある。夫の課題とあなたの問題は別!」と受け付けてもらえませんでした。
その時、夫は仕事上のストレスで過敏性大腸炎を患っていて、同じ病院に通っていたのです。
うつで身体が動かないので横になっている私を、毎日蔑んだ顔で睨みつけて、「起きて○○をやれよ」と命令してくる夫を何とかしないと、良くなるものも良くならない。
だからせめて、夫に私の病状を伝えて欲しかったのに。
そもそも医者が私の症状を『軽度』と考えている時点で、無理な話だったのですが。

医者がなぜ、私の症状をハナから軽視し、私の話を聞こうとしなかったのか、今回目にした書き込みから、そのカラクリがわかりました。

20年以上前……。
当時は『発達障害』というものがあまり知られていなくて、自閉症といえば言葉と知的遅れのある人という認識から、知的遅れが無くて言葉も饒舌であっても、軽度の自閉症とされる認識が広まり『アスペルガー症候群』という症例が認識されるようになりました。
当時、アスペルガー症候群や自閉症自体は正式な診断名として使われておらず『広汎性発達障害』という診断名で大きく括られていました。
広汎性発達障害と、現在使われている発達障害は重なるところはあっても分類としては別物です。広汎性発達障害というのが広義の自閉症を指す名称だったのです。

『アスペルガー症候群』と呼ばれる人たちの中には、非常に知能が高く饒舌な人が多く、しかしその考え方や物事の捉え方が一般の人とは違っているので、彼らが本音で話す内容は時に『過激』だったり、自覚なく他者を攻撃したりしてしまうことが目立っていました。

そんな中で起きたのが神戸の中学生が小学生を殺害し、遺体を損壊した猟奇的な事件です。
犯人である中学生が『アスペルガー症候群』と診断されたことが報道で大きく取り上げられたため、一気に世間の耳目が集まりました。
一般とは異なった感じ方考え方を持ち、実力はあっても集団に馴染めない人を、『アスペルガー症候群』と名付け、さらに猟奇的事件を起こす可能性もあるリスキーな人物として、世間が一気に危険視し始めたのです。
そんな世間の偏見に対して、当事者の怒りは当然生まれます。
するとネット上で様々な思いを発信するうちに、かなり危険な思想を公言する当事者も現れ始め、ますます世間の偏見が強まってしまいました。

医療からすれば、発達障害は生まれた時から持って生まれた特性であり、治療対象ではないのです。
しかし実際には、そのような攻撃的な言動をする人や落ち込みの激しい人は、治せない発達障害の特性を持っていながら、治療の対象となる精神疾患に罹っているわけです。
つまり二次障害の精神疾患なのです。

しかし当時の精神科界隈では、アスペルガーの特性と、社会の偏見と、偏見によって引き起こされた二次障害をひとくくりにしていて、『治すことの出来ない危険思考の持ち主』として見限っていたのです。

私はその当時、ハッキリと診断名を伝えられることがありませんでした。
主訴は『鬱病=気分障害』なので治療対象にはなるのですが、私が訴えるままに様々な検査をおこなった結果、医者は私が発達障害=アスペルガー症候群であることを確信したんだと思います。

鬱を引き起こしているのは、私の持って生まれた特性なのだから治療不可能。
しかし本人はそれを主訴としていないので、診断名を告げることができない。
本人はアレコレ治療方針に口出しをする元気がある=軽度。
鬱の症状があり本人が訴える限り、医者としては「もう大丈夫」とも「治療不可能」とも言えない。
本人は「夫が原因」と訴えるが、原因は明らかに本人の(攻撃的な)特性であり、夫は被害者である。

と、こんな風に見立てていたのだと思います。
そう考えると、どんなに長く通院しても、色々なものを試しても、効果がなかった理由がわかるし、医者やカウンセラーのあの投げやりな態度も納得できます。

医者だからといって、全ての病に詳しいわけではない。
全ての症状に精通しているわけではない。
むしろ日本の精神医療は、アメリカに30年遅れていると言われています。
こんな偏見がまかり通っていた時代、アメリカでは発達障害者に対して、その特性に応じた就労や生活の場を与え、社会の重要な成員として活躍してもらうよう制度を整えようとしていたのです。

医者がグローバルな視点を持たずに、診断を下した当事者と、本人が自覚していなくても勝手に診断を下した患者を、自分たちの範疇ではないと見限り、間接的に社会の偏見を助長し、苦しむ当事者にさらなる苦しみを与えていたことは、絶対に許しがたいことです。
当時の精神医学界を人権侵害で訴えても良いくらいの悪業だと思います。

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